第二十六章 夏姫革命 12
十二
顔に冷たい雫が降りかかり、榎は目を覚ました。
薄暗い空間に、榎は横たわっていた。ゴツゴツした固い感触が背中に広がる。
周囲の壁に取り付けられた燭台に、明かりが灯されて、ぼんやりと周囲の様子が見えた。
どうやら、岩造りの洞窟の中らしい。落ちてくる雫は、天井から滴る湧き水か。
「お目覚めかな、夏姫どの」
首を回して周囲を見渡す榎に、頭上から声を掛ける者がいた。体を起こして声のする方向に目を向けると、穏やかな表情の老人が岩に腰掛けていた。
「あなたは、安倍晴明!?」
意識が一気に覚醒して、榎は驚きの声を上げる。声は洞窟内に反射して、激しく響いた。
「ここは、あの地下道なのか?」
老人――晴明の姿を認識して、ようやくこの場所がどこなのか分かった。
だが、榎は平安京のほぼ中心部に位置する、伝師の屋敷にいたはずだ。なのにどうして、京と外を繋ぐ洞窟の中にいるのだろう。
「伝師の屋敷の真下にも、この道は繋がっております故、地面が砕けて落ちてこられたのですな。崩落が激しかったので、少し手前の通路に移動させてもらいました」
榎の疑問を察したのか、晴明が淡々と応えてくれた。
屋敷の下に洞窟があったから、悪鬼を追い払うために力を使った反動で、床が抜けたのだろう。
納得はできたが、落ちてから気を失っている間に、何が起こったのか、よく分からない。
「あたし、どれくらい気を失っていたんですか」
「なに、ほんの一刻といったところじゃ。落ちてきてから、そう時間は経っておりませぬよ」
「紬姫は、悪鬼はどうなったんでしょうか?」
「あなたが呼び出した四神の力によって悪鬼は追い出され、平安の京には結界が張られた。しばらくならば、悪鬼の侵入を食い止められましょう。紬姫は、そちらに」
晴明が指差した先に、紬姫はいた。
こちらに背を向けて、座り込んで蹲っている。
側まで歩み寄ってみると、紬姫の目の前には、夏の体が横たわっていた。
もう、死んでいると分かっていながらも、晴明は夏の体も崩落から助けて、運んでくれたらしい。
「夏殿は転生の輪に入られ、あなたが完全なる夏姫の力を手に入れられた。魂の継承、とでも申しましょうか。なんとも、興味深い現象が次々と起こる」
晴明は楽しそうに、顎髭を擦っていた。
「紬姫――」
榎は、紬姫に声を掛けた。紬姫は何の反応も示さない。ただ背を丸めて、じっと、夏の死に顔を眺めているだけだった。
しばらくして、放心状態だった紬姫がゆっくりと頭を上げ、語り掛けてきた。
「かような思いをしながらも、妾は生き続けねばならぬのだな。夏の血を、未来に繋ぐために。伝師の過ちを、清算するために」
紬姫の声には、覇気が感じられなかった。今までとは比べ物にならないくらい弱々しく、衰弱している。そのせいで、気持まで弱くなっているのだろうか。
その命の灯が、今にも消えてしまいそうに思えた。
「ご無理をなさるな。あの巨大な悪鬼を吐き出したせいで、随分と力を失っておられる」
榎の記憶が、蘇る。
夏の死をきっかけに、紬姫の中に眠っていた、様々な憎しみや恨みの感情が爆発して、表に溢れ出た。あの凄まじい邪気は、紬姫の中に流れる悪鬼の血から生み出されたもの。つまり、紬姫の生命エネルギーの一部でもあったのではないだろうか。その多くが外に流出したことで、紬姫の体力が著しく低下しているのかもしれない。
紬姫も心配だが、紬姫が生み出した、あの巨大な悪鬼についても、考えなければならない。
夏姫の禁術によって京の外には追いやったものの、倒したわけではないのだから、根本的な解決になっていない。
「紬姫、あの悪鬼を何とかできませんか?」
紬姫の中から生まれ出た存在ならば、紬姫の言うことを聞くかもしれない。
萩が、綴に命じられるままに秋姫を演じていたように。
だが、紬姫は力なく頭を振った。
「無理だ。あのような悍ましい化け物、見たこともないし、悪鬼の力を主体とした伝師の陰陽師の力を以てしても、倒せるかどうか……」
「そうか、この時代ではまだ、陰陽師には悪鬼を倒す力がないんだ」
