74.弱さと強さ(6)
駆け去る足音は、あっという間に屋敷の奥へ吸い込まれていった。烈炎の気配もすでに遠い。あの男なら迷いなく追っている。
耀は静かに息を吐いた。
広間は異様な静けさに満ちている。立ち去ろうとしていた者でさえ、膝を浮かせたまま足を進められず、見えぬ糸に絡め取られたようにその場へ縫い留められていた。
壇上に佇む屋敷の主が、言葉もなく空気を張り詰めさせている。
耀は横目でそっと確かめる。朱炎は微動だにせず、目を閉じていた。怒りも焦りも表に出さぬその静けさは、すでに結界の内側を見渡し、蓮次の位置を把握している証でもある。
今のところ、危機は及んでいない。
胸の奥に、わずかな安堵が灯る。
だが脳裏をよぎるのは、結界の外へ弾き出され、破魔の矢に射抜かれた蓮次の姿。敵はまだ近くに潜んでいる。結界の周囲を、今も囲んでいるはずだ。
このままでは、同じことが繰り返される。
耀は一歩、前へ出た。鬼たちの視線が集まる。
「山へ散れ。土に潜れる者は地に入れ。水に隠れる者は川へ。木に擬態できる者は高みを取れ。蓮次様を守れ」
短い命令に、即座に反応が返る。土鬼が顔を上げ、木鬼たちが影のように動き出す。
「結界の内外、両方につけ。動きがあればすぐ報せろ」
言葉を受け、鬼たちは散るように広間を後にした。
その瞬間、壇上の気配がふっと消える。
耀は顔を上げた。
想定の内ではある。だが胸の奥がわずかに波打つ。
朱炎が自ら動いた。
意味はひとつ。
蓮次の身に、何かが起きた。
迷いはない。耀もすぐに広間を後にした。
庭の縁を越え、森へ入る。湿り気を帯びた夜気が肌を撫でる。かすかに、人の気配も混じっていた。
意識を外へ広げる。
烈炎の気配はすぐに掴めた。熱の塊のような存在が、森の一角に濃く漂っている。耀は迷わずそこへ向かった。
枝を蹴り、地を滑るように進む。木々の間を抜けた先に、烈炎の背が見えた。
「……あのチビ、どこ行きやがった」
苛立ちを吐き捨てる声が夜気に滲む。
「烈炎、蓮次様は」
「見つかんねぇ。途中で気配が消えた。あの馬鹿、狙われてる自覚ねぇのか」
「消えた……?」
耀は歩み寄りながら、意識を深く沈める。周囲の空気を掬い上げるように感覚を広げ、音の波を拾い、森へと放つ。
放たれた波は木々に触れ、葉擦れの音とともに、聞こえぬ揺らぎとなって返ってくる。
森が応える。
その中に、異質な揺れが混じっていた。
耀の瞳が細まる。
気配を消している。だが完全には隠しきれない。奥底で助けを求める叫びが滲んでいる。
聞き違えるはずがない。
蓮次だ。
耀は視線を上げた。
北の林。枝葉が密に重なり、闇が沈み込む場所。
「……見つけた」
言葉と同時に身体が動く。地を蹴り、闇の奥へと踏み込む。空気が裂けた。
背後から烈炎が追う。
次の瞬間、烈炎の気配が跳ねた。鬼の中でも優れた視力が遠くの白を捉えたのだろう。耀を追い越し、一気に加速する。
その熱が届いたのか、蓮次の気配が再び動き出した。さらに奥へ。
耀の胸が強く打つ。結界の外へ出れば、次は守りきれないかもしれない。
そのとき、結界の頂を覆う影があった。
朱炎だ。
外へ抜けることを許さぬよう、封じる力が強められている。その采配に、耀は息を呑んだ。
***
森の奥は、たとえ昼でも夜のように暗い。木々が骨の柱のように白く立ち並び、足元の落ち葉は死の音を鳴らす。
蓮次の息が上がっていた。肩が疼く。治りきらぬ傷は走るたびに悲鳴を上げる。それでも足を止められない。
止まればあの言葉が追いついてくる。
――本当に、あれが私の息子なのか。
「蓮次!」
烈炎の声が木々の間を割った。
蓮次は振り返らない。瞬間移動を繰り返しながら、木立の奥へ奥へと逃げ込む。だが烈炎も耀も大人の鬼。子が逃げ切れるはずもない。
気づけば、前に耀が立っていた。
息ひとつ乱れていない。静かな青の瞳がまっすぐ蓮次を捉えている。
「蓮次様」
その穏やかな声が、かえって胸に火をつけた。
「来るな!」
叫びながら後退る。そこで烈炎が横から回り込もうとしているのが分かった。
「落ち着け。話を――」
「うるさい!」
声が割れた。
蓮次は肩で息をしながら二人を睨みつける。瞳は滲み、唇が震えていた。
「お前達はいつも父上のそばにいるから分からないんだ! ずっとそこにいるから! 俺が端で見てることなんて、知りもしないくせに!」
烈炎が黙る。
耀も何も言わない。
返る言葉がないことが、かえって胸を抉った。怒鳴られたほうが良かったかもしれない。否定してほしかった。
だが二人は、ただ静かに見ている。
蓮次は身を翻した。
結界の境界が、すぐそこにある。
薄く張られた気の膜が暗闇の中でかすかに揺れていた。
その向こうは、外だ。
「蓮次! 結界の外に出るな! 死ぬぞ!」
烈炎の怒鳴り声が森に響く。
足が一瞬、止まる。
死ぬかもしれない。分かっている。分かっていて、それでも止まりたくないと思った。
「死んでもいい!」
衝動のままに吐き出した言葉。
次の瞬間、天が裂けた。
世界が白に染まり、直後に闇が落ちる。
雷が、蓮次の身体を貫いた。




