第1話 Come Away, Come Away!「さぁ 行こうよ!」前編
というわけで第2部を作っております。
その監獄には懲役が100年を超える囚人がいる。
その男が投獄されたとき、今の看守たちは誰ひとり生まれていない。
国境が引き直され、戦争がいくつも終わった。それでも彼は、同じ独房にいる。
*
2026年、アメリカ合衆国西部。
州都から車で数時間。乾いた荒野を、辛うじて舗装された一本の道が地平線まで延びている。
周囲にあるのは、赤茶けた大地と低い灌木ばかり。時折、風に押された枯れ草の塊が道路を横切り、走る車としばらく並走してから荒野の彼方へ転がっていく。西部劇の小道具のように知られるタンブルウィードが転がっていく。かつてロシアから北米へ入り込んだヒユ科の外来植物、ロシアアザミの成れの果て。
そんな何もない道を延々と走っていると、不意に景色が賑やかになり始める。
一台、また一台と車が増えていった。
キャンピングカー。古いピックアップトラック。派手に塗装されたバス。屋根に巨大なオブジェを載せた車まで走っている。道路脇の乾いた土地には簡易テントや露店が並び、カラフルな三角旗を連ねたガーランドが、強い風にはためいていた。
今日は、この地方で年に一度だけ開かれる奇妙な祭典の日。もともとは、風変わりなアーティストが砂浜で廃材で作った大きな木製人形を燃やしたイベントが起源だという。
現在は全米どころか世界中から風変わりな人が集まり、アーティスティックなショーが行われる奇祭になった。音楽、巨大造形物、仮装、アートカー、即興劇。参加者は思い思いの格好で荒野へ集まり、数日間だけ即席の街を作る。
公式には芸術と自己表現を掲げた野外イベントだが、地元住民からは半ば呆れを込めて「無法祭り」と呼ばれている。
奇抜な衣装の人間が歩いていても誰も気にしない。巨大な車両が何台出入りしても珍しくない。夜になれば無数の照明と騒がしい音楽、ドローン、燃える巨大な藁人形、花火めいた光が荒野を埋め尽くす。
普段は静まり返ったこの土地が、一年で最も騒がしくなる数日間だった。
しかし、その祭りからさらに離れ、かろうじて舗装された道路を延々と進んだ先に、それとはまるで無縁の巨大施設がある。祭りに訪れるものさえ、その存在を知る者は少ない。
衛星地図には建物の輪郭しか表示されず、施設名もない。
元を辿れば、二十世紀初頭に建設された古い連邦矯正施設だったという。当時は石造りの監房棟と高い塀、四隅の監視塔を備えた、映画にでも出てきそうな陰気な監獄だった。
だが現在、その面影を地上から見つけることは難しい。
十数年前に行われた大規模改修によって、刑務所はほとんど別の建造物へ作り替えられていた。
敷地を囲むのは、高さと構造の異なる三重の外周フェンス。それぞれに振動、切断、接触を検知するセンサーが組み込まれ、その間に広がる無人区域には赤外線カメラと地中振動計が一定間隔で埋め込まれている。
誰かが穴を掘れば分かる。
フェンスへ触れても分かる。
夜陰に紛れて匍匐しても分かる。
誇張ではなく、ガラガラヘビが監視区域へ入り込んだだけで警備システムがその位置を拾うほどだった。
監視塔に立つ刑務官も、今では主役ではない。彼らはAIによる常時画像解析を補完する最後の保険に過ぎなかった。無数の光学・赤外線カメラが互いの死角を潰すように配置され、屋上には異常発生時に小型無人機を自動展開する設備まで備えられている。
内部も同じ思想で造られていた。
一つのゲートを通過すれば、背後の扉が完全に閉じるまで次の扉は開かない。受刑者の位置は常時追跡され、職員の移動、電子錠の開閉、工具の持ち出し、果ては厨房の包丁一本に至るまで記録される。
仮に監房の錠を破ったところで、その先には別の電子錠がある。
それを突破しても、さらに鋼鉄製の隔壁が待っている。脱獄を不可能にする設計思想は、意外なほど単純である。
――人間は必ず間違える。
完璧な看守はいない。買収される者もいれば、居眠りする者もいる。機械も故障するし、停電も起こる。
