40.影の中の名残
「朱炎!いるんだろう!すこしは手をかしてくれよ!」
蓮次の叫びが夜の静寂を切り裂いた。
手のひらには血が滲み、足元には多くの異形の屍が散らばっている。
素手で裂いた肉の感触が腕の奥に鈍く残り、肩が震えた。
荒い息をつきながら、蓮次は辺りを見回す。
だが、いつも通り――朱炎の姿はどこにもない。
夜になると朱炎は忽然と姿を消し、蓮次は一人で異形と戦う羽目になる。
まるで修行のようだった。
(何をしてるんだ、俺は……)
胸の内で皮肉めいた言葉を噛み締める。
ボロボロの体に鞭を打ち、立ち続ける夜々。
逃げる暇も、休む暇もない。
だが、戦うしかない。
初めは怖かった。全身を恐怖が支配し、手も足も震えていた。だが、戦いは重ねるほどに慣れ、痛みも麻痺していく。
恐怖の感覚は薄れ、ただ斬り裂き、捌き、捨て去る。それが日常となった。
けれど、なぜ戦うのか――。
戦えば、朱炎がこちらを見てくれる。
あの冷たい目に、自分が映りたいから。
別の誰かじゃなく、自分が――。
蓮次は血まみれの手を握りしめた。
「強くなる」なんて言葉は、自分には似合わない。
鬼になるつもりはない。それなのに、戦うことばかり考えている。
だから、何をしているんだ?と、我に返るのに、次の瞬間には別のことを考えている。
――朱炎の目に、どうしても自分を刻みつけたい。
異形の数は多すぎた。
いくら慣れていても、一匹、また一匹と湧いてくるそれらに、体力は容赦なく削られる。
息が上がり、視界が揺れる。だが、それでも止まれない。
蓮次は歯を食いしばり、血にまみれた爪を振りかざして夜の闇へと身を投げた。
異形と戦って、勝つことが出来ている。大きな怪我はなく、朝を迎えられるはず。
この日も、そう思って戦っていた。
だが、風が変わった。
「……何だ……?」
森の中の空気がひやりと冷え、周囲の闇がじわじわと濃くなっていく。
背後で枯葉を踏むような音がした。反射的に振り返る。だが、そこには誰もいない。
見えない何かが、自分を狙っている。蓮次の心拍が喉元で跳ねた。
薄闇の向こうで蠢く影。いつもの異形ではない。
もっと恐ろしい。空気そのものが鋭利になり、皮膚を裂くような感覚に襲われる。
(こんな気配……今まで……)
身体中の毛が逆立つ感覚。
爪を構える手が震え、喉の奥で息が詰まった。
今までとは違う。
もっと深く、もっと冷たい――圧倒的な存在感。
足が動かない。息が詰まる。
全身が硬直する。
――これは、異形じゃない。
背後で闇が蠢いた。
姿を現さないまま、三つの影が蓮次を取り囲む。
全身が強張り、逃げようとしても足が地に縫い付けられたように動かない。恐怖の感覚が骨にまで染み渡り、膝が崩れた。
――駄目だ、こんなの、無理だ……!
空気を裂いて迫りくるそれは。
圧倒的な 鬼の気配 。
影の一つが動いた。
飛びかかるように蓮次へ襲いかかろうとした瞬間。
「……!」
その鬼の動きが止まる。
蓮次の姿を見たその鬼は、まるで見覚えのあるものを見たかのように、驚愕の表情を浮かべた。
「お前……」
人間のような顔を持つその鬼は、異形のような醜悪さとは違っていた。
艶やかな着物を身にまとい、洗練された姿。目の奥には深淵のような朱色の輝きが宿っていた。
蓮次を捉えて離さない。
その目には困惑と、懐かしむような色が混ざっていた。
鬼の視線がひしひしと重圧となり、蓮次は肩をすくめる。
ほかのニつの影も茂みから姿を現し、蓮次を見るや否や動きを止めた。
「なんか……お前……」
「……どこかで……?」
頭に浮かぶ何かを掴もうとするかのように、三人の鬼たちは一様に沈黙する。
「いや、まさかな……」
「……だよな」
鬼達の目が離れず、蓮次の恐怖は頂点に達していた。
逃げなければ……。
力の入らない足腰を無理矢理に立たせる。立ち上がっても震えで足を進められない。
しかし、このあと蓮次は、ただ呆然と立ち尽くすしかなくなる。
鬼たちは同時に、別の方向に跪き、頭を垂れていたのだ。
「……?」
蓮次は訳も分からず、目を丸くした。
(何が……起きて……?)
