3-4話_Lord to Quartz
湿地の水面が爆ぜる。
霞が踏み込んだ瞬間、ラムダの風が一直線に奏へ迫った。
速い。
いや、速すぎる。
水霧の中へ、霞の姿が掻き消える。
だが。
今の奏には見えていた。
水飛沫の流れ。
風圧。
ラムダのイデアが空気を裂く“前兆”。
それら全てが、奏の感覚へ流れ込んでくる。
(……見える!)
奏は銃を構える。
蒼いイデアが銃身内部を脈打った。
呼応するように、周囲の水飛沫が旋回する。
湿地全体の水が僅かに震えた。
霞の瞳が細まる。
(こいつ……!)
順応している。
あり得ない速度で。
共鳴も知らない。
イデアの扱いも未熟。
それなのに。
目の前の男は、戦いの中で成長し、霞へ追いつこうとしていた。
肺が焼ける。
全身が軋む。
それでも霞は止まらない。
いや、止まれるわけがなかった。
「終わりだァ!!」
ラムダのイデアが収束する。
湿地一帯の空気が霞の剣へ吸い込まれていく。
風が唸る。
水面が裂ける。
対する奏もまた、無意識に引き金へ指を掛けていた。
蒼いイデアが脈打つ。
アビスが静かに呟く。
『奏』
「…」
低く、深海のような、深く、言葉の裏に何か意味を込めるように。
『力に呑まれるでないぞ』
だが奏は止まらない。
怖い。
怖いはずなのに、それ以上に高揚していた。
世界が鮮明に見えている。
霞の踏み込み。
風の軌道。
ラムダの“予兆”。
その全てが、今の奏には感じ取れていた。
霞が踏み込む。
奏が引き金を引く。
二つの光が激突する―――
その瞬間だった。
ピシッ。
微かな、小さな音。
本当に微かな放電音だった。
奏でに切りかかる霞の頬を、細い紫電が追い越していく。
「―――っ!?」
次の瞬間。
頬に熱が走った。
霞の頬から、細く血が流れる。
見えなかった。
反応すらできなかった。
霞の視線の先、奏の目の前に、
そして。
二人の間に、一人の女子生徒が立っていた。
艶やかな黒髪を静かに揺らしながら、彼女は片手剣で霞の剣を受け止めた。
金属と金属がぶつかり、空気が振動する。
奏では本能的に、引き金を引く指を止める。
少し、震えているのが分かった。
そして、彼女の肩。
そこへ静かに張り付く、一匹の異様な殺気を放つ生物。
細長い体躯。
黒曜石のような鱗。
尾の先から漏れ出す紫電。
その召喚獣は、ゆっくりと頸膜を広げた。
バチ……ッ
空気が帯電する。
頸膜内部へ、雷雲のような紋様が浮かび上がった。
湿地の水面へ細い紫電が走る。
小さな体躯。
だが、その存在感は異常だった。
観戦していた教師たちが息を呑み、言葉を失う
『……この感じ』
(……誰だ?)
アビスの声色が変わる。
奏の緊張に、困惑が交わる
奏の蒼いイデアが静まっていく。
まるで押さえつけられるように。
ラムダの風もまた、威圧されるように鳴りを潜めていた。
数瞬遅れて。
ゴロ……
低い遠雷が、湿地全体を震わせた。
彼女は怒鳴ることなく。
ただ静かに、霞を見ていた。
その視線が向けられた瞬間。
(ゲッ……姉貴…)
霞は反射的にそう思った。
―――怒ってる。
肩が僅かに跳ねる。
頬を伝う血を指先で拭いながら、
「……ははっ」
霞は乾いた笑みを漏らした。
「マジかよ……」
普段なら絶対に崩さないはずの余裕が、ほんの一瞬だけ剥がれていた。
だが。
彼女はそれ以上何も言わない。
ただ腰へ手を当てたまま、小さく息を吐く。
「霞、無茶しすぎ」
短い一言。
それだけだった。
なのに。
霞はそれ以上、一歩も前へ出られない。
彼女の肩では、黒紫の鱗を纏うトビトカゲのような容姿の召喚獣が
頸膜を広げたまま静かに奏側を睨んでいる。
対するアビスもまた、水面を低く滑るように移動し、彼女らから目を逸らさない。
側から見れば、ただ二匹の小型爬虫類が睨み合っているだけだった。
だが。
湿地を満たす空気は、明らかに変わっていた。
バチ……ッ
紫電が水面を走る。
蒼い水飛沫が、ゆっくりと宙を漂う。
彼女はそこで初めて、奏を見る。
蒼いイデア。
脈打つ銃身。
そして、その奥にいる“何か”。
彼女の瞳が、僅かに細められた。
「キミが噂の!私は獅堂 旭、霞の姉です。よろしく!」
「よ、よろしくお願いします…?」
「私のバカ弟がごめんね…!…あ、彼女は私の相棒で、名前は『バアル』っていうの。」
『ふっ、面白い…』
不意に、アビスが笑う。
深海の底のように静かな声で。
湿地へ静寂が戻る。
残るのは、水滴の音だけだった。




