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  作者: Yonohitomi
一章
35/166

38.血に染まる願い


「…くる」



脈打つ恐怖が喉元までせり上がるのを押し殺し、蓮次は息を詰めた。

闇の奥に不気味な光がぽつりぽつりと浮かび上がる。


ぞろりと這い出る異形。じわじわと距離を詰めてくる。


逃げるしかない。



(どうして…俺ばかり……!)



目の前に古木が立ちはだかり、その瞬間に足が止まった。


追いついた異形たちが四方を取り囲む。

逃げ場は、もうない。冷たい汗が背筋を伝う。



「……え……?」



目の前には、いくつもの異形が倒れている。


ドロドロに血に濡れた手。

その手がどれほどの破壊を生み出しているのか、蓮次には理解できない。


完全に記憶が飛んでいる。



「……まただ……」



蓮次は地面にうつ伏せたまま、拳を震わせた。胸がひどく痛い。苦しさに耐えきれず、目眩がする。


襲ってくるのは異形だけじゃない。恐怖。


鬼に近づく自分が、何よりも怖い。


胸の奥からせり上がる恐怖と嫌悪感に、声をあげることもできない。ただ血に濡れた手を見つめ、そこに残る感触に身震いする。


目の前の光景は、赤い染みとなって夜闇に溶け込んでいた。



…鬼なると、記憶が無くなるのか?



擦り傷はすでに塞がりかけ、体の痛みはほとんど残っていない。


自分の体が変わり始めていることも、蓮次は嫌でも理解していた。


恐ろしいのは敵ではない、自分だ。


足元に広がる静寂を見下ろしながら、呼吸を整えようと必死に息を吸う。だが、心が落ち着くどころか、不安と混乱の渦が彼の中で膨らんでいく。



(……いやだ、鬼に、なりたくない…)



ふいに、何かの気配が背後から覆いかぶさるように感じた。


再び襲ってくるのか――恐怖に駆られて振り返ろうとしたその時、聞き慣れた声が闇を裂いた。



「蓮次……」



名前を呼ばれた瞬間、時間が止まったかのように感じた。体がびくりと硬直した。


霞む視界の向こう。

そこにいたのは朱炎だった。


朱炎が一歩踏み出した瞬間、周囲の空気が変わった。

異形が跋扈していたはずの場所は、彼が現れた途端に完全な静寂に包まれた。

その場に残ったのは、冷たい夜気と、朱炎の圧倒的な存在感だけ。


冷たく燃えるような目が、じっと蓮次を見つめている。



「………」



蓮次は言葉を飲み込んだ。


朱炎は、ほんの僅かに目を細め、そして静かに口を開いた。



「良い戦いっぷりだ」



その言葉はあまりに簡素で、どこか冷淡ですらあった。


蓮次の心の中に何かがざわめく。

鬼になる事に怯え、記憶もない。褒められるような戦い方のようには、到底思えない。


そんな姿に朱炎は言葉をかけた。



――なぜか、胸の奥深くに響く。


しばしの静寂が訪れる。



ポタ、ポタ…



水滴が地面に落ち、土に染みを作り始めた。

頰に何かが流れるのを感じた。

触れてみる。



「……泣いてる……?」



どうして涙が出るのか、自分でもわからなかった。

まるで自分ではない別の誰かの涙のようにも思える。


蓮次の胸の鼓動はまだ激しく高鳴っていた。戦いの余韻が体の隅々まで残り、鬼として覚醒しつつある感覚が背筋を冷たく這い上がる。



朱炎が現れ、不思議なほど静寂が心に広がった。

それは怖れを拭い去るものではない。


むしろ逆だ。朱炎の無言の存在が、逃げ場のない現実をさらけ出し、蓮次を否応なく追い詰める。


「良い戦いっぷりだ」と言われた時の感覚――あれは何だったのか。


自分が自分ではない感覚。



「……どうして……怖い……いやだ……もう……」



言葉を詰まらせた瞬間、朱炎が再び口を開いた。



「力を使え。お前は強い。……恐れるな」



蓮次の瞳が揺れた。朱炎の言葉はまるで彼の中に隠れていた何かを暴き出すかのようだった。



何か――


朱炎はそれを知っている。いや、知り尽くしている。

朱炎の目は揺らがない。彼の視線の冷たさと温もりが、同時に蓮次を貫いていた。



この時、蓮次は、得体の知れない感情が心を占拠した。

朱炎の瞳が、別の誰かを見ているような気がしたからだ。


自分ではない誰か――


蓮次の胸を締めつける酷くねじ曲がった感情は、次第に形を成していくようだった。


あの視線の先にいるのは、自分ではない。

他の誰か、まるで見えない影を見つめているような錯覚。


喉の奥が熱くなり、息が詰まる。震える手で血の痕をぬぐいながら、朱炎を見上げた。



(……俺を見ていない……)



朱炎の視線は、遥か遠くの何か――いや、誰かを捉えているようだった。

胸に重石を押し込まれたような感覚が、蓮次を押し潰す。喉を塞ぐような何か。

それは怒りか、悲しみか、それとも違う何か。

どうしてこんなにも苦しいのか。苦しみの正体もわからない。


ただ一つだけ確かなことがある。


ここにいるのは 俺 だ――

自分がここにいると証明したい――


力があれば、強ければ、

俺を見てくれるのか――



息苦しさを振り払うように、蓮次は一歩前へ。そして、もう一歩。その足が地を踏みしめる。


口の中が乾き、喉がかすれる。声にならない叫びが、今にも爆発しそうだった。



「……力が……ほしい……!」



言葉を口にした瞬間、蓮次の全身が熱を持つように感じた。

恐怖も痛みも消えない。


それでも―― 朱炎が自分をどう見つめるのか 、その答えを求める欲望が、理性を押し流す。




一瞬の静寂。



「力を求めるのなら、代償を恐れるな。それが何であろうと……受け入れる覚悟を持て」



朱炎の言葉は鋭く突き刺さる。それは冷たくもあり、火を宿した刃のようだった。

蓮次の胸がざわめき、熱が体の奥底で弾ける。




代償。

それが何なのか……

いや、それでも、構わない。


あの目に、俺を映してほしい……



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