だから、一人が間違えてもいい。二人が買収されてもいい。三つの設備が同時に故障しても構わない。
それでも囚人だけは、外へ出られないようにする。
ただ、そういう設計思想である。言うは易しだが、それを実現した施設はそう無い。
かつて矯正施設を扱う専門誌から、「アメリカでもっとも、脱獄を考えること自体が馬鹿馬鹿しくなる刑務所」と評されたことがある。
職員たちは、その悪趣味な称号を半ば誇りとして受け取っていた。ただし、この刑務所には一つだけ妙なところがあった。
最新鋭の施設を一から建設したわけではない。正確には、旧連邦矯正施設時代の施設を囲うように増築された。合衆国刑務所グラナイト・ベイスン、誰が呼んだか通称マトリョーシカ。
*
夕方になると刑務所では日勤と夜勤の勤務交代が始まる。勤務を終えた職員の多くは外周警備区画のさらに外側に設けられた職員居住区へ戻る。そして交代要員がやってきて引き継ぎをかねて軽い軽食会となる。
刑務所内部の空気はわずかに緩む。もちろん警備そのものが緩むわけではない。監視カメラもセンサーも休まず働いている。
新任の若い刑務官がタブレット端末を抱えながら職員用エレベーターのボタンを押す。
エレベーターがなかなか来ず、その横のベンチで無料のコーヒーを啜っている腹の出た古参職員に話しかける。
「ここのエレベーターなんでこんな遅いんすか」
「防犯のために なんやかんや1階ごとにチェックが入るらしい」
「でも、このエレベーターってボタンが押せない地下ありますよね、あれなんなんです? 地下に囚人いるんですか?」
唐突な質問に、古参はぶっきらぼうに返す。
「何を言ってるんだ いるから警備してるんだろ」
若者は声を落とした。
「変な噂を聞きまして、なんでも、ものすごく昔からいる奴が一人だけいるって」
「刑務所なんだから長期刑の奴くらいいるよ」
「いや、それが百年以上って話が」
紙コップに僅かに力が入り珈琲の水面が歪む。
若い方は思わず笑いながら続ける。
「いや、俺も馬鹿馬鹿しいとは思ってますよ。百年以上ですよ? そんな奴いるわけないじゃないですか。何歳なんだって話ですよ」
「……さあな」
「しかも、今の施設を造る前からいたとか。大改修の時も、その区画だけ残したとか。最初にその囚人がいたから、上から新しい刑務所を被せたとか そんな話を聞きまして」
「噂話が好きそうだな」
「先輩だって聞いたことあるでしょう?」
古参は答えず、残ったコーヒーを飲み干した。
やがてエレベーターが到着する。若者は古参に会釈して乗り込む。
「百年以上牢屋にいる人間なんて、いるわけないですよね」
閉まりかけた扉の向こうで、ぼそりと呟いた。
「人間ならな」
「え?」
聞き返す前に扉が閉じた。
*
同じ頃。
第一外周ゲートの監視システムが、施設に接近する一台の車両を捕捉した。
黒いセダン。祭りへ向かう派手な車列とは正反対の、飾り気のない車だった。自動照合がナンバープレートを読み取り、登録情報と照合する。赤外線で乗員数を確認。車底部を走査し、爆発物検知装置が吸引した空気を分析する。
異常なし。それでも警備室の職員は、モニターを見ながら僅かに眉を寄せた。
来訪者の予定が、つい数時間前に追加されている。指定された到着時刻は少し過ぎていたが、大きな問題では無い。
キーボードを叩き、詳細を確認する。
連邦矯正医療監査。特殊長期収容者に対する外部医学評価。省庁間承認済み。署名も認証コードも揃っている。手続き上は、何一つ問題がない来訪者。
「こんな時間に面倒くさいな……」
車は第一ゲートの前で停止した。
後部ドアが開く。最初に地面へ降りたのは靴底の赤い黒いハイヒール。続いて、妙に長い脚。
蛇皮を思わせる濡れた艶のある黒いコートに、毒蛾の翅毛のようなふわりとした襟飾り。大きく開いた胸元からは、白い肌を縦断するように古い傷痕が覗いている。
片眼には周囲の景色を銀色に弾く、大仰なミラーコートのモノクル。頭には広い鍔を持つ真っ黒な帽子。
荒野の刑務所には、あまりにも似つかわしくない。
