第2話 死期
それから数日後。
大聖女ミュゲ・ジプソフィルは、寝室の窓から差し込む朝日にゆっくりと目を開けた。
柔らかな光が部屋を包み込み、小鳥たちのさえずりが静かに響いている。
「……朝ですね」
ゆっくりと身体を起こそうとする。
しかし、思うように力が入らない。
腕も足も、若い頃のようには動かなかった。
「ふふっ……」
ミュゲは小さく笑う。
齢八十。
どれほど偉大な英雄であっても、時の流れには逆らえない。
若き日のように一晩眠れば疲れが取れる身体では、もうなかった。
それでも、不思議と悲しさはない。
窓の外では庭師が花へ水をやり、春風が花びらを優しく揺らしている。
子どもたちの笑い声も遠くから聞こえてきた。
その何気ない日常こそ、自分が命を懸けて守り抜いた世界だった。
「本当に……平和になりましたね」
穏やかな笑みが浮かぶ。
その日の昼。
屋敷には大勢の見舞い客が訪れていた。
王侯貴族。
教会の司祭。
騎士団の団長。
かつて命を救われた人々。
皆が深々と頭を下げる。
「ミュゲ様、本当にありがとうございました」
「あなた様のおかげで、私たちは今を生きています」
「どうか、お身体を大切になさってください」
ミュゲは一人ひとりへ穏やかに微笑み返した。
「ありがとうございます」
「皆さんが幸せでいてくださることが、私にとって何よりの喜びです」
夕方になると、見舞い客は帰り、屋敷には静けさが戻る。
代わりに運び込まれたのは、世界中から届いた手紙の山だった。
遠い異国の王。
小さな村で暮らす農夫。
旅の商人。
幼い子どもたち。
色とりどりの便箋には、感謝の言葉がびっしりと綴られている。
『世界を救ってくださり、ありがとうございました。』
『あなたに憧れて騎士になりました。』
『平和な時代へ生まれたことを誇りに思います。』
一通。
また一通。
ミュゲは大切そうに目を通し、そのたびに優しく微笑んだ。
自分たちの戦いは決して無駄ではなかった。
世界は確かに平和になったのだ。
しかし。
最後の一通を閉じると、その微笑みは静かに消える。
窓の外へ視線を向ける。
青く澄み渡る空。
あの日と変わらない空だった。
「あれだけは……」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「まだ終わっていない」
魔王ニコラスは討ち果たした。
だが、あの戦いは本当の意味では終わっていなかった。
魔王討伐隊の仲間たちだけが知る、もう一つの真実。
それは、百五十年後の未来へ託された約束でもあった。
ミュゲは静かに目を閉じる。
「そろそろ……皆に会いたいですね」
そう呟いた瞳には、懐かしい仲間たちの姿が映っていた。
サンセリテ。
アデラーン。
アーサー。
クロエ。
残された時間は、もう多くはない。
だからこそ、今こそ語らなければならない真実があった。




