クッキングクラブへようこそ④ 恍惚のパンケーキ
パンケーキとホットケーキの違いは何か、どこかで聞いたことがあるような気がするのだが思い出せない。
ともあれ、さっき新須茉茶華は「パンケーキお願い」と言っていたので、それはパンケーキと呼称すべき物なのだろう。しかし、どう考えても普通のパンケーキではない。
武郷アイナが涎を垂らさんばかりの表情で、熱い視線を送ってくる。
「相変わらずンマソーだな。記憶が飛んじまわなけりゃ、一口もらうんだけどなあ」
ハイ出た決定的な一言。
信じたくなかったが、そういうことなのだろう。それこそ映画なんかでしか見たことのない、記憶が消える薬入りの一品。
新須茉茶華は皿を受け取ると、上に向けた右掌に乗せ、肩の上あたりで掲げてみせる。
「それじゃ暇つぶしはこのぐらいにして……」
「暇つぶしだったんかい!」
「暇つぶしだったんですか!」
僕のツッコミと日比野の苦情の声が、語尾は異なったがシンクロする。
「そう。人の一生というものは、壮大な暇つぶしなのかもしれないわね」
「いやそういうことを言ってるんじゃなくて……」
「その話はもういいから。椅子」
「あっ、はい」
厳しめの声で命じられるや、日比野はいつにない素早さで椅子を引っ張り出してきて、僕の目の前に据える。
そんなクラスメイトの姿を見て、このメンバーで楽しくやっているというさっきの言は果たして本当なのだろうかと思わなくもなかったが、今は他人の心配をしている場合ではない。
新須茉茶華はその椅子に腰を下ろすと、向かい合う僕の顔を見て薄い笑みを浮かべる。
危機が到来していると頭では理解していたが、ついついスカートから伸びている、黒いタイツに包まれた膝小僧に目を奪われてしまう。
「フフッ、女の子の下着の話をしてたら、お腹がへってきちゃったんじゃない?」
「そんな独特な生理メカニズムは持ち合わせていませんが……」
一応否定してみるがもちろん無意味だった。
新須茉茶華は自らの太腿の上にパンケーキの皿を置く。さすがに足よりもそちらに目がいった。
いかにもふっくらしてそうなきつね色に焼けた生地に溶けたバターが乗っており、シロップがたっぷり掛かっている。
非常に食欲をそそる一品だった。こんな状況下でなければ。
「待っててね。すぐに食べさせてあげるから」
作ったような、いや、実際作ったのであろう優しい声音でそう言うと、優美な手つきでナイフとフォークを使い、膝上のパンケーキを一口サイズに切り分ける。
そして予期したとおり、それをこちらへと突き出してくる。
「はい、あーん」
人並外れた美貌の先輩にこんなことしてもらう。シチュエーションが違えば、誰だってカバのように大口を開け、バカみたいに「あーん」と復唱することだろう。
しかし、そうはいかなかった。これを食べれば今度こそ記憶を失うかもしれない。いや、下手したらそれよりひどいものを今度は盛られているのかもしれない。
ギュッと口を閉じ、顔を横に逸らす。
「あら、どうしたの? この私が男の本望を叶える大サービスをしてあげているというのに。ひどく不可解で不穏当な不行儀極まりない態度をとってくれるじゃない。もしかして君、不感症?」
若干ラップ調でとんでもないことを言われるが、こちらはひたすら口を噤む一手。反論しようと口を開いた途端に、フォークをねじ込まれるかもしれない。
新須茉茶華は、再び口元に薄笑みを浮かべ、同じ行為を繰り返してきた。
「はい、あーん」
拒否する僕の口元へと、更に近づけてくる。
「はい、あーん」
「………」
絶対に食べるもんかと、僕は断固たる決意を表情で示し、勇気を出して対面の女性の目を見据えようとした。
「はい、あーん」
「!?」
それは叶わなかった。
目の前にいる先輩女子は、フォークを持つ手はそのままに、とてつもない速さで逆の手を動かす。
――気がついたら、ナイフが僕の首筋でピタリと止まっている。
「はい、あーん」
首元に金属が当たる感触。パンケーキ用のナイフとはいえ、少し力を込められたらどうなってしまうか。
ガクガクと脚を震わせ、戦慄する僕に、彼女は表情ひとつ動かさず、一度目から全く変わらぬトーンと声でまた言った。
「はい、あーん」
「………………」
僕の中にいる誰かが、ゆっくりと白旗を上げてゆくイメージ。それとシンクロして、口がゆっくりと開いていく。
フォークが刺しているその物体が丁度通れるぐらいの隙間が空いた瞬間、すかさずそれは押し込まれ、口内に甘い味が広がっていった。
「……あンマ〜〜〜い!」
思わず叫んでしまう。
これまで口にしたことのある何よりも、とろけるような濃厚な甘み。
それは咀嚼するごとに広がっていき、口内のみに留まらず、脳すらもとろけていくような感覚を僕に与え、嚥下した後も余韻が残り続けた。
「どう? 美味しい?」
ニコリと笑みを浮かべた新須茉茶華の問いかけに、ぼんやりと頷く。
美味しいなんてレベルではない。味わったことのない恍惚に包まれ、意識が混濁し、身体から力が抜けていく。
何だろうコレ、もしかしたら記憶がどうのこうのというだけでなく、更によろしくない成分が入っているのかもしれない。
「はい、あーん」
……そんなのどうでもいい。
僕は、目の前の天女から再度差し出された天上の美食を、大きな口を開けて迎え入れた。
