75.父の顔
耀と烈炎ともに、自分が何を見たのか理解できなかった。
目の前に蓮次が倒れている。地面に伏した身体から焦げた匂いが漂っていた。致命傷だと、鬼の本能が告げる。
「蓮次様!」
耀が駆け寄り、膝をつく。
同時に烈炎は空を仰いだ。雷の源を知っているからだ。
「何やってんだ……!朱炎!!」
怒声が森に吸い込まれた。遠く、木々の向こうにある朱炎の気配を掴んだ烈炎が踏み出す。
「待て!」
耀は咄嗟に腕を掴んで制した。今にも殴りにいこうと熱い拳を握りしめている烈炎の目を見て静かに首を振る。
烈炎が小さく「は?」と漏らしたが、耀は改めて木々の向こうに顔を向けた。
耀には分かっていた。あれは、意図した攻撃ではないということが。
蓮次の身体を支えながら、見上げた先。そこにいるのは鬼の王ではなかった。ただ一人の父親。その顔には怒りよりも何かもっと脆いものが貼り付いていた。
自分が何をしたのか信じられないのだというように。
怒りは確かにあるだろう。けれど怒りよりも衝動。ほんの一瞬だけ、制するための心は主の手を離れてしまった。
長年鬼の長を務めた男でも、父という生き物の感情だけは、制御しきれなかったのかもしれない。
だが次の瞬間、朱炎の顔色が変わった。
雷鳴ではなく、巻き起こる突風。轟くのではなく、研ぎ澄まされた怒気が木々の梢を鋭く揺らした。
耀がはっと息を呑む。耀に続いて烈炎も理解したようだった。朱炎が次に何をするのか。
二人はほぼ同時に動いた。耀は蓮次をしっかりと抱き上げる。
烈炎は「待て待て待て待て」と焦った様子で構えた。
朱炎の双眼は真っ赤に発光し、森に潜む人間を捉えている。
彼はすぐに気づいたのだった。蓮次を自身の手で殺してしまいそうになった、その原因が結界の外──術師の策にあったのだと。
***
安全な屋内の薄暗がりの中で、式神の鳥を通して風の動きを読んでいた術師が、ふっと目を細めた。
不敵な笑みを浮かべたのは道摩だ。
「そう上手くことは運ばぬか」
朱炎の怒りを煽り、その膨大な破壊力を蓮次へと向けさせるよう、丁寧に呪を重ねてきた。だが完全には届かなかった。惜しいとは思う。
けれど道摩の口の端はゆるやかに吊り上がる。山に配置した一団、つまり父の一派は、これから一掃されることになる。
「まぁ、十分か」
***
怒気に燃える真っ赤な双眸。紛れもなく、鬼の顔。
鬼が山へ、人には聞き取れぬ音を出して伝える。
地が揺れ、木々が鳴った。川の水面が風に舞った。自然の中に潜んでいた鬼たちは一斉に気配を読み、結界の内側へと逃げ込んだ。
鬼の王の手のひらが、ゆっくりと天へ向けられる。
轟音が、山を揺るがした。
大地が呼応し、朱炎の意に従う。地脈が怒りの形をとって走り、術師たちが潜んでいた足元の岩盤が一斉に崩れ落ちた。潜んでいた人間たちの声が、山の裂け目へと吸い込まれていく。断末魔が、一つ、また一つ。
一網打尽。
「烈炎!」
轟音の中、耀が声を張り上げた。
「私は蓮次様を屋敷へ。お前は巻き込まれた者がいないか見てまわれ。おそらくは逃げたはずだが」
「おう」
「頼む」
短いやりとりだが、それで十分だった。耀が蓮次を抱えて跳ぶ。その気配が遠ざかるのを感じながら、烈炎は逆方向へと身を翻した。
山の崩壊に巻き込まれかけた鬼は二人。ほとんどは異変を察して逃げ延びたようだが目の前の二人は岩に足を取られ逃げ遅れたと見える。
烈炎は瓦礫を蹴り飛ばし、二人の腕を掴んで引きずり出すと結界の内側へ放り込んだ。礼を言われた気がしたが、耳に入らなかった。大きな怪我がないならいい。
崩れた山の一角へ足を向けると、岩と土と折れた木々の残骸の中に、一羽の鳥がいた。生き物ではない。羽の一枚一枚が、どこか薄く、軽すぎる。式神だと、すぐに分かった。
鳥は烈炎を攻撃するでもなく、ただ静かに、崩壊に巻き込まれた人間たちの末路を眺めているようだった。主の目の代わりに、この光景を記録しているのかもしれない。誰の式神かは知らないが、どこかで誰かが、この惨状を眺めていたと。
「全く、どいつもこいつも……」
烈炎は呆れ果てたように呟いた。それ以上の言葉は出てこなかった。
***
轟音が収まり、山が静かになった頃。
朱炎は一人、境界の境に立っていた。
怒りの波動は使い果たしたようだ。だが胸の底には、異なる何かがまだ残っている。それが何であるか、朱炎は考えようとしなかった。考えれば、何かが崩れるような気がした。
足元の地面を見つめることはない。
「相変わらずだな」
声がした。振り返らなくても分かる。煌苑だった。
「気に食わねぇ時はすぐ壊しちまうからな、お前ってやつはよぉ」
断罪でも慰めでもない言葉。軽いが響く。
朱炎の双眸が、わずかに揺れた。
「……近くか?」
問いは短い。表向きは確認だ。だが自分でも分かっていた。これは問いの形をした別の何か。
───俺は一体何をした。お前は無事か。
「ったく、もう少しで巻き込まれるところだったぜ」
「すまない」
誰かに向けた謝罪のつもりだったが、声に乗せた瞬間、それが煌苑だけに向いていないことを朱炎は感じた。
言葉にした途端、胸の底に折り畳まれていたものが、ほんのわずかに空気に触れた。
「あ? 珍しく素直じゃねぇかぁ?」
見透かしたような顔は苦手なのだ。
朱炎は顔を背け、もう何も言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか。
自分でも判断がつかないまま踵を返した。
屋敷へ跳ぶ。
風を切る一瞬の暗闇の中で、朱炎はただ一つのことだけを思った。
───蓮次は無事か?
ぐずぐずと湧き上がった、手に余る思い。不安というものを初めて感じたのかもしれない。




