第二話 薔薇と新しいドレス
白い頬にクリームを付けて、ガラス器具のボウルと格闘する女性がいた。
一生懸命に白い液体をかき混ぜていると頭を傾けた拍子に髪が垂れ、邪魔になったその髪を耳に掛けようとすればする程、手についたクリームが毛先にくっついて白金色の髪が汚れていく。
それを見ていたメイドは急いで駆け寄ると濡れた布で拭き取って、髪を綺麗に纏めてリボンで結んだ。
ポニーテールに結われた毛束を手の平でぽんっと確かめると、女性はメイドに微笑みを向けて、またゆっくりと丁寧にボウルの中のクリームをかき混ぜる。
クリームの出来上がりを確かめるため泡立て器を持ち上げ、角を立てくるんと弧を描く。テーブルの上にあらかじめ準備しておいた茶色い生地にクリームを垂らし、万遍なく伸ばして塗ると壊れ物を扱うように優しく巻いていった。
くるくると巻かれて分かる、ロールケーキの美しさ。
少し歪んだ形ではあったが、生地に描かれている模様は繊細な薔薇模様。教えた手順通りに出来上がったロールケーキを見て、メイドははにかんでいた。
「わぁ、上手に出来ましたね! とっても美味しそうですよ」
「ありがとう、ダイナ。無理を言ってごめんなさいね」
「いえ、マルティナお嬢さまのお願いですから。
ではこれは……ダイナが切り分けますね」
「待って。最後まで自分でやりたいの!」
ダイナがナイフを手に持つと、それを静止するように手を重ねてマルティナはナイフを抜き取った。お姫様の突然の行動に驚いた彼女は周囲を一度見渡したが、幸いな事にこの場には誰もいなかった。
心配する彼女の気もしらずに、マルティナはロールケーキの端を切り落として三センチ間隔に切り分けていった。
刃先にこびり付いたクリームを布で拭き取り、食べやすいサイズになったロールケーキを皿に盛り付けていく。埃が入らないようにと上から布を被せてワゴンに載せた。その隣ではダイナが、使用した調理器具を洗い流して全て元の場所に戻し、手慣れたテンポで紅茶のカップにソーサラー、砂糖と茶葉、そしてお湯とポットを準備して同じワゴンに載せていた。
お茶会の準備を済ませた二人は、互いに顔を見合って微笑んだ。
マルティナ達は妹君サンドラの部屋へと訪れて、扉を軽くノックしてみた。
「サンディーさまはいらっしゃらないようです。残念ですね」
「ええ……きっとまたどこかで勉学に励んでいるんだわ。もう少し子供らしくても良いのにね」
反応はなく、何も物音がしなかった。今は留守にしているようで残念そうにするダイナに、マルティナは溜め息を吐いて肩を竦めた。
「きっと、お嬢さまのお役に立ちたくて頑張っているんですよ。ケーキはあとで渡しておきます」
「そうね。あとは彼だけど……」
周囲を気にしながら先頭を歩くマルティナの後ろから、ダイナはワゴンを押して付いて行く。そんな彼女たちの前からは腰に細剣を携えた男性が歩いていた。男性は二人の姿を捉えるとマルティナの側まで早足で進み、小さくお辞儀した。
「ご機嫌麗しいですね、マルティナ嬢。それとダイナ君も」
「あら、エルンスト王子! いいタイミングで会えたわね。ちょうどあなたの話をしようと思ってたところなのよ」
「それはそれは……」
「ねぇ、一緒にお茶はどうかしら?」
「お誘い感謝します。
僕もちょうど手が空いていたところなので、ご一緒させてもらいましょう」
エルンストはマルティナの隣に並び談笑しながら歩みを進める。空はとても澄んだ青空で、この日はお茶を嗜むのに打って付けの日だった。
薔薇園の木漏れ日はとても綺麗で、マルティナのお気に入りの場所だった。そこに白い丸いテーブルと椅子を設置してからは、晴れた日にはメイドのダイナを伴ってお茶を楽しむ事もあった。
マルティナとダイナ、そしてエルンストはお気に入りの場所へと訪れた。
「これが、そのマルティナ嬢の手作りのロールケーキですか」
テーブルにダイナがロールケーキと紅茶を配膳していく。
「ええ、お口に合うか分からないけれど。ダイナに教わったのよ」
「ダイナ君が……? それは楽しみだ」