頭の中が真っ白になり、意識が遠のいていく――
――目を覚ますと、眼鏡をかけた女子の顔がすぐ目の前にあった。
「あっ、気がついた」
「日比野……」
半ば無意識に、彼女の苗字を呼ぶ。
クラスで隣の席の、優等生チックな見た目に反した残念女子、日比野乃々美は寝そべっている僕の傍らに座り、上から顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? どこか痛かったりしない?」
「大丈夫……」
意識はまだ明瞭ではなかったが、とりあえずそう答える。少し側頭部あたりがジンジンするような気がし、身体中が締め付けられていたような感じもするのだが。
日比野はホッとしたような笑顔を見せた。
「良かった」
「えっと……僕は、何を……」
身体を起こし、頭の中の靄を振り払うように、首を振ったり回したりしてみる。
口の中がやたら甘ったるい。
「あなたはこの調理実習室の裏のところで気を失って倒れていたのよ」
声の方を振り向くと、ストレートの長い髪が艶やかに目を惹く、令嬢然とした女生徒が椅子に座っていた。
艶然とした微笑みをたたえ、こちらを見つめている。
「一体全体、あんなところで何をしていたのかしら?」
「何をって……」
「ひょっとしたら、覗きでもしてたんじゃねえのか?」
椅子に座った美女の透きとおるような声とは打って変わった、大きくがさつな声が飛んでくる。
そちらを見ると、声だけでなく背丈も大きな赤髪の女生徒が腕を組んで立っていた。
「何せここは美女揃いの女の花園だからな。このスケベ野郎が! ワハハハ!」
「えーっと……」
唐突に現れた人物に、唐突なことを言われ、返す言葉に窮してしまう。
「失礼よアイナ」
ロングヘアの美女に軽くたしなめられると、赤髪の女子はおどけたように頭を掻いてみせた。
今呼んでいた名前は、何だか覚えのあるような気がする。
「アイナ………あ、武郷アイナ!」
瞬間、思わず大きめの声が出てしまった。
「そうだ! オレは武郷アイナ! とても強くて、とても強力な武郷アイナだ!!」
『先輩』が付いていなくても、武郷アイナは気を悪くした様子はなく、決めポーズらしきものをとり、決め台詞めいた感じで意味が重複した発言をする。
「さすがに名前が知れ渡っているのね」
「フッ、まあな」
「ところで仕事の方は大丈夫?」
「お、おうっ! 抜かりないぞ!」
武郷アイナは慌てた様子で、扉へと窓へと、首を左右する。
「えーっと、ここはね、クッキングクラブが使ってる調理実習室なんだよ」
何となく空々しい声で、日比野が説明を始める。
「あそこにいるかわいらしい人が代表のイヅルさん」
日比野が指し示した方を見ると、三角巾にエプロン姿の少女が、体育座りの姿勢で壁に寄りかかって、本を読んでいた。
紹介されてもこちらを見向きもせず、表情も動かさず、黒いブックカバーのかけられた大きな本に没頭している。
「……へぇー、あの人が代表さんなのかあ」
「うん。それでそっちの綺麗な人がマサカさん」
「茉茶華さん」
おうむ返しする僕の声を聞いて、茉茶華さんと紹介された女生徒は一瞬片眉を上げたような気もしたが、軽く会釈してくれたので、僕もペコリとお辞儀を返した。
日比野はぎこちない笑顔とともに両腕を広げてみせる。
「とまあ、こんなメンバーでユカイにやってるの」
「へぇー、そうなのかぁ。周りが先輩ばかりで日比野も大変なんじゃないか?」
何気なく言うと、武郷アイナが磊落に笑った。
「ワハハハ! それは心外な言い草だな。むしろ我々の方が面倒見させられて大変なんだぞ。お前は知らないのかもしれないが、乃々美は見た目によらずアホなのだ!」
一切オブラートに包まず本当のことを言う。「そうですよね」とも「あなたも大概なのでは」とも言えず、適当な愛想笑いでお茶を濁しておく。
そんな僕に、今度は別の方向から声が投げられた。
「ねえ、水原静矢くん」
ロングヘアの美女は、その長い髪をサッと掻き上げると、こちらへと近づいてきた。
「……君、アイナは有名人だからともかくとして、代表や私のことも前から知ってたんじゃない?」
「……えっ?」
鋭い口調と射抜くような目に、固まってしまいそうになるが、どう答えるべきかは決まっている。
「そんなことないですけど……お二方とも、初めてお会いしました」
「……ふーん」
手を伸ばせば届くぐらいの距離まで近寄ってくる。目線は一切外そうとしない。
「じゃあ、どうして私たちが日比野さんの先輩だってわかったの?」
「えっ?」
思わず間の抜けた声を出してしまう。当然表情もさぞかし間の抜けているであろう僕を見て、彼女は口角を上げる。
「私たちが先輩だなんて、彼女一言も言ってなかったわよ。今回は」
「えっ? ……えーっと、その、ほら……そうだ、代表と副代表だって言うから。当然先輩だろうなと……」
泡を食って弁明したが、新須茉茶華が更に口角を上げたのを見て、僕は己の愚に気がついた。
「副代表だなんて言ってなかったわよね。今回は」
「…………」
あっさりと看破された。
彼女が鋭かったというよりも、僕が迂闊すぎたのだろう。何となくの雰囲気とか武郷アイナとタメ口で喋っていたからとか、いくらでもこじつけようはあったのに。
日比野や武郷アイナをアホなどとは、やはり口が裂けても言えない僕だった。