だが、数キロ先ではもっと奇妙な衣装の人間たちが巨大な人形を燃やし、裸同然の格好で自転車を走らせている日でもある。
警備員は一瞬だけ、祭りの参加者が道を間違えたのかと思った。
女は施設を見上げる。厳重な三重のフェンス、監視塔、無数のカメラ、屋上の無人機格納庫。その向こうに聳える無機質な監房棟。
「へえ……」
感心したように声を漏らした。
「随分と立派になったじゃない」
警備員が顔を上げた。
「以前こちらへ?」
「いいえ? 独り言よ」
女は笑った。
身分証を求められると、素直にカードを差し出す。
読み取り機へ通すと、端末に顔写真とともに文字列が表示された。
【Dr. ラゼベル ギヨデルタ セレンディス】
医学博士。外部医療監査官。登録された顔貌、生体情報、医師資格。照会先となる複数の政府機関まで、すべて一致していた。
警備員はカードの顔写真と、目の前に立つ奇妙な女を交互に見る。
間違いない。本人である。続いて簡単な所持品検査。
武器はない。爆発物もない。違法薬物もない。
大型の医療ケースには、採血器具、電極、携帯型の生体分析装置、滅菌済みの診察器具、それに幾つかの密封カートリッジが整然と収められていた。
「こちらは?」
「呼吸機能検査と神経反射試験用の試薬。特殊な患者だから、一般的な検査キットじゃ役に立たないの 許可はとってあるわよ」
ケースには医療機器としての管理番号が付され、カートリッジにも検査用試薬として正規のラベルが貼られている。誘電率を利用して危険物を確認する液体検知装置でも異常なし。
少なくとも、検査装置が危険物として認識するものは何もない。
最後にボディスキャナーが女の身体を走査する。
胸部に複数の金属反応。肋骨の内側には、通常の人体には存在しない機械部品と、小型の循環補助装置らしき構造が映った。
「失礼ですが、そちらは医療機器ですか?」
警備員が左胸を指す。
「ペースメーカーみたいなものよ」
女は大きく開いた胸元へ指を入れ、皮膚の下に埋め込まれた装置の輪郭を軽くなぞった。
「心臓が止まっても、一時的に動けるようにする。そういう装置なの」
古い銃創のような大きな傷痕が、そのすぐ横を走っている。
「見て分かると思うけど、私、身体が弱いから」
どう見ても弱そうな女ではない。ハイヒールの高さも相まって二メートル近い巨躯が、警備員を見下ろしている。思うところはあったが、余計なことは言わず端末へ視線を戻した。
「面会対象者を確認します」
画面に収容者番号が表示される。
【Z-00】
その番号を見た途端、職員の指が止まった。
「……こ、この収容者ですか?」
「そうよ」
「どのような要件を?」
「長期収容に伴う生理機能の評価。年齢を考えれば当然でしょう?」
モノクルの下で口元が吊り上がる。
「ずいぶん、ご高齢でしょうから……」
警備員は念のため本部へ確認を入れた。短いやり取りの後、返ってきたのは正式な許諾だった。
それでも何かが腑に落ちない。だが、認証は正しい。命令も正しい。身分証も間違いない。
彼に拒否する理由はなかった。
無機質なブザー音が鳴り、第一ゲートがゆっくりと開く。
女は仰々しいドクターバッグを閉じ、軽々と持ち上げる。
「刑務所って好きなのよねぇ」
案内についた職員が振り返る。
「何か?」
「人間を管理するためだけに、これだけの知恵と金を使ってるんだもの。実に人間らしい建物じゃない?」
冗談なのか、感心しているのか分からない。歯の隙間から空気を漏らすような笑い声だけが続いた。
「シシシシ」
その背後で、ゲートが重々しく閉じる音がした。
第一ゲートを抜けた先には、来訪者用の小さな駐車区画があった。車を指定された枠へ停めると、そこから先は徒歩になる。
本棟へ入るには、外周とは別にもう一度検査を受けなければならない。
厚い防弾ガラスに囲まれた受付。二重扉。手荷物検査。金属探知。生体認証。電子機器は一つずつ登録され、持ち込めるものと預けるものに分けられる。
外で行われた検査が形式的に思えるほど、内部の確認は執拗だった。受付にいたのは、連絡を受けて名乗り出た腹の出た古参職員だった。