目の前の薔薇模様のロールケーキをまじまじ見ると、エルンストは本当に驚いた様子でマルティナへ視線を向けた。薔薇の花びらが浮いた紅茶に角砂糖をひとつ、ふたつと入れてスプーンでかき混ぜると彼女は控えめに微笑む。
フォークを手に取った彼はロールケーキを一口サイズに切り分け、口に含むと感心した様子で頷いた。
「うん、とても美味しい。さすが姫君付きのメイド、教えるのが上手ですね」
「そうでしょう! 本当にダイナにはいつも感謝しているの」
「そんな……私なんて」
それはお世辞ではない二人の純粋な感想だった。
ダイナはマルティナ専属のメイドであり、作法から教養までどこに連れて行っても恥ずかしくないように学んでいた。けれど、自分に自信をあまり持てない彼女は俯いて小さく首を左右に振った。
マルティナは微笑むとケーキ皿を持って立ち上がり、一口サイズに切り分けたケーキをフォークに刺して彼女の口元に持っていった。
「ダイナ、口を開けて一口食べて。あなたの協力があったから上手に出来たのよ」
「そ、そんな……困ります。お嬢さま、王子さまもおられるのに……」
「大丈夫よ! 彼なら秘密にしてくれるわ。ねっ、そうでしょ?」
あわあわと困った様子のダイナの口元につんつんと楽しそうにケーキを押し付ける姿を見て、エルンストは肩を竦めた。マルティナの傍若無人で自由な立ち振る舞いに双眸を伏せ、やれやれと同情していた。
「姫君には敵いませんね。
僕は何も見なかった……そういう事にしておきましょう」
「お、王子さまっ?!」
「あはは、ダイナ君も大変ですね」
「もうっ、エルンスト王子ったら。でも、そのお気持ちに感謝しますわ。
ほら、ダイナ……」
マルティナはぷくっと膨れ小さく息をするも、にんまりとした笑みを浮かべた。
ぐいぐいぐいっとさらに押し付けられてはみ出た生クリームは、ダイナの口端に白く零れ落ちる。
「――っ、お嬢さま……」
何とか口をもぐもぐと動かして食べるダイナ。ごくっと飲み込むと、とても美味しかった事をマルティナに伝えて二人は小さく笑い合っていた。
楽しくもイタズラ的で、日常によくある風景のお茶会。
それは霧に包まれたように白くなっていき、小さく消えていく。
もう目の前には広がらない光景だったが、耳を澄ませばあの薔薇園で聴こえていたような小鳥達の囀る声が響いてくる。
お日様のようなあたたかな匂いと、柔らかい感触。そっと目を開けた女性は、自分が豪華なベッドで寝ていた事を知る。
起きれば夢をみる事は、もう叶わない。女性の目尻からは涙の流れた跡。
さっきまで三人で話していたお茶会の風景は、何処か懐かしくて幸せなのに思い出そうと考え込むと、頭に霞がかかったようにして思考を阻んでくる。もどかしい気持ちが胸にずっしりと重くのしかかっていた。
果てのない虚無感だけが目覚めた女性の中に残るのだった。
ゆっくりと上体を起こすと、体中に痛みが走って咳込んだ。
そんな彼女に亜麻色の髪のメイドが駆け寄ると、優しく背中を摩るのだった。
「おはようございます、お目覚めになられたのですね。
ご無理はなされないでくださいっ!」
「お、……おはようございます。ありがとう、あのっ、ここは……」
「ここはエーレヴァイス城です。ユミル王子様から手厚くもてなせと仰せつかってますので、何でもおっしゃってくださいね?」
落ち着いた姿を見て一歩下がると深々と一礼し、メイドは優しく微笑んだ。
どこか夢の中で話していたメイドの姿と面影が重なり、もっと思い出そうと考えると頭痛が走って首を左右に振った。目の前にいるメイドは笑顔だったが、どうにもきっちりとした性格のようで不思議と弱った心を惹きつける魅力もあった。
メイドは女性の額に手をあて、自身の額にも手をあてる。
もしかしたら熱があるのかも、そう思ったようだが熱はないのを確認して近くのワゴンから茶葉を選び、香りの良い紅茶を一カップ分注ぐと女性へ手渡した。
「どうぞ、アールグレイローズティーです」
「ありがとう。とてもあたたかくていい香り……美味しい」
「ふふっ。この紅茶はですね、優しい味なのでリラックス出来ますよ。それに薔薇の花は見ても香っても素敵ですし、大人から若い女子にも幅広く人気なんです。ただ、エーレヴァイス領では珍しい花なので、ちょっとお高いんですけどね」
