9.父上と呼ぶ
敵の追跡を避けるため、あえて家とは反対に方角に潜んでいたが、もう屋敷へ戻ると決めた。
眠気を孕んだ意識のままで不安定ではあるものの、少しずつ歩みを進めている。
森の景色はぼんやりと映った
冷たく湿った空気があたりを包み込んでいる。
「……早く、帰りたい……」
息苦しさを覚えながら、蓮次は絞り出すように呟く。
目を閉じると父の厳しい顔が浮かび上がった。
期待に応えられなかった自分。
父はなんと言うだろう。
屋敷までは遠い。
日が暮れると、孤独感が増した。
「……父上」
父を呼んで、目を伏せる。
歩みを止めて、近くの木にもたれかかった。
またあの胸の奥に突き刺さるような痛みに襲われている。
「……痛い……」
声に出しても、何も変わらなかった。
それは肉体の痛みではなく、もっと深い場所――魂の中で何かがざわめいているようでもある。
不安、恐れ、後悔……それとも、怒り?
意識は少しずつ薄れ始め、蓮次は溶けるように眠りについた。
――目の前にあるのは、あの背中。
漆黒の髪が風に揺れている。
大きな背が黙って森の奥へと向かっていった。
その背中を、追い続けたのだ、いつだって。
なのに、どれだけ走っても届かない。
何度も、何度も必死に叫んだ。
「父上……!」と。
けれど一度も振り向いてはくれなかった。
ただの一度で良かったのに。
たった一言でも褒められたなら、それだけで救われたはずなのに。
――これは、誰の“心”だろうか。
記憶の中に無いはずなのに、“記憶”として残っている。
答えは出ないまま、夢はぼろぼろと崩れ始める。
目が覚めた。
朝の光が、青白く森に差し込んでいた。
湿った苔の匂いで意識が覚醒する。
そこに、ぽつりと一粒。
冷たい雨粒が頬に当たった。
その雨は、森の涙のよう。
「……帰ろう……」
家に帰って、父に報告する。
叱られるかもしれないが、なぜか淡い期待を抱いてしまう。
生きていて良かった――
そんな一言をもらえるのではないかと。