千年後の時代では、何らかの力の影響で地脈が移動して、悪鬼や陰陽師の力関係に大きな変化が生じていることが分かった。だが、それより以前は、普通の陰陽師では悪鬼に適う力は持っていないのが常識だった。
だから恐らく、榎の力であっても、悪鬼には通用しない。せいぜい、追い払うくらいが限界だ。
急に、絶望が襲った。
強大な悪鬼の力を前にして、何もすることができないのか。
「その点ならば、何とかなるやもしれません。今しがた、儀式が一通り終わりました故」
そんな重い空気をさらりと払拭するかのように、晴明が口を挟んだ。
「儀式って?」
「わしが行っておった儀は、妖怪や悪鬼たちの存在を人間から遠ざけて、人間の平穏な日常を創り出すための、最後の儀式でした」
「それってもしかして、朝が言っていた、この世の理を書き換えるもの……?」
榎は驚く。
この世の理を書き換えた張本人は、晴明だったのか。
「ご存知でしたか。そう、人間と、人外の存在は、長い時間をかけて深く歩み寄りすぎた。そのせいで互いの存在の均衡が崩れ、人々の生活に大きな隔たりが生まれてきておる。この乱れた世から、妖怪や悪鬼の脅威を取り除かなければ、いずれ人の世は滅んでしまうであろう。そう判断したから、わしが生きている間に、この儀式を執り行おうと決めたのです。儀式の副産物ではありますが、この儀を行ったことによって、陰陽師の力が悪鬼の力を凌駕できるようになっていくのでは、と」
「なら、あたしの力でも、悪鬼を何とかできるかもしれない」
丁度この時代が、理が変化する節目の時なのだとすれば、四季姫の力は立派な戦力になるはずだ。
榎は意気込むが、それを制止するように晴明が再び口を挟んだ。
「ただし、その理の変化も、徐々に時間をかけて切り替わっていくものです。今はまだ、悪鬼は陰陽師にとっては驚異であることに変わりないと、肝に銘じて下され」
つまり、陰陽師の力は多少なら悪鬼にダメージを与えられるだろうが、その力は不安定で大きな効果は期待できないというわけだ。
「さらに、儀式によって地脈の流れに歪みが生じているため、この京の守護も、一時的に弱まっております。結界が破れれば、外から多くの敵が入り込んでくるでしょう。敵は、あの悪鬼だけでは済みそうにありませんな」
「多くの敵とは?」
「先ほどから、隠形鬼を通じて外の様子を伺っておりましたが、あの語という童、大きな傷を受けた反動で、凄まじい負の力を放って、周囲の邪気を引き集めております。その気に引き寄せられて、国中に眠っておる上等妖怪たちが、京の上空に集まりつつあるのです」
「それって、まさか……」
「恐らく、この京を、いや、この世そのものを滅ぼしてしまおうと思っているのかもしれませぬ。これは、一刻を争う未曽有の危機となりましょうな」
安倍晴明が、重い腰を上げた。
それだけ、重大な事態が迫っている証拠だ。
「くそ、紬姫を守れても、日本が滅びてしまったら、何の意味もない。何としても、止めなくちゃ!」
だが、悪鬼だけでも厄介なのに、さらに大量の上等妖怪を相手にしなければならないなんて。
どう考えても、勝ち目がない。
榎は困惑し、落胆するが、その側で新しく、闘争心に火をつけた者がいた。
紬姫だ。
「夏姫よ、力を貸してくれ。全ては、妾の犯した過ち。清算したい」
紬姫は立ち上がり、榎に向かって強い眼光を放った。
さっきまでの弱々しい姿が嘘みたいに、凛々しい立ち姿だった。
「伝師一族の、最後の務めを果たす。京を、帝を守り、忠義を示して、この一族の歴史を終わりにしたい。全てを終わらせて、腹の子を安全な場所に連れて行くためにも」
この世に生き残った紬姫自身が、この先何を為していくべきか。
絶望の中で考えが纏まり、覚悟も固まったのだろう。
その強い意志を受けて、榎の折れそうだった心も、徐々に持ち直した。
紬姫の歩みは、綴の人生の歩みでもある。こんなところで止めてしまうわけにはいかない。
無事に、紬姫が時渡りを行えるようにするために、榎が成すべきことは、たった一つだ。
「分かりました。必ず、平安京を守りましょう!」
榎は立ち上がり、紬姫と視線を交わし合った。




