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第6話 心臓に悪いおやすみ

 そんな、隣を歩く彼女の頭の中で繰り広げられている冷静な分析と、少しずつ確かに溶け始めている甘い感情など、伊沢が知る由もなかった。


 彼の意識はただひたすら、左手に握られた柔らかくてひんやりとした感触だけに集中している。


 交差点を曲がり、原田さんの家へ続く静かな住宅街。


 伊沢は『本物の紳士』であるための理性を総動員して歩幅を合わせながら、同時に「真希ちゃん」と呼べた自分の小さな勇気を、心の中で何度も何度も反芻しては、誰にも見えないガッツポーズを繰り返していた。


 やがて、見慣れたアパートの前に辿り着く。


 名残惜しさを噛み殺し、伊沢はゆっくりとその手を離した。


「じゃあ……また明日な」


「はい。送ってくれてありがとうございました」


 いつものように頭を下げ、アパートの階段へと向かいかけた彼女が、ふと立ち止まって振り返る。


 夜の闇に紛れてもはっきりとわかる、小悪魔のような、それでいてひどく初々しい笑顔。


「おやすみなさい、尚樹くん」


 その甘い一撃を無防備に食らい、伊沢はついに完全に言葉を失った。


 パタパタと階段を上がっていく彼女を見送りながら、伊沢は生ぬるい秋の夜空を見上げ、誰にも聞こえない歓喜の雄叫びを上げた。

お読みいただき、ありがとうございます。


1993年のあの頃を思い出しながら、一筆一筆、熱量を込めて書きました。


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