88.鬼衣屋
灰色の雲が空一面を覆っている。日の光は森に届かず、ひんやりとした空気に覆われていた。
木々の間を縫って細い小道に出た。
黒訝が先を行き、蓮次は少し遅れてついていく。
2人の歩調が揃うことはなかった。足音は少しずれて静かな道に響いていた。
しばらくして、目の前に大きな建物が現れる。山の麓、木々に囲まれるようにして建つ大きな屋敷。
鬼衣屋。
表から見れば、普通の着物屋だ。
ここには時折、人間が立ち寄り、品の良い反物や仕立ての良い着物を買い求めていく。だが、ここはただの店ではない。
鬼が営む鬼のための着物屋。朱炎一族の者たちが、ここで着物を仕立てる。
ここでは、衣に関わるすべてが揃った。
──身を包むもの、彩るもの。
広い店構えの奥には、畳の香る大広間や手入れの行き届いた中庭があり、鬼たちが行き交った。
ある部屋からは静かな談笑が聞こえる。選び抜かれた反物が丁寧に並べられ、目の肥えた鬼たちが品定めをしていたりする。
黒訝が店の前に立つと、すぐに店の者たちが気付き、頭を下げた。
「黒訝様」
低い声で恭しく迎えられるが、黒訝は当然とばかりに、何の躊躇もなく店の中へ踏み込んだ。
だが、その直後——。
少し遅れて蓮次が到着した。
それまで落ち着いていた店の者たちが一斉に動揺し、慌てて頭を下げた。
黒訝に向けられたものとは明らかに異なる、畏怖の色を帯びた礼。
年老いた鬼たちの表情には、尊崇の念すら滲んでいた。若い鬼たちは、周囲の態度を見て倣って遅れて頭を垂れる。
蓮次は眉をひそめた。
「……そういうのは、やめてくれ」
低く言い放つと、店の者たちは顔を見合わせた。困惑が広がる。
「……しかし」
「俺はそんな風に扱われる覚えはない」
蓮次が強く言うと、店の者たちは渋々といった様子で頭を上げた。しかし、どこか腑に落ちないような雰囲気をまとったまま。
「……承知しました」
やがて、誰かがそう言うと、店の空気はようやく落ち着き始める。ただし、蓮次への畏怖の念は拭えないままのようだ。それを表に出さないようにしていると分かる。
蓮次は小さく息を吐いた。
その様子を黙って見ていた黒訝は、蓮次を睨んだ。
蓮次に向けられるこの扱い。黒訝は面白くなかった。
それだけではない。
蓮次がそれを迷いなく切り捨てるのも気に食わなかった。
(……くそ腹立つ)
しかし、そんな黒訝の苛立ちをかき消すように、軽やかな声が店の奥から響いた。
「黒訝様ーー!」
振り返ると、若い鬼の少女が三人、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
一人が黒訝の腕にしがみつき、もう一人が肩に凭れかかり、もう一人が袖を引く。
「お久しぶりですね!」
「またお着物を破いたのです?」
「そういえば、黒訝様にぴったりなお着物がありますわ!」
不機嫌そうにしていた黒訝だったが、少女達の会話に表情を崩した。
「お前ら、相変わらず騒がしいな」
「だって、黒訝様が来ると楽しいんですもの」
黒訝は腕にまとわりつく少女を振り払うこともせず、むしろ嬉しそうにしていた。
その様子を見ていた蓮次。
(……なんだこいつ)
女鬼たちに囲まれて、気を良くしている黒訝の表情、態度が、少し気に食わない。
(……なんか、ムカつく)
蓮次はため息をつき、理由の分からない苛立ちを押し込めるように、目をそらした。