メイドの言う通り薔薇の花びらが浮かぶ紅茶を目で楽しみ、次に香りで楽しんで一口、二口と飲んでいく。
沈んでいた気持ちは今ではすっかりと落ち着いて、紅茶を楽しんでいる女性をよそにどこからか取り出したドレスを三種類程ベットに並べて、メイドは顎に手を添え考え込んでいた。
「どれがいいかしら。うーん、これなんてどうでしょう。
ピンクベージュで落ち着いた感じ……」
「……はい?」
「うん、こっちのドレスならティアードになっていないし、ふくらみが綺麗に見えるかもしれませんね。でもこの装飾は……」
ドレスを持ち上げて女性へ宛がうと段々にはなってないものの、フリルの量とレースの配置にメイドは眉を寄せて考え込んだ。
更に残りの一着に目を向けると落ち着いたカーキ色のドレスで、嬉しそうに手に取って眺める。
「こっちの服は色も装飾もとても落ち着いていて……あぁ、これだとバッスルになってしまうから駄目かしら……。あなたはどれがお好みですか?」
「え、えっと、その……お任せします」
「うん、こっちの生地もふわっとしていいです。着飾るのは女子の嗜みですもの」
ぴしっと指を立てるメイド。
「それじゃあ、着替えましょう。このままでは殿方にお会いできませんものね」
シュミーズとドロワーズ姿の女性を立たせたメイドはコルセットを締めていく。ぎゅっと力強く締める事によってウエストはさらに細く、胸骨の苦しみに呼吸が浅くなった女性は口元をうっと押さえた。
それを見たメイドは紐を緩めて、呼吸のしやすいように締め直した。
「ごめんなさい、苦しかったですよね。このくらいならどうですか?」
「ありがとう、大丈夫です。こんなに苦しいなんて……」
「ふふっ、あなたのお召し物にはコルセットがありませんでしたね。これもまた女子の嗜み、ウエストの細さに比例して男性を虜に出来る魔法のアイテムです。さぁ、次はクリノリンですよ!」
鳥かごのようにも見えるクリノリン。ピンクベージュのドレスを着せられて、ふんわりとしたスカートに女性は驚いていた。
ドレスはギャザーやフリルの三段ティアードスカート。服の袖にはレースをふんだんに使ったフリル。けれど、クリノリンを着用した事で広い円形に固定される事によりスカートの中は足元が解放される面積も多く肌寒さも感じ取れるのだった。
それにバランスが取れた形だが、ほんのりと重く一歩を出しづらいクリノリンに女性は困ったように眉を寄せた。
白金色の髪を綺麗に梳いて整えたメイドは不思議そうに問いかけた。
「どうかなさいましたか? あら、とってもお似合いですよ」
「いえ。ただ、思ったより動きづらくて……」
メイドは頬に手を添えて考えると、スカートの下に履くクリノリンの代わりになる下着の事を思い出してにっこりと笑った。
「そうですか? うーん、肌触りがよくて動きやすいのもありますが……慣れそうになかったら、その時は教えてくださいね」
「ありがとう。助かります」
彼女の気遣いに女性は感謝して、部屋の中をゆっくり歩いてドレスの着心地を確かめてみた。おぼつかなかった足取りは不思議な事に次第に良くなっていき、その場でくるっと回ってスカートはふんわりと波を打った。
安心したメイドは使わなかった服を簡単に畳んでワゴンの下に仕舞い、女性の飲み終えた紅茶のカップも一緒に片付けた。
「それでは、私はアルベルト様をお呼びしますので。ここでお待ちくださいね」
「アルベルト……さま?」
「はい、ユミル王子様専属の騎士様です。ちょっと影のあるお方なのですが、そこがまた女子の心を虜にする殿方なんですよ」
「まぁ、そうなのですか。ふふっ、あなたもその中の一人とか……?」
「いえいえ、私は彼の本性を知っておりますので!
では、失礼します。ごゆっくり……」
口元を手で隠して小さな笑い声を漏らしたメイドは、ワゴンに乗るティーカップをひっくり返しそうになると傾きかけたカップを慌てて整える。
扉の前で一度深々と頭を下げるとワゴンを押して部屋から飛び出したのだった。
彼女が出ていった扉を見つめて、女性は小さく微笑んでいた。