閑話2-2 エレナ
――おい。
冷たい水の中。
近くで誰かが私を呼ぶ声がした。
その声はまるで水に溶けているかのように輪郭がボヤけていた。
――おい。
また呼びかけられる。
そして、突如、肩を掴まれて揺すられた。
「おい!」
そこで私は“現実”へ帰ってきた。
目の前に広がるのは冷たくて暗い海ではなく、ブルーシート。
私はハッと顔を上げたあと、忘れていた呼吸を再開させる。
「なに、ボーッとしてんだ?」
肩で息をしながら声のした方へ視線を向けると久世さんが心配そうな表情を浮かべながらこちらを見ていた。
「ごめん」
そう答えながら私は自分の“現在地”を確かめるようにダンボールをそっと撫でた。
救急車のサイレンはもう聞こえない。
代わりに遠くから電車の車輪が線路を転がる低い音がそっと鼓膜を揺らした。
「落ち着いたか?」
ただ注意深くこちらを伺う久世さんに頷きを返す。
それを確認すると彼はまた酒瓶に口をつけた。
――その時。
「キャァアアア!!!!」
甲高い女性の悲鳴が公園中に響き渡った。
一瞬で空気が張り詰める。
事件性のあるその声に私たちは静かに顔を見合わせた。
私はそっと立ち上がるとカーテンの隙間から外を覗き見て固まった。
――魔物がいる。
「エグゼキューター……」
通称ガスアリ。
車くらいの大きさを誇る黒い甲殻を持つ蟻型の魔物がカチカチと顎を鳴らしながら怯える女性の前にいた。
魔物のランクは巣の規模によって変わるがA級以上であることは間違いない。
灰原の言っていた白鷺環の植物タレット。
その存在を思い出した私は公園内の木々へと視線を走らせる。
しかし――公園は木々がただそこに佇むだけで“何か”をする気配が全くない。
そういえば、ここに来てから植林をやっていた光景なんて見たことがなかった。
胸の奥がヒヤリと冷える。
そして、久世さんに短く告げる。
「久世さん」
「なんだ?」
「逃げて、外に魔物がいる」
「……お前はどうすんだ?」
「私もあの人を助けたらすぐ逃げる」
この蟻型の特徴は地上に出た時に最初は斥候役が穴の周囲の環境を確認するのだ。
それが終わると独特の悪臭を放ち、戦闘員に上に上がっても良いことを知らせる。
だから、まだ斥候しかいないうちに遠くに逃げるべきだ。
私はそう判断を下す。
「お前に一般人を守る義務はないからな、無理はするなよ」
「わかってる、アイツらは振動に敏感だから走らないでね」
「おう……」
静かに久世さんが離れて行ったのを横目に私は変身をすると、レイピアを片手に静かに女性の元へと駆け寄る。
蟻は急に叫び声を上げた女性を当然認識している。
私は女性と蟻の間に入り込むと彼女を目掛けて近づいてきた顎に向かって突きを放つ。
ガキンッ。
剣先が顎の硬い部分を捉えて、手先に嫌な痺れが走る。
そしてガス漏れを起こした時のような嫌な臭気が立ち込める中。
蟻がのけ反ったことを確認し、女性の手を取ると私は走り出す。
「大きな声と足音は出さないで、静かにここから逃げますよ」
「は、はい」
そして地面に転がる大きめの石を適当に自分たちとは逆の方向へ投擲。
地面に激突した時の衝撃に吸い寄せられて、斥候の蟻がそっちに向かうのを背中越しに確認。
そのまま公園の外へ音を立てないように離れようとしたのだが――
正面から斥候よりも少し大きい蟻が四匹まとまって現れた。
あの臭気で嫌な予感はしていたけど……
やっぱり、エグゼキューター相手の初動の避難方法はうまくいってなかったみたい。
こうなってしまえば残る方法は正面突破しかない。
私は太ももに括り付けたホルスターから銃を抜く。
そして、自分の魔力を込めた薬莢の入ったマガジンを装填。
照準を蟻の頭に合わせて――
パァン!パァン!
銃のスライドが後退し、衝撃で腕が跳ねる。
それと同時に着弾した銃弾は二体の蟻の頭を吹き飛ばす。
頭を失った胴体から体液が飛び散り、嫌な匂いが立ち込める。
「こうなったら足音は消さなくていいです!行きましょう!」
「はい!」
残る二匹の頭も同様に弾き飛ばした後。
私は女性の手を引いて公園の外へと駆け出した。
公園を抜けた先。
いつもなら人で溢れている道路は異常事態に気づいたのか、嘘のように無人だった。
ひとまず大通りに出よう。
私はそう判断を下し、再び走り出したのだが……
公園の茂みから大量の蟻が飛び出し、囲まれてしまった。
“カチカチ”と威嚇しながらじわり、じわりと包囲の輪を狭めてくる。
――残弾は八発。
包囲の薄いところを突破できれば……
そう思った時。
カランっと蟻たちの後ろで空き缶が音を立てた。
蟻たちの注意がそれに向いた、その一瞬。
私は一気に地面を蹴った。
蟻たちの脚の隙間を縫うように走り、それに気づいた蟻の頭を素早く撃ち抜く。
火薬の乾いた音が断続して響き、なんとか包囲を抜け出したがすぐに他の蟻たちが急いで後を追ってくる。
移動しながら素早くマガジンを交換し、追いつかれそうな個体から順番に撃っていく。
しかし、物量が違う。
このままじゃ飲み込まれるという焦燥は次第に強くなっていき――
途中、死角から現れた蟻の強靭な顎が女性を捉えそうになった瞬間。
「こっちだ!」
突如、声が響いた。
その方向へ視線を動かすと、近くのコンビニの入り口から久世さんが必死に手を伸ばしていた。
私は滑り込むように入り口から店内に入り、続いて久世さんに引っ張られる形で女性が中に入る。
女性を引き入れると久世さんがガチャンッと慌てて鍵をかけた。
「コレで一安心……とはいかねぇわな……」
コンビニのガラス窓をぎっしりと埋め尽くし、ガリガリと引っ掻く蟻たちに久世さんがそう溢した。
「破られるのは時間の問題でしょうね」
どうするか。
自分に心の中で「冷静になれ」と言い聞かせて何度か深く呼吸をする。
そして――
私はコンビニの従業員スペースへ駆け込み、机の上にあった電話の受話器を握る。
「おまえ、何をする気だ?」
久世さんが従業員用の扉からこちらを睨む。
「助けを呼ぶ」
「お前、わかってるのか?警察か正規の魔法少女に捕まっちまえば……」
「わかってる!でも今はこうするしか……」
警察やマギ管の魔法少女に今、捕まってしまうとアメリカに返されるのは確実だ。
でも、帰りたくないという私の“ワガママ”に久世さんと逃げ遅れた女性は巻き込みたくない!
私はそう決意を固め、素早くダイヤルを三度押す。
アナログなコール音が耳元で一回。
『はい、魔法少女管理機構通報システムです。魔物の出現でしょうか?』
電話越しに聞こえる冷静な女性の声。
私は一度唾をゆっくりと飲み込むと、覚悟を決める。
「助けて!エグゼキューターに囲まれているの!」
逼迫した状況が伝われと念じながら出した声。
受話器の向こうで小さく息を飲む音が聞こえた。