モノクル女から身分証を受け取り、端末に表示された名前を念入りに確認する。
資格も、政府側の承認も、訪問目的も問題ない。
一言一句読み逃さないように、男の指が画面の文字列をゆっくりと追っていった。
その一文で指が止まる。
【本日の医学評価の結果によっては、Z-00を専門医療施設へ一時移送できる】
と記されている。
「あいつを外へ・・・!?」
電子上での確認では完璧だった。それでも、何かが引っかかる。
「……外へ出す可能性があるんですか」
「精密検査が必要ならね」
黒衣の女は退屈そうに答えた。
この施設にも一通りの設備は揃っている。だが彼女が要求する専門的な検査には足りないらしい。それが外部医学評価の理由であり、移送命令にもそう記されていた。
若い職員なら、それで終わっていただろう。
古参はしばらく画面を見つめていた。
何十年と勤めてきて、Z-00を実際に扱ったことはほとんどない。それでも、何かが記憶の底に引っかかる。しかし、目の前にある命令そのものに不備はない。
検査を終えた女は、若い職員の案内で施設の奥へ進んでいく。
残された古参だけが、端末に表示されたZ-00の文字をしばらく眺めていた。
*
三人の付き添い職員と共に、ギヨは職員用エレベーターへ乗り込んだ。
若い刑務官だけが、妙に浮き足立っている。普段は存在を噂で聞くばかりで、実際に降りる機会などまずない最下層へ、自分が行けることが嬉しいらしい。
「まさか、本当に幻の階に行けるなんてなぁ」
思わず漏れた声を、隣の職員が低く制した。
ギヨには、そのやり取りさえほとんど耳に入っていなかった。興味のない人間の会話など、空調の音と大して変わらない。
案内役から渡された特殊な鍵を操作盤へ差し込む。通常は消灯したままの最下段に、小さな橙色のランプが灯った。続いて職員証をスキャナーへかざし、最後に監視室からの遠隔承認が入る。
三つの条件が揃って、ようやく最下層行きのボタンが有効になった。
エレベーターは重い振動とともに下降を始める。
低いモーター音と、鋼索がどこか遠くで擦れる微かな振動だけが箱の中を満たし、誰も口を開かいせいで余計に時間が長く感じられる。
やがて速度が落ち、足元へ鈍い衝撃が伝わり扉が開いた。
最初に見える範囲だけなら、上階と大きな違いはない。白い壁、明るい照明、新しい監視カメラ。
だが、奥へ進むにつれて施設の表情が変わっていった。
磨かれた内装材が途切れ、灰色のコンクリートが露出する。天井を這う配線と監視装置は最新型なのに、それを支える壁には半世紀どころではない染みと補修跡が残っている。
新しい建物の中に古い施設が残っているのではない。
古い監獄へ、現代の設備だけを無理矢理継ぎ足していったような構造だった。
そんな一本道の廊下が、岩盤の奥へ向かって続いている。普通なら並んでいるはずの監房扉は一枚もなく、代わりに一定間隔で監視カメラと電子錠が設けられていた。
そして廊下の最奥。
古びたコンクリートの壁面に、そこだけ時代を飛び越えたような巨大な扉が埋め込まれていた。
銀行の大型金庫を思わせる最新式の防護扉。カードリーダー、生体認証装置、監視カメラが無機質な光を放っている。おまけに完全武装の警備員が二人も仁王立ちしている。
一人の囚人を閉じ込める設備としては、明らかに過剰だった。
「ここから先では、指示された場所以外には触れないでください。診察中も拘束は解除しません。許可なく対象者へ物品を渡すことも禁止されています」
先導する職員の説明に、ギヨは分かってる、分かってる、とでも言いたげに軽く手を振った。
最初の職員がカードを通す。
緑色のランプが灯る。
二人目が暗証番号を入力し、続いて監視室へ認証が送られた。
数秒の沈黙。
やがて扉の内部から、巨大な金属部品が動き始める。
三本のデッドボルトが一本ずつ引き抜かれるたび、足元へ微かな振動が伝わってきた。
この地下区画は柔らかな岩盤を掘り抜いて造られている。分厚い岩がすぐに音を吸うせいか辺りには奇妙な静けさがあった。最新式の防護扉が開く。
