文明は見えなくなるほど成功している
〔分類:⑪ 国家観〕
私は本書で、国家を「文明供給装置」と呼んできた。
この考え方は、日本で生活していると、かえって理解されにくい。
なぜなら、日本では文明供給があまりにも成功しているからである。
道路がある。
水道がある。
電気がある。
病院がある。
警察が来る。
裁判所が機能する。
郵便も宅配も届く。
携帯電話もほぼ全国でつながる。
もちろん山間部や離島では物流コストは高くなる。
しかし、それでも法制度や行政サービスそのものが届いていない地域は、現在の日本にはほとんど存在しない。
言い換えれば、日本には「文明供給格差」が非常に小さいのである。
だからこそ、日本人は文明を「空気」のように感じる。
空気は失って初めて、その価値に気づく。
文明も同じである。
◆昔の日本には文明格差があった
これは、昔からそうだったわけではない。
高度経済成長期には、工場や企業は太平洋ベルト地帯へ集中し、多くの地方から都市部への集団就職や出稼ぎが行われた。
地方には仕事がなく、生活基盤も十分ではなかった。
都市へ行く理由は、「生活するため」である。
その後、高速道路、新幹線、上下水道、港湾、空港、病院、学校などが全国へ整備され、日本各地の文明供給能力は急速に均質化していった。
その流れの中で象徴的だった政策の一つが、田中角栄の「日本列島改造論」である。
もちろん、すべてが成功したわけではない。
過剰投資や財政負担への批判もある。
しかし結果として、日本は世界でも珍しいほど地域間のインフラ格差が小さい国になった。
現在、若者が都市へ向かう理由は以前とは異なる。
大学進学。
希望する職種。
文化や娯楽。
より多くの刺激。
つまり、生きるためではなく、より豊かな人生を選ぶための移動へと変化したのである。
これは文明供給装置が十分に機能しているからこそ起きる現象だ。
◆「田舎暮らし」という贅沢
近年、「田舎暮らし」や「移住」が、豊かなライフスタイルの象徴として語られることがある。
自然に囲まれ、時間に追われず、都会の喧騒から離れて生きる。
そうした暮らしに憧れる気持ちは、私にもよく分かる。
しかし、ここで見落とされがちなことがある。
現代日本における「快適な田舎暮らし」は、文明が十分に行き渡っていることを前提にして初めて成立している、ということである。
水道が通っている。
電気が安定して供給される。
道路が舗装され、除雪される。
インターネット回線が引かれ、宅配便が届く。
救急車を呼べば、時間はかかっても病院へたどり着ける。
これらすべてが揃っているからこそ、「田舎暮らし」は不便さを楽しむ余裕のある選択になる。
もし、これらの文明供給が本当に届いていなかったら、それはもはや「快適な田舎暮らし」ではなく、高度経済成長期以前の、生活のための苦闘そのものに戻ってしまうだろう。
つまり、「田舎暮らし」を心地よいものとして選べること自体が、文明供給装置がすでに全国へ行き渡っている恩恵の上に成り立っているのである。
その恩恵はあまりにも自然に感じられるため、多くの人はその基盤を意識しないまま、「田舎の不便さこそが魅力だ」と語ってしまう。
だが、本当に文明が届いていない不便さと、文明に支えられた上での「あえての不便さ」は、まったく別のものである。
◆発展途上国では文明格差が移住を生む
一方、多くの発展途上国では事情が異なる。
例えばナイロビには、地方から多くの人々が流入している。
もちろん理由は一つではない。
しかし大きな要因として、
* 医療
* 教育
* 雇用
* 上下水道
* 電力
* 行政サービス
などの文明供給能力が都市へ集中していることが挙げられる。
地方では、それらが十分ではない。
だから人は都市へ移る。
都市のスラムが形成される背景にも、「都市の生活が豊かだから」という単純な理由だけではなく、「地方では文明供給そのものが不足している」という事情がある。
つまり、人口移動とは、経済だけではなく文明供給格差に対する反応でもある。
日本の「田舎暮らし」への移住と、発展途上国における地方から都市への移住は、方向こそ正反対だが、根は同じ問いにつながっている。
文明供給が十分に行き渡っているかどうかが、人がどこでどう生きられるかを、静かに、しかし決定的に左右しているのである。
ここには、経済学でいう限界効用に近い構造も潜んでいる。
文明供給には「限界効用」がある。
文明が十分に整った社会では、その恩恵は当たり前になり、人々は改善よりも自由や刺激、自己実現を求めるようになる。
一方、文明供給が不足する社会では、道路一本、水道一本、送電線一本が人生そのものを変える。
先進国と発展途上国では、文明の価値そのものが違って見えるのである。
日本人が文明供給を「空気」として感じられるのは、その値がすでに限界に近いところまで到達しているからだ。
それ以上の改善は、幸福度をわずかしか動かさない。
だからこそ、人々の関心は、道路や水道の整備そのものではなく、自由や刺激、生き方の多様性へと移っていく。
◆文明供給を侮ってはいけない
私は国家を愛国心だけで評価しているのではない。
国家が文明を供給しているという事実を評価しているのである。
文明供給は成功すると見えなくなる。
道路は壊れていないのが当たり前。
水が出るのが当たり前。
停電しないのが当たり前。
裁判が機能するのが当たり前。
田舎で不便を楽しめるのも、当たり前。
だから、多くの人は文明そのものを意識しなくなる。
しかし、その「当たり前」は自然現象ではない。
税金を納める人がいる。
維持管理を行う人がいる。
制度を運営する人がいる。
その総体として、文明供給装置が機能している。
だから私は繰り返し言う。
文明供給を侮ってはいけない。
それは国家が存在する理由そのものだからである。
◆結び──文明は、成功するほど見えなくなる
私は本書で何度も、「国家は文明供給装置である」と書いてきた。
それは決して国家を神格化したいからではない。
むしろ逆である。
文明供給装置は、成功すればするほど、人々から意識されなくなる。
空気が見えないように。
重力を普段意識しないように。
蛇口をひねれば水が出ることも、救急車が来ることも、裁判所が機能することも、道路が舗装されていることも、「当たり前」になる。
その当たり前があまりにも自然になると、人はやがて「国家は何もしていない」と感じ始める。
しかし、それは何もしていないからではない。
あまりにも上手く機能しているから、見えなくなったのである。
文明とは、成功すると景色になる。
そして景色になった文明ほど、人はその価値を忘れやすい。
だから私は、本書を通して何度も「文明供給装置」という少し無機質な言葉を使ってきた。
愛国心ではなく、
イデオロギーでもなく、
右でも左でもなく、
文明は誰かが維持している。
その単純な事実を、もう一度思い出したかったからである。