影の中から、ゆっくりと現れる一つの姿。
朱炎だ。
冷たい月光を背に、圧倒的な威圧感をまとった朱炎の姿が、蓮次の瞳に映り込む。
まるで、闇の王が降り立ったかのよう。
「朱炎様、変わらぬご壮健を――」
「御恩、忘れてはおりません」
言葉を紡ぐその声に、恭順と畏敬が滲んでいる。
朱炎は冷たい眼差しを鬼たちに向け、少しも表情を崩さない。
蓮次の視界の隅で、鬼たちが報告を始めている。
まるで主君に対する家臣のように三人の鬼は次々と口を開き、それぞれの一族がどれほど繁栄しているかなど、朱炎への感謝を語っていた。
蓮次はただ見つめることしかできなかった。
朱炎って、なに??
強大さ、冷徹さ、すべてを超越したような朱炎の姿が、蓮次の胸に深く刻み込まれる。
とんでもない鬼と旅をしている??
そんな思いが心の底から湧き上がった。
忽然と鬼たちの話が途切れる。何かを終えた合図のように、沈黙が訪れた。
その瞬間、三人の鬼たちは一斉に振り返り、蓮次を見た。
「やっぱり……!」
朱炎がここにいる。つまり。
「お前、蓮次だったのか!」
しなやかな体躯を持つ朱色の鬼が蓮次を勢いよく抱き上げる。その動きは速すぎて、風すら切らなかった。
「う、わっ!」
突然のことに驚く蓮次。もがこうとしたが、がっしりとした腕に逆らえなかった。
「間違いない、蓮次だ!蓮次じゃないか!」
鬼の顔は笑いに満ちていた。蓮次の頭を乱暴にくしゃくしゃと撫で回している。
蓮次はあまりの勢いにされるがままだった。
(なに……なにが……!?)
状況についていけない蓮次を余所に、他の鬼たちも愉快そうに笑い始めた。
「そりゃあな。妙にうまそうな匂いがしてた。何か変だと思ったんだ」
「もし朱炎様が出てこなかったら、お前……今ごろ腹の中だったぞ」
「それにしても、小せぇなぁ!蓮次!」
蓮次は楽しげに口々に話をする三人を、じっと見つめていた。
心の奥底で何かがざわついている――遠い過去の記憶を思い出すような感覚だ。
(……知っているのか……?)
思考の輪郭がぼやけ、何もつかめないまま霧の中に沈む。
自分に語りかけてくる声の響きが……
なぜだろう、どこかで聞いたことがあるような……
胸の中に生まれた小さな違和感が、やがてじわりと痛みに変わった。
蓮次は自分のことを抱き抱えている朱色の鬼を見つめた。
返すように朱色の瞳は蓮次を見つめ、ふっと口元を緩めた。
「蓮次、良かったな……朱炎様と二人きりで長旅なんて……」
蓮次の頭を軽く撫でるような仕草は、力任せに頭を撫で回したさっきとは違い、驚くほど丁寧で優しいものだった。
(あの鬼と二人きりが?……良かった……?)
蓮次は朱炎を見ると、朱炎はただ無言で歩き出していた。
「……!」
蓮次の心がざわめく。
追わなきゃ。置いて行かれる。
蓮次は慌てて「おろしてくれ」と頼んだ。
鬼は蓮次を地面に降ろし、軽く肩を叩いて言う。
「……行けよ。朱炎様が待ってる」
言葉を背中に受けながら、蓮次は朱炎を追いかけた。
振り返ると、鬼たちが遠くで手を振っている。
胸の中で言葉にできない感情が広がるのを感じた。
____
蓮次は先ほどの出来事を思い返していた。
あの鬼たちが、自分のことを知っていたのはどういうことなのか。
……鬼の世界で……生きていた??
そんなはずがない、と心のどこかで否定しようとした。
しかし、彼らの視線の中に宿っていた懐かしさ。
否定できない何かが胸を締めつけた。
分からない。考えれば考えるほど霧の中に迷い込むように、答えは遠のいていく。
蓮次は顔を上げた。
得体の知れない力がまとわりついている、この鬼。
『蓮次、良かったな……朱炎様と二人きりで長旅なんて……』
あの鬼の言葉を思い出している。
(朱炎って……何なんだ?)
彼の存在に引っ張られ、絡め取られるように過ごしている。
逃げられるなら逃げるつもりだったのに。なぜかあの背を追わずにはいられない。
『父上……』
突然、朱炎が足を止め、振り返った。
蓮次の心臓が一瞬で跳ね上がる。
「っ――」
反射的に肩をすくめ、身を縮める。
朱炎の瞳が、蓮次の姿を見つめていた。光を飲み込むように深く暗いその瞳は、まるで蓮次の心の奥底まで見透かそうとするかのようだった。
蓮次は息を止めて、動けなくなっている。
朱炎はしばらく蓮次の様子をじっと見つめていたが、何も言わずにまた背を向け、前へ歩き出した。
蓮次は喉を鳴らし、ようやく息を吐き出す。
(何なんだよ……あいつ……)
蓮次は朱炎について行く。
恐怖と安心の相反する感覚に囚われながら。
蓮次は朱炎の背中を追い続ける。