だが、その向こうにはまだ扉があった。今度はひどく古い。
一世紀ほど前のものと思われる、重厚な鉄扉だった。表面には小さなスライド式の覗き窓が一つだけ付いている。看守が窓を開け、中を確認する。
「ゼロ番。壁を向け。両手を後ろへ」
しばらくして、中から鎖の擦れる音が聞こえた。
看守は覗き窓からさらに数秒ほど様子を確認すると、後ろの警備員へ合図を送る。
最後に、古めかしい鍵が鉄扉へ差し込まれた。錠が回る。
ゴトリ、と、現代の電子錠とはまるで違う重たい金属音。
扉が僅かに浮き、重い鉄扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。隙間から冷えた空気が流れ出した。なんともいえない空気に若い刑務官が無意識に息を止める。全員に緊張が走る中、ギヨだけが、その様子を面白そうに眺めていた。
独房の中には白い照明に照らされた簡素な収容室があった。壁には本棚 トイレと水場が強固に固定されて存在していた。
そして、その中央に巨大な男が立っていた。
二メートルを優に超える骨格。
片足には太い拘束具が嵌められ、そこから伸びる鎖が床へ直接固定されている。
壁を向いたまま後ろ手にされた両腕にも枷があり、銃を構えた警備員が慎重に鎖を別の固定具へ繋ぎ替えていく。そこに使われる鎖は独特の質感で普通の鎖には見えない。
長い髪は脂気を帯び、緩く波打ったシルバーブロンドが背中まで垂れていた。
「0番。こちらを向け」
男はゆっくりと振り返る。
髪が顔にかかり、表情の大半は見えない。
ただ、その隙間から青い目と、髪の束の隙間から、尖った耳先が見える。
大男の囚人はエルフだった。100年以上の収監もおそらく事実だろう。若手の看守はそれらをみて静かに興奮していた。
奇妙なのは、大男の雰囲気。
怒りもない。
反抗もない。しかし諦念ではない、消えかけた木炭の奥に火が宿っている、そんな静けさ。
ギヨが職員たちの前へ進み出る。この毒々しい来訪者に一瞬だけ目をやる。
異様な長身。毒蛾を思わせる襟飾り。片眼を覆う不気味なモノクル。
普通なら、そのどれか一つだけでも目を引く。
「ハロー。ご機嫌いかがかしら?」
しかし、巨漢は驚きもしなかった。
僅かに鼻を動かす。
「……薬臭い女だな」
作り笑顔が一瞬だけ止まった。
それでもすぐに、いつもの歪んだ笑みが戻る。
「ツァンラン・ゼシル・ヴォルケイン。貴方の診察をします」
その名を聞いた瞬間。
男の青い目だけが、僅かに動いた。
*
正式な医学評価という名目で、二人は監視付きの医務室へと移された。
血圧。反射。採血。心電図。
形だけではあるが、診察そのものはきちんと行われた。
彼女は医療端末へ数字を入力しながら、当たり障りのない質問を重ねていく。
睡眠。
食事。
関節痛。
視力。
体の傷について。
男も必要なことだけを簡潔に答えた。ただその会話は妙に断片的で、いくつかの言語を混ぜて行われた。
「賢しい女だ」
「それは褒め言葉と受け止めておくわ」
傍目には、医師と長期収容者による奇妙な健康診断にしか見えない。
「さてと、回りくどくなっちゃったけど、この子覚えてる?」
医療ケースの底から、一枚の古びた写真が取り出された。モノクロの銀板写真だった。
洋館の前に東洋人と西洋人が並び、その端に一人だけ、場違いなほど若い白人少年が立っている。純真無垢な中性的な笑顔の少年。
それをみた囚人の目に小さな炎が揺らめいた。
俯き気味だった頭が、ごく僅かに上がり背筋が伸びる。手首の鎖が小さく鳴った。変化はそれだけだったが、部屋の空気は明らかに変わった。
「コイツは死んだ」
100年以上何事にも動かされなかったはずの男の中で、長く眠っていた何かが目を覚ました。それにめざとく気づいた女の口元は細く吊り上がる。
「生きてるわよ」
一気に部屋の温度が変わる。余りの殺気に監視の警備員も一瞬たじろぐ。狼の群れに囲まれたような、人生を終わりを感じるような一瞬の寒気。
「…嘘を言うな」
「確かめたいでしょう」
