Episode 37 もしリリーが今日のバレエ公演で優勝できなかったら、サヤンは彼女を養子にするだろうか?
リリーは一晩中、イザベラ先生に教わったあの特別な動き(ムーブ)を何度も、何度も繰り返し練習していました。体が悲鳴を上げても、彼女の心は折れませんでした。
一方で、運命の歯車は静かに、しかし力強く動き出していました。
一方では、バレリーナとしての頂点を目指し、ステージにすべてを懸けるリリーの姿がありました。
そしてもう一方では、サヤンが事件の真相を暴くため、必死に証拠を積み上げ、戦っていました。
リリーは、サヤンという存在を自分のものにするために戦い、
サヤンは、リリーに正義を取り戻すために戦っていたのです。
二人は別々の場所にいながらも、お互いを想う強い気持ちで繋がっていました。
パレ・ガルニエ(オペラ・ド・パリ)は、その圧倒的な壮麗さにおいて、もはや宮殿そのものでした。広々とした豪華なリハーサル室の壁には、歴代のスターたちの肖像画が飾られ、天井には黄金の彫刻が施されています。
会場には、深紅の大きなベルベットのカーテンが垂れ下がり、巨大なドーム状のホールには2000人以上の観客と、世界で最も厳しい審査員たちが席を連ねていました。
会場は、嵐の前の静けさのような、重々しい沈黙に包まれています。
今日、この舞台で勝利を手にする者は、単なる「バレリーナ」になるだけではありません。それは、輝かしい未来を約束された、一人の自立した「成功した女性」へと生まれ変わることを意味していたのです。
バレリーナたちのパフォーマンスがついに始まりました。
審査は非常に厳格で、非情なほどに細かな採点が行われています。
会場の空気はひどく重く、息が詰まるような静寂に包まれていました。
観客も審査員も、一瞬のミスも見逃さないという鋭い視線を舞台に注いでいます。その厳かな雰囲気の中で、リリーの運命を決める時間が刻一刻と近づいていました。
ついに、リリーの順番がやってきました。
彼女はサヤンから贈られた美しいバレエ衣装を身に纏い、控えめなメイクに、すっきりとまとめ上げた髪で舞台の中央に立ちました。スポットライトを浴びたその姿は、凛としていて、同時にどこか儚げな美しさを放っていました。
その時、張り詰めた静寂を破るように、客席からレモンの大きな声が響き渡りました。
レモン: 「リリー!忘れないで!」
“When life gives you lemon, make lemonade.”
(人生が君にレモン=試練を与えたなら、それでレモネード=最高のチャンスを作ればいいんだ)
それは、どんなに辛い状況であっても、それを自分の力で素晴らしい結果に変えてみせろ、というレモンからの心からのエールでした。
その言葉は、凍りつきそうなほど緊張していたリリーの胸に、温かく、そして力強い光を灯しました。彼女は深く息を吸い込み、決意の表情で真っ直ぐ前を見つめました。
リリーは心の中で強く自分に言い聞かせました。
「負けるわけにはいかない。思い出して、リリー。サヤンは言った……『君がオペラ座の舞台で自分を証明できたその日、僕の人生を君に捧げる』と。」
リリーはバレエを踊り始めました。昨夜、イザベラ先生から教わった動きが、まるで体の一部のように蘇ります。
「リリー、『空虚なる伸展(The ethereal extension)』よ。これは単なるアラベスクじゃない。地面を蹴るのではなく、自分の魂で空を飛ぶの。その痛みは私も知っているわ……観客にはその美しさしか見えないけれど、このトウシューズの中でどれほど血が滲んでいるか、誰も気づくことはないものね。」
舞台の上で、リリーは魔法のような奇跡を起こしていました。グラン・フェッテから、滑らかにパンシェへと移行するその姿は、まるでこの瞬間のために生まれてきたかのようでした。その神々しいまでの舞いに、イザベラの瞳には初めて、我が子を見るような誇らしい輝きが宿りました。
審査員1: 「なんてことだ……彼女のポール・ド・ブラ(腕の動き)を見てくれ!確か、リヨンから選抜されたバレリーナだったはずだな?」
審査員2: 「イザベラ先生、一体どんな指導をしたんだ?信じられない……軸が全くぶれることなく、32回転のフェッテを完璧にやり遂げた……!彼女こそ、真のバレリーナだ。」
