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第十九話 二歳児、イヤイヤ期に入る



「そうだ。昨夜バルシュ様が帰ってきてらしたわよ」


 その言葉に、とくんと心臓が跳ねた。


 ……とくん?


 いやいやいやいや!

 あやつ、帰ってきたくせに、この私に挨拶もなしか?!

 いいご身分だな、おい。


 ……だがまぁ、無事に帰ってきたのか。

 うむ。労ってやらなくもないぞ。


 私の髪を梳かしながら、母上が鏡越しににっこり笑う。私はにやにや弛みそうな顔を慌てて引き締めた。

 

「今日は前髪を編み込みにしたわ。ほら、可愛い」


 可愛い。

 もちろん可愛い。

 私は美幼児だからな。


「お洋服どれにする?このピンクのスカートにする?」


 お気に入りのスカートだ。

 ふんわりと膨らむ、チューリップのような可愛いスカート。


 だが。


 私は黒いズボンを引っ掴んで、履いた。


「それでいいの? バルシュ様に会えるかもしれないのに」


 だからこそです、母上!

 メガネのためにめかしこんだなどと勘繰られては、我が沽券に関わるのです!


「そういえば、昨夜は聖女様と話し込んでおられたわよ。何かあったのかしらね?」


 聖女?


 ………………。


 はぁぁぁぁぁぁぁぁあ?!


 あのかわいこちゃんか?

 それとも廊下で声を掛けてきたあいつらか?

 私に会いに来ず、聖女と話していただと?!


 確かに、私に報告する義務はない。

 だが、私を崇めるなら昨夜のうちに来るべきではないか?

 ゾランならともかく、聖女と何を話すことがあるのだ。

 私がいったい、どれだけ心配して……!


 ……いや、別に、元部下が心配だっただけだが。

 それでも。それでもだ!


 腹立ち紛れに、毛玉のできた黒いニットを強引に被ると、前髪がぐちゃりと崩れてしまった。


「あらあら、直そうか?」


「いい」


「でも……」


「いいんでしゅ!」

 

「あらまぁ……イヤイヤ期かしら」


 母上は頬に手を当てて首を傾げる。


 ああ、なるほど。

 そうかもしれぬ。もう二歳だしな。

 メガネが報告に来ないことくらいでムカつくなど、おかしいと思った。

 何もかも気に入らないのがイヤイヤ期だと聞く。そうに違いない。


 納得すると、気分が晴れた。

 私は母上と手を繋いで、スキップをしながらこども園へ向かった。


 メガネが帰ってきたのなら、朝の礼拝は奴がするのかもしれん。まあ、仕方ないから一ヶ月の勤めを労ってやるか。だが、抱っこをせがむのはやめておこう。もう二歳のお姉さんだしな。


(なんか、機嫌いいな)


 聖堂へ朝の礼拝へ向かう途中、エミルが眉根を寄せる。

 いつの間にか、エミルと繋いだ手を振り回していたらしい。


(別に普通だぞ。だが、そうだな……イヤイヤ期の来たお姉さんだからかもしれぬ)


(ごめん、意味わかんない)


(ふ。子どもにはわからぬだろう)


(はぁ?)


(私はひと足先に大人への階段を登ったのだよ、エミル君)


(うざっ)


 だが、朝の礼拝に来たのは、別の神官だった。

 みるみるうちに楽しい気分が萎れ、イライラが膨れ上がる。


 ……あの野郎。

 礼拝をサボるとは、聖務をなんと心得るか!

 いや、聖務なんぞクソくらえだがな!


 帰り道、エミルが再び眉をひそめた。


(足取り重すぎないか? ほとんど僕が引っ張ってるんだけど)


(……だまれ)


(ケンカ売ってんの?!)


 午睡の時間、私は眠れずにごろんごろんと転がっていた。聖堂から戻ってからと、昼餉の記憶がない。


 ……はて。何食べたっけ。


 ついに、一睡もできないまま、おやつの時刻をむかえた。私は寝起きのボサボサの頭を気にすることもなく席についた。


 スイートポテトを一口食べて、首をかしげる。


 ……む? 味がしない。


 そういえば、昔、聞いたことがある。

 イヤイヤ期とは、感情の出力が全開なのに、脳が未発達のため抑制がきかない状態なのだと。


 それで味までなくなるのか?

 なんと難儀なことよ。

 私はスイートポテトが大好きなのに。


(うわ。ひどい服にひどい髪にひどい顔)


 エミルが呆れたような視線を寄越してきた。


 答えないでいると、ふん、と鼻を鳴らされた。

 イラっとして、やつのスイートポテトにフォークを突き刺すと、がつんと頭突きされる。


「い……ったぁ……!」


(なんなんだよ、君は!)


(イヤイヤ期だ! そなたばかりスイートポテトを美味しそうに食べやがって!)


(難癖にもほどがあるよ!)


 エミルはため息を吐いて、肩をすくめる。


(あのさぁ、そんな言葉でごまかさないで、ちゃんと自分の心と向き合ったら? 何回転生してると思ってんだよ。何があったのか知らないけどさぁ)


 ……誤魔化してなどおらぬ。

 だって本当に制御がきかぬのだから。

 これまではそんなことなかったのだから、これはイヤイヤ期のせいだ。


 窓の外を見やると、葉を落とした、寂しい木々が風に揺れている。落ち葉がくるくると舞い、道の端に流れていく。


 感傷的な気分になるのもイヤイヤ期のせいなのか? 二歳とは、なんともハードモードだな。


 

 そうこうするうちに、帰る時間がやってきた。

 クララに笑顔で手を振り、エミルに「またあしたなー」と拳同士をくっつけ、一人、また一人と減っていく教室で、私は母上を待ちながら大あくびをした。


 午睡なしは、二歳児の体にはキツいな……。


 私はうつらうつらとし始め、いつの間にか眠り込んでいた。


 ふわりと、体が宙に浮く感じがする。

 母上だろうか。それとも先生だろうか。

 体も頭も泥のように重くて、瞼が開けられない。


 ……ああ、でもこの香りは。


 私をしっかりと支える腕と、頭を寄せた胸の温もり。

 私は穏やかな気持ちで、眠りの底へ沈んでいった。


 

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