8.その 異世界鉄道の朝に…
「んぅ~~。……ほわぁ……」
湯船に身を沈めると、思わずそんな声が漏れてしまう。
「……ぁ~~……」
浴槽のすぐ横には、風呂桶を湯船に、そんな声にならない声を思わず漏らすナツも居て。
夕飯後さほど経たぬうち、浴室には、そんな平和な光景が広がっていた。
用意された部屋の寝室側の広さも手前の部屋と同じくらいで、寝室と浴室はだいたい半々、いや、脱衣所や洗面室も含めれば浴室側の方が広いくらい。
その浴室の更に半分近くを占める大きな浴槽には、ちょっと熱く感じるくらいのお湯がたっぷり張られており、ここだけはホテルというよりは温泉宿と言った方がお似合いかも知れない。
何にせよ、浴室がこのように立派であることは、私達にとって僥倖と言って良い。――そう、私“達”だ。
ナツは生まれた時から飼い猫だったからか、さほど水を嫌がらない。
……まあ、不意打ちで冷や水を浴びせられれば、奇声を上げるわけだけれども、それはともかく。結論を言えば、ナツはお風呂が、というか、お湯に浸かるのが大好きだ(シャンプーはやっぱり好きじゃないみたい)。
その好きさ加減といったら、冬場などは、私が入浴しようと寝間着の用意を始めると、猫にとっての楽園であるはずのこたつに別れを告げてまで、私の元へやってくるほどだ。
流石に夏場は積極的ではないけれど、そういえばこちらの世界は夏着の私が暑くも寒くもない、心地良い季候だ。そんな中で身体を冷やしたナツが、浴室を見るなり「おふろ、おふろ!」と私をせっついたのも、当然のことか。
そのナツは浴室に入るなり早速手頃な桶を咥えて引きずってきて「おふろ!」と鳴いた。その姿は若い頃のナツそのままで、あの頃の鳴き声はこういう意味だったのか、なんて、私は感慨深かったりしつつ。
その桶に浴槽からたっぷりお湯を掬ってあげると、ナツは、熱いお湯につかろうとする人間の如く、ゆっくりとお湯へ身体を沈めてゆき、桶の縁に顎を乗せて、それはそれは幸せそうに目を細めた。
そんな幸せそうなナツにほっこりしながら私が身体を洗い終えてしまう頃に、ナツは桶から上がって「熱いのにして」と鳴いた。これもまた昔の、そしてこれは最近でも、ナツがよく見せる姿で。
私はリクエスト通り、桶に新しいお湯をたっぷり掬ってあげると、自らも湯船へと身を沈めていった。
――そうして、一人と一匹がだらしない表情で平和を享受する光景が生まれたのだった。
ベッド脇のサイドテーブルに載っていたピッチャには、水が冷たく保たれたまま入っていて、風呂上がりの火照った身体に染み入る(人間用のグラスの他に、猫用の容器もちゃんと用意してある。至れり尽くせりだ)。
寝室にあるベッドは一つ。但し、クイーンサイズなのかキングサイズなのかは分からないが、とにかく大きい。
ただ、枕はその中央よりも横に寄っていて、その空いた側に、もふもふの素材で出来ている、小さいかまくらのような物が置いてある。
それが何か、なんてことは、今更考えるまでもなかった。
だって、見るからに猫が喜びそうな狭さなんだもの。
案の定、ベッドに飛び乗って“それ”に気付いたナツは、中を覗いて空だと分かると、嬉しそうにその中へ身を潜らせる。
私が寝る準備を整えて戻ってくると、ナツはその中で丸まったまま既に眠っていた。私が近付いても反応がなかったあたり、深い方の睡眠だろうか。
思えば、今日は昼前から動き詰めだった。いくらナツがこちらの世界では若い頃のようだといっても、昼寝もせずに動き回っていたのだから、疲れていても不思議じゃない。
――それに。
モンスターが出た時や、私が水を掛けてしまった時、ナツは必死に私を守ろうとしていた。その為にずっと気を張っていたのなら、身体だけでなく、精神的な疲れだってあるだろう。
「……ありがとうね、ナツ。おやすみ」
囁くようにそう言って、また不思議な出来事だらけだろう明日に備えて、私も早めに就寝することにした。
翌朝。
上半身を起こしたまま暫くぼんやり。そして、ようやく頭が覚醒してくると、サイドテーブルに、昨日は無かった物が増えているのに気付いた。
一つは、ネックストラップと繋がったパスケースと思しきもの。
もう一つはSDカードくらいのサイズの、やはりパスケースだろうか、ネックストラップではなく、広い面の片側に留め具のようなものが付いている。
恐らくこれは、私が感じたとおりパスケースなのだろう。その中身はパス、つまりは列車に乗るために必要なもの。
小さい方はナツ用か。そう見れば、ちょうど首輪に付けられそうだ。
これらがいつどうやって現れたのかは、最早考える気も起きなかった。
――ふと、部屋を見回す。
普段寝付きが良いとはいえない私が、昨日の夜、寝ようと思って横になった後の記憶が全く無い。それだけベッドも枕も快適だったのだろう。お風呂も素晴らしかったし、夕飯だって、ナツの食事を見た後にレトルトのようなカレーを想像していた私は良い意味でそれを裏切られた。
そんな、些細かも知れないけれど快適だったあれこれを思い出して、たった一泊しただけなのに、名残惜しいような気持ちになる。
だけど、ナツの姿を見れば、帰りたい、という気持ちが強く心に感じられる。
「ナツ」
小さめの呼びかけに、だけどナツはピクリと耳を反応させて。
「……おはよう、カノ」
大きく口を開けて欠伸をした後、まだ気だるそうに、挨拶をしてくれた。
昨日の駅員さんに見送られて改札をくぐった先の通路は、すぐに開けた。
左手側に、列車が止まっているのが見える。プラットフォームの幅が広いので列車までは微妙に距離がある。
プラットフォームは列車を回り込んだ向こう側にもあるようなので、単線で走る列車なのだろうか。
一番手前側の車両はコンテナ車みたいだけど、側面に入り口がいくつか付いている。コンテナを載せて運ぶ車両ではなく、それ自体がコンテナっぽい車両だ。
それが二両続いた先にあるのが客席のある車両のようだ。
出入り口は新幹線などのように前部と後部だけ。こちらも二両だが、車両の窓にはカーテンが掛かっているのでその中は見えない。
更にその先に比較的短めの車両。牽引車だろうか、ちょっと汽車っぽい印象だけど、煙突は見当たらない。
そういえば線路の上に電線は見あたらないし、列車の上部にパンタグラフも見えない。地面側から集電するのか、それともやはり魔法の力で動くのだろうか?
そんなことを考えていた私の元へ、とことことやってきたのは、胸元の白ぶちが目を引く黒猫。こちらもかわいい帽子を被っていらっしゃる。
「どうも。車掌の、ケト・サンです」
「えっと、よろしくお願いします」
「にゃーん」
声音は女の子みたいだけど、どことなくとぼけた感じのするケトさんの挨拶に、私も今更驚くこともなく、反射的に挨拶を返す。そして相変わらず、ナツが他の子と喋る時の言葉は分からない。
しかし……何となく、もにょっとする名前だなぁ。自分より大きな黒猫じゃないだけマシだけど――なんて思いつつも、子供の頃に見た作品のように、おでこに、ポポン、とスタンプを貰うことをどこかで期待していた自分に気付いて、苦笑いが浮かぶ。
「それでは、二名様、ご案内いたします」
ケトさんはかわいい声で、でも、如何にも車掌さんといったしゃべり方でそう言って、私達を客室まで案内してくれたのだった。