3.廃墟、或いは、楽園
高台から見えた壁は、こうやって近くで見ると想像していた以上の迫力だ。
私の身長の二倍以上はある壁は見るからに頑丈そうで、苔生した様子からは年季が感じられるが、ここまでで見えた範囲ではどこにも破損の様子は見られない。
先ほどの小鬼程度であればこの壁を突破できなさそうではあるので、壁が無事ということは、この辺りにはあれ以上に恐ろしいモンスターはいないのかも知れない。とは言え、こんな壁が必要であること自体が大きな脅威が存在する証明とも考えられるので、やはり安心もできなかったりするのだけど。
最初に太陽(と思しきもの)の位置から推測した方角が正しければ、私達を西へと導いてきた道は真っ直ぐに入り口へ向かっているのではなく、壁の角の近くへと突き当たり、そこから壁の周りに沿うようにして左右の二手に分かれていた。
その道を左側に進んで暫くして、道の先、というか壁に変化が現れた。恐らくは門扉のある部分なのだろう、道の側へ少し迫り出している。
「ちょっと待って、ナツ。……緊張してきた」
「分かった」
私の言葉に、ナツは立ち止まってそれだけ答えると、その場で前足をペロペロと舐めて顔をぐしぐしと毛繕いを始めた。仲間に会う前に身だしなみを整えるということだろうか。でも、猫が毛繕いをするのはリラックスするためと聞いたこともあるので、ナツも緊張しているのかも知れない。
そんなナツの様子にちょっと和みつつ、私は私で心の準備を整えようと、深呼吸をする。
思えば、扉をくぐってこっちに来てから出会ったのは、あの小鬼のモンスターだけだ。ナツが言うには、この先にはナツの“お仲間”がいるそうだが、その世話をしている人間にも会うことになるかも知れない。
それが人間であるなら良いのだが、知性の有るモンスターや、それとも全く違う更に未知の存在と出会う可能性も、否定できるほどに私は楽観的ではないので、何があっても驚かないように、良くない事態も想定して、しっかり心構えをする必要があった。
気になることもある。ここまで壁際を歩いてきたけど、自分の足音の他には意識に届く音がなかったのだ。聴覚に意識を集中しても、聞こえるのは風や葉擦れの音、または虫や鳥と思われる鳴き声のようなものといった、いわゆる環境音だけ。いくら壁が頑丈で分厚いからといって、ここまでひっそりとしていると、その壁の向こうには、人間はおろか、猫の存在さえ疑いたくなる。
ただ居ないだけならまだ良い。でも、ナツが嘘を言うとも思えないし、そうなると、居たはずの猫を消した存在が居るという可能性にも考えは及ぶ。
そうやってあれこれと考えていると、ふと思い出す。
――カレには、私の考えすぎるところは短所でもある、なんて言われたこともあったっけ。
でもこればっかりは性分というもので、やっぱり変えられそうにもなかった。
そんな風に私の思考が逸れ始める頃には、ナツのいつもの毛繕いルーティンは締めに入ろうとしていた。
シンクロナイズドスイミングを連想するような、ピンと綺麗に立てられた後ろ足を舐め終わると、最後に、足の間を通した尻尾を前足で器用に押さえながら、根元の方から先端へと舐めていく。
そういえば――と、高校の頃に家に遊びに来た友人がこのナツの姿を見てゲラゲラ笑い出したのを不思議に思って尋ねたら、本当に“下”らない理由で、心底呆れたことを思い出した。
そんな、女子にしては些か男前なところのある彼女とは大学は別になったが、住まいは近いので高校卒業後もちょくちょく顔を合わせていたっけ。
――あの子は、私が突然居なくなったことを、心配してくれるだろうか。
そんな考えが浮かべば、まだこの世界に来てしまったばかりだというのに、郷愁の念を覚えずにはいられない。
「……それじゃあ、ナツ。行こう」
私は内心に焦りのようなものを自覚しながら、ナツの毛繕いの終了と同時に、そう声を掛けて歩き出した。
その先に広がっていた光景を一言で表すならば、廃墟、だった。遠くから見たここの光景に違和感を感じたのは、そのせいかも知れない。
門の向こうのその光景を遮るものはなく、その役割を果たすはずだった“扉だったもの”は内側に寝そべり、その厚さと頑丈さで、左右に続く道の半分近くを塞ぐ迷惑な障害物となっていた。
――にゃー。
建物は一軒一軒が充分なスペースを空けて建てられていて、そのほとんどが石造りのようだ。もしかしたら、石造りの建物だけが形を保って残っているだけなのかも知れないけど。
――みゃー、みゃー。
正面の道を進んで中心部へ向かうにつれて、それら建物に暴力的な破壊の痕跡が目立ってくる。中には完全に崩壊した建物もあり、あの小鬼などよりもずっと恐ろしいモンスターの存在を連想せずにはいられなかった。
――んにゃぁ。
全く人の気配の感じられないその、元は立派な町であっただろう廃墟は、今はとても寒々しく、とてももの悲しい場所――の、はずだった。
――にゃーお。
だけど。
人によっては、この場所こそが、この世の楽園であると言うだろう。
――にゃにゃーっ!
道を歩く私達が見かけたもの、それは。
黒。
白。
ブチ。
キジトラ。
サバトラ。
茶トラ。
三毛。
サビ。
見慣れた日本猫はもちろん、私に分かる種類だけでも、もふもふのペルシャやシュッとした印象のロシアンブルー、ずんぐりしたように見えるのはマンチカンだろうか。スリムで耳が大きく見えるのはアビシニアン? もしかしたらアメリカンショートヘアやブリティッシュショートヘアなんかも私が区別できてないだけでそこら中にいるのかも知れないし、他にもあまり見ないような見た目の子がちょこちょこいる。
そう、ここはネコの坩堝。
この町の支配者は、ネコ達だったのだ。
――にゃっにゃにゃーん!!
見かけた猫達と、ナツは時折にゃーにゃーと軽く言葉を交わしたりしつつ、奥へ奥へと歩いて行く。
こういうときこそ、猫達がどんな会話をしているのか聞こえたら良いのにと思うのだが、残念ながらさっきからナツの言葉もいつもの鳴き声にしか聞こえない。私に向かってしゃべる時しか言葉として認識できないのかも知れない。
ただ、こんな場所にあっても、目の前で繰り広げられている光景に微笑みを禁じ得ない。言葉なんて解らなくても、かわいいものはかわいいのだと思い知る。
そして、これだけたくさんの猫達を見て、改めて思うこともある。
これを言葉にしたら、恐らくそれを聞いた多くの人は、やれやれと呆れるのだろう。
それでも思わずにはいられないこと、それは――。
うちの子が、一番かわいい。
うちの子が、一番かわいい!
……自分が変なテンションになってるのは分かるけど、これだけ多くのにゃんこ達に囲まれれば、仕方ないよね。
「カノ、この先にこの町の長老がいるそうだ。物知りらしいから、会いに行こう」
変に浮かれている私の内心を知ってか知らずか、ナツはマイペースだ。
「……分かった。案内、よろしくね」
でも、そんなところも猫の愛嬌だ、なんて思うのだから、私もつくづく親バカ(それとも姉バカ?)だ。
そんなことを考えながら、どことなく嬉しげにふらふら揺れるナツの尻尾を追いかけた。