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  作者: Yonohitomi
二章
179/180

74.弱さと強さ(6)

 


 駆け去る足音は、あっという間に屋敷の奥へ吸い込まれていった。烈炎の気配もすでに遠い。あの男なら迷いなく追っている。


 耀は静かに息を吐いた。


 広間は異様な静けさに満ちている。立ち去ろうとしていた者でさえ、膝を浮かせたまま足を進められず、見えぬ糸に絡め取られたようにその場へ縫い留められていた。


 壇上に佇む屋敷の主が、言葉もなく空気を張り詰めさせている。


 耀は横目でそっと確かめる。朱炎は微動だにせず、目を閉じていた。怒りも焦りも表に出さぬその静けさは、すでに結界の内側を見渡し、蓮次の位置を把握している証でもある。


 今のところ、危機は及んでいない。


 胸の奥に、わずかな安堵が灯る。


 だが脳裏をよぎるのは、結界の外へ弾き出され、破魔の矢に射抜かれた蓮次の姿。敵はまだ近くに潜んでいる。結界の周囲を、今も囲んでいるはずだ。


 このままでは、同じことが繰り返される。


 耀は一歩、前へ出た。鬼たちの視線が集まる。


「山へ散れ。土に潜れる者は地に入れ。水に隠れる者は川へ。木に擬態できる者は高みを取れ。蓮次様を守れ」


 短い命令に、即座に反応が返る。土鬼が顔を上げ、木鬼たちが影のように動き出す。


「結界の内外、両方につけ。動きがあればすぐ報せろ」


 言葉を受け、鬼たちは散るように広間を後にした。


 その瞬間、壇上の気配がふっと消える。


 耀は顔を上げた。


 想定の内ではある。だが胸の奥がわずかに波打つ。


 朱炎が自ら動いた。


 意味はひとつ。


 蓮次の身に、何かが起きた。


 迷いはない。耀もすぐに広間を後にした。


 庭の縁を越え、森へ入る。湿り気を帯びた夜気が肌を撫でる。かすかに、人の気配も混じっていた。


 意識を外へ広げる。


 烈炎の気配はすぐに掴めた。熱の塊のような存在が、森の一角に濃く漂っている。耀は迷わずそこへ向かった。


 枝を蹴り、地を滑るように進む。木々の間を抜けた先に、烈炎の背が見えた。


「……あのチビ、どこ行きやがった」


 苛立ちを吐き捨てる声が夜気に滲む。


「烈炎、蓮次様は」


「見つかんねぇ。途中で気配が消えた。あの馬鹿、狙われてる自覚ねぇのか」


「消えた……?」


 耀は歩み寄りながら、意識を深く沈める。周囲の空気を掬い上げるように感覚を広げ、音の波を拾い、森へと放つ。


 放たれた波は木々に触れ、葉擦れの音とともに、聞こえぬ揺らぎとなって返ってくる。


 森が応える。

 その中に、異質な揺れが混じっていた。


 耀の瞳が細まる。


 気配を消している。だが完全には隠しきれない。奥底で助けを求める叫びが滲んでいる。


 聞き違えるはずがない。

 蓮次だ。


 耀は視線を上げた。


 北の林。枝葉が密に重なり、闇が沈み込む場所。


「……見つけた」


 言葉と同時に身体が動く。地を蹴り、闇の奥へと踏み込む。空気が裂けた。


 背後から烈炎が追う。


 次の瞬間、烈炎の気配が跳ねた。鬼の中でも優れた視力が遠くの白を捉えたのだろう。耀を追い越し、一気に加速する。


 その熱が届いたのか、蓮次の気配が再び動き出した。さらに奥へ。


 耀の胸が強く打つ。結界の外へ出れば、次は守りきれないかもしれない。


 そのとき、結界の頂を覆う影があった。

 朱炎だ。


 外へ抜けることを許さぬよう、封じる力が強められている。その采配に、耀は息を呑んだ。



***



 森の奥は、たとえ昼でも夜のように暗い。木々が骨の柱のように白く立ち並び、足元の落ち葉は死の音を鳴らす。


 蓮次の息が上がっていた。肩が疼く。治りきらぬ傷は走るたびに悲鳴を上げる。それでも足を止められない。


 止まればあの言葉が追いついてくる。


 ――本当に、あれが私の息子なのか。





「蓮次!」


 烈炎の声が木々の間を割った。


 蓮次は振り返らない。瞬間移動を繰り返しながら、木立の奥へ奥へと逃げ込む。だが烈炎も耀も大人の鬼。子が逃げ切れるはずもない。


 気づけば、前に耀が立っていた。

 息ひとつ乱れていない。静かな青の瞳がまっすぐ蓮次を捉えている。


「蓮次様」


 その穏やかな声が、かえって胸に火をつけた。


「来るな!」


 叫びながら後退る。そこで烈炎が横から回り込もうとしているのが分かった。


「落ち着け。話を――」


「うるさい!」


 声が割れた。

 蓮次は肩で息をしながら二人を睨みつける。瞳は滲み、唇が震えていた。


「お前達はいつも父上のそばにいるから分からないんだ! ずっとそこにいるから! 俺が端で見てることなんて、知りもしないくせに!」


 烈炎が黙る。

 耀も何も言わない。

 返る言葉がないことが、かえって胸を抉った。怒鳴られたほうが良かったかもしれない。否定してほしかった。

 だが二人は、ただ静かに見ている。


 蓮次は身を翻した。

 結界の境界が、すぐそこにある。

 薄く張られた気の膜が暗闇の中でかすかに揺れていた。

 その向こうは、外だ。


「蓮次! 結界の外に出るな! 死ぬぞ!」


 烈炎の怒鳴り声が森に響く。


 足が一瞬、止まる。


 死ぬかもしれない。分かっている。分かっていて、それでも止まりたくないと思った。


「死んでもいい!」


 衝動のままに吐き出した言葉。


 次の瞬間、天が裂けた。

 世界が白に染まり、直後に闇が落ちる。


 雷が、蓮次の身体を貫いた。



 


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― 新着の感想 ―
蓮次くん心配ですね…… と思いながら横目でめちゃくちゃ朱炎様を見てそうだ。 というか、朱炎様が何も言わなければ蓮次くんも家にいたはずなのに……もしかしてこれが朱炎様なりの鍛え方? なんということだ。 …
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