62.影が陰に
隣で、蓮次が崩れ落ちた。
それは、音もなく折れた一本の枝のようだった。
黒訝は、ずっと怒りを向けていた。
刺すような視線で、貫くように。
そして今、その視線の先で、蓮次は床に転がっている。
広間の空気が、一瞬で凍りついた。
黒訝は動かなかった。
冷えきった目で、倒れ伏す蓮次を見下ろしている。
――弱い。
あまりにも、脆い。
こんな存在が、父の興味を引き続けているなど、許されるはずがない。
このまま、消えてしまえ。
そう願った瞬間、黒訝の内側から、どす黒い殺気が滲み出した。
煙のように、毒のように。
だが、その殺意を、背筋ごと凍らせるものがあった。
広間の奥から放たれた、圧。
朱炎――父の視線が、黒訝を射抜く。
熱を孕んだ怒気。
言葉を介さずとも分かる、絶対的な叱責。
圧倒的な威圧が、黒訝の身体を締め上げる。
頭が割れそうに痛み、思考が軋んだ。
だが、自分までもが倒れるわけにはいかない。
蓮次のような失態を、晒してなるものか。
黒訝は歯を食いしばった。
朱炎の傍らで、耀が烈炎に短く指示を出す。
次の瞬間、烈炎は風のように蓮次の元へ現れ、その身体を抱え上げた。
何事もなかったかのように。まるで、それが当然の流れであるかのように。
烈炎は静かに広間を後にする。
張り詰めていた緊張が、ゆっくりと溶けていった。
だが、黒訝の胸には、焼けつくような不快感だけが残った。
やはり、納得がいかない。
本来なら、蓮次は叱責されるべきだ。
この場で倒れるなど、あってはならない失態。
それなのに。
父は、蓮次を見なかった。
代わりに、自分を睨んだ。
耀も烈炎も、最初からこうなることを知っていたかのように動いた。
当然のように、蓮次が倒れることを受け入れていた。
つまり――
朱炎も、耀も、烈炎も。
蓮次の弱さを、承知の上で、ここに置いている。
――恥ずかしくないのか。
黒訝は、胸の内で叫ぶ。
他の一族の者が大勢集まるこの場で、
あの体たらくを晒すことを、父はどう考えているのか。
なぜ、蓮次を出席させたのか。
理解できない。
結局、蓮次の失態に誰も触れぬまま、集いは終わった。
その後、朱炎と他の一族の長、そして選ばれた者たちだけが別館へ移り、宴が催される運びとなる。
次々と屋敷を出ていく強者たち。
その背は圧倒的で、とても近寄りがたい。
見送る鬼たちの間にも、重く沈んだ空気が流れていた。
この場に残された朱炎一族の鬼たちには、耀が新たな任務を言い渡していく。
黒訝もその一人だった。
しかし、耐えられなかった。
黒訝は広間を飛び出し、朱炎の元へと向かう。
「父上!!」
怒りのまま、声を荒げる。
朱炎は足を止め、振り返った。
冷静で、揺るぎない眼差し。
それが、黒訝の苛立ちに油を注ぐ。
「なぜ――!!」
叫ぼうとした、その瞬間。
朱炎が手を挙げ、制した。
その仕草一つで、黒訝は言葉を失った。
朱炎は何も言わず、静かに黒訝を見つめている。
周囲では、他の一族の長たちも、様子を窺っていた。
だが、このまま黙っていられるはずがない。言わずには、いられない。
けれど、先に口を開いたのは朱炎だった。
「お前が、蓮次を守ってやれ」
「……は?」
思わず、声が漏れた。
黒訝の怒りが、一気に噴き上がる。
――今、父上は何と言った?
守ってやれ、だと。
なぜ、自分が。
なぜ、あの半端者を。
黒訝は朱炎を睨みつけた。
だが朱炎はもう黒訝の方を見ることもなく、他の長たちと共に、別館へと歩みを進めている。
その背中は、堂々として、揺るぎない威厳を宿していた。それが、黒訝の心をさらに逆撫でした。
――馬鹿にされているのか。
黒訝は拳を握りしめ、怒りを噛み殺す。
広間に戻る気にはなれなかった。代わりに影に身を潜め、蓮次の部屋へ向かう。
烈炎がまだそこにいる。
蓮次は倒れたままなのだろう。
やがて、烈炎が部屋から出てくる気配がした。
黒訝は、その隙間をじっと見つめる。
――今なら、やれる。
ここで、完全に潰せるかもしれない。
弱った相手を仕留めることに、ためらいはなかった。鬼の世界では、それが当然なのだから。
拳に力を込め、殺気を滾らせた。
しかし突然、体が浮いた。
「おい、黒訝!またこんなところでコソコソしやがって。それでも男か!」
烈炎の声が降ってきた。
影の中から引きずり出され、黒訝は宙づりになっていた。
烈炎の手が、がっちりと腕を掴んで離さない。
「うるさい! お前に何が分かる!!」
「知るか。分かるわけねぇだろ、馬鹿が。……以前の蓮次も同じことを言ってたぜ? やっぱ兄弟だな」
黒訝の動きが、一瞬止まった。
烈炎はそれを見て、にやりと笑う。
「お前は広間に戻れ。ほら、行くぞ」
抵抗は虚しく、黒訝は無理やり連れ戻される。
――どいつもこいつも、馬鹿にしやがって。
怒りは、収まらない。
そして、さらなる屈辱が黒訝を待っていた。
次の任務——蓮次と共に向かえ。
広間に戻ると同時に言い渡された。
「ふざけるな! あんな半端者と共に動くなど耐えられない!」
黒訝は即座に広間から退室した。
そう、蓮次はまだ眠っているのだ。ならば、先に一人で任務へ向かってしまえばいい。
だが、立ちはだかる壁のように、仁王立ちで待ち構えていたのは――
「どこ行く気だ?」
烈炎だ。
「邪魔するな!」
言い終わるよりも前に、黒訝の視界がぐらりと揺れ、暗転した。
気づけば地下の部屋に投げ込まれていた。
「蓮次が目を覚ますまでここにいろ」
扉が閉じる。
カチリ、と鍵のかかる音。
黒訝は扉に飛びついたが、術が施されている。
びくともしない。
「ふざけるな……っ!!」
拳を壁に叩きつける。衝撃はそのまま自分に返ってきた。
「許せない……」
闇の中から低く唸る。
――これはすべて、蓮次のせいだ。
怒りは、やがて憎しみへと変わり、影が陰になる。
――必ず消してやる。
あの半端者を。絶対に。