ツァンランの顔にギヨがグッと顔を寄せる。
「もう少し、0番から離れなさい」
*
医学評価は時間通り終了した。あとは所定の手続きに従って地上へ戻り、健康面に懸念があるとのことで、Z-00を外部の専門医療施設で精密検査を行う。
少なくとも、ギヨはそう考えていた。
必要な許可はすべて揃えてある。
行政上の承認。医学的な理由付け。複数の電子署名。一度この施設を出て、外部医療機関の管理下へ移してしまえば、刑務所側は何もできなくなる。
計画通りだ。
診察室の端では、ツァンランが再び拘束具を確認されていた。
だが、初めてここへ入ってきた時とは雰囲気が違っていた。
沈んでいた青い瞳には、微かな緊張が戻っている。
百年以上停滞していた時間を一枚の写真が動かした。
護送車の手配の書類を書いている最中、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、受付で一度顔を合わせた腹の出た古参職員だった。
手には古びた紙のファイルが握られていた。
男は机の前まで来ると、挨拶もそこそこに一枚の書面を取り出した。
黄ばんだ厚手の紙。
縁は擦れ、何度も別のファイルへ綴じ直された跡が残っている。タイプライターで打たれた文章の下には、異なる年代の署名と認証印が幾重にも重なっていた。
その書類を見た瞬間、ギヨの表情から僅かに笑みが消えた。
施設外移送を永久に禁止する特別収容命令。
医学的必要性、司法判断、行政命令――そのいずれを理由としても例外を認めない。
さらに施設の名称や管轄が変わった場合にも、この指示だけは後継組織へ継承される。
三つの目が紙面を上から下まで追った。
古い。
しかし真正だった。
失効もしていない。
最新の電子行政システムとはまったく別のところで、一世紀近く生き残ってきた命令書。
「……これは……データベースには無かったわね」
古参によれば、原本だけが旧施設から金庫ごと引き継がれているという。
当然電子化もされていない。
ギヨはもう一度、紙を見る。
複数の省庁へ手を回した。外部医学評価を正式に認めさせた。必要なら施設外へ移送できる権限まで、何重もの電子認証を通して手に入れた。最新鋭の刑務所が備える電子的な防壁は、ほとんど攻略していた。この100年以上収監されたエルフを連れ出すために。
それが。
一世紀近く金庫の底で眠っていた、たった数グラムの紙によって止められた。
「…………紙、アナログの……」
ぽつりと漏れる。
古参は黙っている。
「紙ぃ……」
今度は少しだけ恨みがこもっていた。
診察そのものに問題はない。
ただし、移送は認められない。
Z-00は再び最深部へ収容され、本日の外部医学評価はこれで終了。本日はお引き取りください。
要するに、そういうことだった。
正式な規則である。
ここで騒げば、かえって不自然になる。
毒虫の女王はしばらく書面を見つめたあと、机へ戻した。
「そう。彼の健康は気になりますが、規則なら仕方ないわね」
予想以上に素直な返答に、古参の方が僅かに警戒した。
だが、女はもう興味を失ったように医療器具をケースへ戻している。
蓋を閉じ、ゆっくり立ち上がった。
「帰る前に、お手洗いだけ借りるわ 化粧も直したいし」
場所を教えられると、軽く片手を上げて診察室を出ていく。
扉が閉じる直前。
一度だけ振り返った。
青い瞳と視線が交わる。言葉はない。
それでも、ツァンランは何かを察したようだった。
最初に会った時には死んだようだった目が、僅かに細くなる。
扉が閉じた。廊下へ出たギヨは歩調を変えずに小さく息を吐いた。
ただ、手にした化粧ポーチの留め具へ長い指をかける。
「……仕方ないわねぇ」
できることなら正規の手続きで連れ出し、何食わぬ顔で正門から帰るつもりだった。
だが、この刑務所は百年以上前の紙切れ一枚に従うという。
「プランBね」
シシシシ、と。低い笑いだけを残して、女は廊下の角へ消えた。
後半の脱獄編へ続きます 感想などいただけると嬉しいので、よろしくオナシャス。マジで。




