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第4話 見透かす師匠と、狂わされる熱 ~「恋人繋ぎ」という名の麻薬~

◆上の空のシフトと、見透かす師匠の眼力


 翌日のシフト。伊沢は開始早々から、絶望的なまでに使い物にならなかった。


 レジの釣銭を数え間違えそうになり、バックヤードでは補充用の資材の山を危うく崩しかける。そのたびに変な汗をかいては、誤魔化すように咳払いをした。

 無理もない。伊沢の右手には、昨夜の交差点で触れた「ひんやりとした彼女の指先」の感触が、まるで焼き印のように熱く残ったままなのだ。


『明日のバイト終わりも、あたしの専用カイロ……空けておいてください』


 街灯の下で上目遣いに放たれたその言葉が、脳内でエンドレスリピートされている。

 どう考えても、今日の帰り道は「手をつなぐ」という明確なミッションが……いやいや焦るな、成り行きを大事にしろ。そんな葛藤を抱えたまま、平常心で接客などできるはずがなかった。


「……伊沢さん、お疲れ様です。そこ、代わりますよ」


 不意に背後から声がかかり、伊沢はビクッと肩を揺らした。

 振り返ると、制服に着替えたばかりの原田さんが、少し小首を傾げてこちらを見ている。

 昨夜あんな特大の爆弾を投下して逃げたくせに、今日の彼女は恐ろしいほどにケロッとしていた。いや、よく見ると、すれ違いざまに伊沢の顔を覗き込み、ほんの少しだけ口角を悪戯っぽく上げている。


 ……わざとだ。このSJK、俺が動揺しているのを絶対楽しんでる。


「あ、ああ。悪い、お願い」


 平静を装って持ち場を譲り、逃げるようにバックヤードへ向かおうとした伊沢の首根っこを、不意に強烈な力でガシッと掴まれた。


「おい、尚樹。お前、今日どうした。さっきから動きがカクカクしてんぞ」


「でえっ…! あ、赤星さん!!」


 振り返ると、腕組みをした師匠が、猛禽類のような鋭い目でこちらを見下ろしていた。


「い、いや、別に何でもないですよ! ちょっと寝不足なだけで……」


「ふーん……寝不足ねえ」


 赤星さんはニヤリと唇の端を歪め、伊沢の顔と、その奥でレジ打ちをしている原田さんの背中を交互に見やった。


「昨日、しっかり送ってった結果の『寝不足』か。……ほう……」


「いやいやいや……まだなんもできてないんすよ……」


「ほー……なんだ、尚樹。青春しとるなあ。行くときは行けよ!」


 ポン、と伊沢の胸板を軽く叩き、赤星さんは笑いながら奥へ消えていく。

 適当だが愛のある助言を受け、伊沢はたまらず苦笑いした。


 師匠の言う通りだ。十八歳の男が、年下の女の子にドギマギさせられている。

 昨夜の余韻で動きがカクカクしてしまうのも情けないが、それでもやっぱり、今日もバイトが終わるのが楽しみで仕方ない。


 伊沢は小さくため息をつき、制服のズボンで右手のひらをギュッと擦り、気合を入れ直してフロアへ戻った。



◆九月の予行演習と、勇気の体温


 バイトの閉店作業を終え、夜風が吹き抜ける外に出る。

 九月の空気はまだ生ぬるい。けれど、隣を歩く原田さんの気配だけは、昨夜よりもずっと鮮明に、すぐそばに感じられた。


「……伊沢さん、自転車。代わりますよ?」


 原田さんが悪戯っぽく、昨夜の台詞をなぞるように言った。

 伊沢はドキリと心臓を跳ねさせながらも、今夜は引かなかった。師匠の「尚樹、行くときは行けよ」という言葉が、背中を強く押していた。


「いや、俺が持つ。……それより」


「……はい?」


 伊沢は自転車を右手で支え、空いた左手を彼女の方へ、ぎこちなく差し出した。


「冬の……予約。……今から予行演習、しとかないか?」


 その言葉が口から出た瞬間、自分の顔が沸騰しそうなほど熱くなるのが分かった。

 原田さんは一瞬、きょとんとして足を止めた。街灯の下で大きく見開かれた瞳が、伊沢の差し出された左手と、その顔を交互に見つめる。


 ……あ、これ、滑ったか? 九月にカイロは早すぎたか!?


 後悔の波が押し寄せ、慌てて手を引っ込めようとしたその時。

 ひんやりとした、でも柔らかな感触が、伊沢の手のひらに滑り込んできた。


「……。ふふっ、予行演習、大事ですね」


 原田さんの細い指が、伊沢の指の間に、一本ずつ、ゆっくりと絡まっていく。

 いわゆる「恋人繋ぎ」というやつだ。

 九月の湿り気を帯びた夜風の中で、そこだけが異質なほどの熱を持って密着していた。


「……。あったかいですね、やっぱり」


 俯き加減で呟く彼女の、耳の端が真っ赤になっているのが見える。

 伊沢は、壊れ物を扱うような慎重さで、その小さな手をギュッと握り返した。


 まだ、九月。

 冬なんて、ずっと先の話だ。

 それでも、繋いだ手から伝わってくる彼女の鼓動が、伊沢を「欲望が抑えられない男」へと変えていく。女の子の熱という麻薬に、気が狂わされそうな衝動を抑えるのに、伊沢はただ必死だった。




お読みいただき、ありがとうございます。


1993年のあの頃を思い出しながら、一筆一筆、熱量を込めて書きました。


もし「続きが気になる!」「エモい!」と感じていただけたら、【ブックマーク】や【評価(☆☆☆☆☆)】で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!

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