音楽の波がうねりを上げ、リリーはバレリーナが一生をかけても到達できないと言われるあの動きへ挑んでいました。彼女は片足をまっすぐに突き上げ、つま先立ちのポアントで静止しました。それが「空虚なる伸展(The ethereal extension)」でした。
彼女はゆっくりと腕を上げました。90度……120度……そしてついに180度へ。まるで重力という言葉が彼女には通用しないかのように、その姿は天空に浮かんでいました。両腕を空へ大きく広げたその姿は、今にも空へ飛び立とうとする鳥のようでした。その神々しい光景に、ホール全体が沈黙し、観客の呼吸さえも止まりました。審査員たちも、ただ言葉を失うしかありませんでした。
音楽が終わり、すべての競演者の演技が終了しました。ついに勝者が発表される時が来ました。リリーは目を閉じ、祈り続けました。「どうか……どうか、今日という日を私に与えてください。」
審判の刻
メインの審査員がステージの中央へと歩みを進め、聴衆へ感謝の意を述べた後、厳かに結果を告げました。
「今日、私たちはこの舞台で単なるバレエを見たのではありません。我々の文化の神髄ともいえる、驚異的な光景を目の当たりにしました。これまで多くのバレリーナがパリ・オペラ座の舞台に立ちましたが、今日、ある一人のバレリーナが見せた演技は、一生を費やしても到達できない領域でした。この『空虚なる伸展』を完璧にこなした彼女こそが、真のバレリーナであると断言します。」
会場の鼓動が激しく早まりました。リリーは目をつぶり、再び祈りを捧げました。
審査員が宣言しました。
「数多の候補者の中から、12月31日の夜、フランス全土にバレエの真実を伝える唯一のバレリーナが選ばれました。その名は……ミス・リリーです!」
ホール全体がスタンディングオベーションに包まれ、鳴り止まない拍手がリリーを祝福しました。その歓声を聞いた瞬間、リリーの瞳からは大粒の涙が溢れ出しました。アンバーが駆け寄り、彼女を強く抱きしめます。審査員に再びステージへ呼ばれたリリーは、2012年を代表するバレリーナの栄冠を授かりました。数え切れないほどの称賛と敬意を一身に受け、彼女は真っ先に恩師イザベラの元へ駆け寄りました。イザベラもまた、喜びと感動の涙を流しながら彼女を抱きしめました。
その後、レモンとエナモムが彼女を囲みました。
エナモム: 「リリー、今日という今日の君は本当に美しいよ!あのバレエは……言葉にならないほど素晴らしかった。」
レモン: 「リリー!信じられないよ。本当にやったんだね!」
リリーは幸せそうに微笑みながら、周囲を見渡して尋ねました。
「ねえ、サヤンはどこ?」
「さっきまでここにいたんだけど、急な電話が入って外へ出たみたいだよ」とレモンが答えます。
リリーが駆け足で外へ出ると、そこにサヤンの姿がありました。二人は吸い寄せられるように近づき、固く抱き合いました。サヤンは喜びのあまり、リリーを抱きかかえてくるくると回りました。その表情には、隠しようのない幸福が満ち溢れていました。
サヤン: 「おめでとう!僕のリリー、本当に、本当に、本当に嬉しいよ!何でも欲しいものを言ってくれ。」
リリー: 「12月31日までは、何もいらないわ。ただ……サヤン、あなたがいればそれだけでいいの。」
サヤン: 「ああ、もちろんだよ。」
リリー: 「ねえ、サヤン。一緒にステージに戻って『パ・ド・ドゥ(男女のペアダンス)』を踊りましょう。」
二人は互いに微笑み合い、まるで世界に二人しかいないかのように幸せな時を過ごしました。その夜、ホテルでは盛大な祝賀パーティーが開かれましたが、運命はすでに静かに動き出していました。
忍び寄る影
ホテルにて。
リリー: 「ああ、今日はもうクタクタ……。もう私を困らせないでね。」
サヤン: 「リリー、明日は空いてるかい?」
リリー: 「12月31日までは完全に自由よ。何か用?」
サヤン: 「明日、僕と一緒にどこかへ行ってくれないか?」
リリー: 「わかったわ。」
これまでの幸福に満ちた空気とは裏腹に、明日起こる出来事が、二人の未来を決定づけようとしていました。
まるで秋の訪れと共に、木々から枯れ葉がひらひらと舞い落ちていくように、私たちの人生の輝きは、明日というたった一日にすべてが託されていました。




