64.崩壊
黒訝の爪が風を裂き、軌跡だけを残して振り抜かれる。
蓮次は身を翻し、紙一重でその一撃を躱した。身体が自然に生死の境を選び取っているにすぎない。
黒訝の攻撃は途切れない。追い詰めるための一撃に次の一撃が重なり、怒りは勢いを増して爪先に宿る。
「お前が一族を背負うなど、許されるものか!」
怒声とともに爪が頬をかすめ、空気が震え、遅れて皮膚を裂いた。血の線が浮かぶ。
蓮次の視線が揺れることは無い。焦りも怯えも、その瞳には映らない。
「俺はそんなものに興味がない!」
吐き捨てるような声は黒訝の神経を逆撫でした。
「悪鬼に堕ちろ! 死ね!」
「俺は鬼にならない!」
「クソ人間が!」
「なら構うな!」
「ふざけるな!」
「ふざけてなんかない!」
言葉をぶつけ合いながら、爪と身が交錯する。
蓮次は最小限の動きでかわし続け、戦いそのものに意味を見いだしていない姿勢である。それが、かえって黒訝を苛立たせた。
蓮次の身のこなしには、勝敗への執着が欠けている。
そんな覚悟で生きるつもりかと、黒訝の怒りは頂点に達した。そして、力任せに踏み込んだ。蓮次の足元に迫る崖の存在を、承知したまま。
——消えるがいい。
蓮次の足元では地面が音を立てて崩れ始めた。
その瞬間、蓮次の顔が歪む。首元を押さえ、声にならない呻きが漏らし始めた。苦痛に身体の自由が奪われたのか、視界が定まらないようだ。
崖の崩落とともに、蓮次の身体は虚空へ投げ出される。
「蓮次!!」
黒訝が気づいたときには、蓮次の身体を引き上げていた。
自分の行動を理解できず、息を呑む。助ける意思などなかったはずだった。
「何を……」
怒りが遅れて湧き上がり、放り投げようとした刹那、腕が止まってしまう。
蓮次が首を押さえ、震えている。呼吸は浅く、苦悶に歪んだ顔が異常を訴えていた。
黒訝は指の隙間から覗く首筋に目を留める。ひび割れたような傷跡。爪によるものではない。
手を退けると、裂け目の奥から赤黒い気が滲み出していた。血ではなく、もっと深い何か。
本能が警鐘を鳴らす。
黒訝は慌てて蓮次の首に手を当て、溢れ出る負の気を押さえ込んだ。
耀の気配が鋭く張りつめ、こちらを見据えているのがわかる。
思考を挟む余地はない。黒訝は意識を手のひらに集中させ、己の気を流し込んだ。
「俺は、治癒の術は使えない……けど」
言葉は途中で途切れた。崖から引き上げたときも今も身体が先に動いていた。どうも心が乱れてしまう。
気が巡るにつれ、蓮次のひびはゆっくりと閉じ始めた。
「……っ」
蓮次がうめき、身を捩る。
「動くな」
黒訝の声音は真剣だった。
やがて亀裂は塞がり、蓮次の身体から力が抜けた。
黒訝はふっと息を吐き、蓮次を引き離す。顔を上げ、少し離れた耀を睨みつけた。
「お前、見張りだろう」
「申し訳ございません、黒訝様」
「まったく。こいつを連れて帰れ」
耀は頷き、倒れている蓮次を静かに支えた。
黒訝はそれ以上言葉を残さず、音もなく立ち去った。
◇
森を駆け抜ける。胸の奥に燻る苛立ちを振り払うように。
(なぜ助けた)
鬼ですらない未熟者のために。
『お前が蓮次を守れ』
父の声が脳裏をよぎる。
——守るだと? あいつを?
嘲るように思考を振り切ろうとしても、あの表情が離れない。苦痛の中で、どこか安堵したような顔。無意識に掴んできた着物の感触。
自分の力が蓮次に届いた。その事実が、確かな重みを残している。
何かが崩れ、名を持たない感情が芽吹いたようだ。
胸に広がる、どこか満たされるような、だが違和感。
「……チッ」
舌打ちをして、打消した。
黒訝は森の奥へと逃げるように走り続けた。




