73.弱さと強さ(5)
ざわめきが耳の奥にまとわりつく。蓮次は音を振り払うように首を振った。
奥の廊が開く。
先に現れたのは、肩で風を断ち切るように歩く烈炎。続いて、青の静けさを全身に纏う耀。そして最後に、揺らぐことを知らない影のような男――朱炎。
三人が一歩踏み入れただけで、肌にまとわりついていた湿り気がすうっと消えた。
この場に集まった者たちが次々と視線を伏せていく。鬼が鬼に頭を垂れる。それがどれほどのことか、蓮次はまだ言葉では説明できなかったけれど、身体のほうがよく知っていた。
背筋を何かが駆け上がる。
朱炎が壇上へ上がった。一族をまとめ上げる父の姿を見て、瞬きを忘れる。
すぐに耀の姿も映り込んできた。いつも自分の肩を撫で、気遣い、叱るときさえ声を張り上げない男。だが今は冷たい光を宿して立っている。
烈炎も同じだ。稽古の最中に豪快に笑い、軽薄に背を叩いてくる男が、遠い。手の届かぬ場所にいる。
壇上の彼らを見上げながら、蓮次の胸に奇妙な熱が滲み始めた。恐れではなかった。もっと焦げるような、身を焼くような何か――憧れとも呼べない、憧れよりも深いところにある感情だった。
「……父上」
気づけば唇がそう動いていた。
蓮次は広間の端に座らされている。壇上との距離がやけに遠く感じられた。
肩の傷が疼く。しかし、その痛みよりも胸の奥を締め付ける痛みのほうが強い。思わず片手を胸元へやり、ぐっと押さえた。
込み上げてくるものが大きすぎる。
自分だけが壇上に――父に近づけない。
父の血を引くのは自分だけのはずなのに、誰よりも近くに立つ資格があるはずなのに。
それなのに、父の両脇にいるのは耀と烈炎で、己は広間の隅で息を潜めている。
心のどこかで、自分もあの場所に立つ者だと思っていた。なぜ、それが叶わないのか。子供だからという理由よりも別の――父の言葉が過ってしまう。
『すべて、お前の弱さが招いたことだ』
蓮次が歯をぎりりと噛み締めた時、朱炎は腰を下ろした。
「外より気配が増している」
低い声が広間の底を揺らした。苛立ちが滲んでいるように聞こえ、蓮次は思わず俯いた。
敵が結界の外を囲んでいる可能性に、見張りを増やす必要があると話は淡々と続いていた。山に潜る者、木に溶ける者、地を這う者、それぞれの役割が次々に告げられていく。屋敷内の者にも巡回の任が与えられる。
蓮次は息を詰めて待った。自身の名が呼ばれるのを。
だが、最後まで呼ばれることはなかった。
広間に再びざわめきが戻り、命を受けた鬼たちは順に動き出す。
蓮次にはその雑音も父の声も、少しずつ遠くなり始めていた。
(……俺は?)
胸の奥が、じわりと焼ける。
役目を与えられなかった。一族の者として数えられていないのではないかという思いが、黒い水のようにじわじわと広がっていく。
壇上を見上げた。父と目が合うことを、どこかで信じていた。だが視線は交わらない。
父は耀と烈炎を見ていた。視線ひとつで彼らは動く。言葉を交わさずとも通じ合う気配があった。
その空気の中に、自分の入る隙などないと、はっきり分かってしまった。
蓮次の視界が滲んだ。唇を噛む。この顔を、この目を見てほしいと……。
だが、叶わず。
朱炎が立ち上がり、耀と烈炎も従う。三人が壇を降り、この場を去ろうとしている。
蓮次には視線のひとつも配られなかった。
気づいたときには、畳を踏む音を響かせていた。いくつかの視線がこちらを向いたことも知りながら、それでも止まるつもりはない。
出口へ向かって駆け出した。
その時、蓮次の背に投げられたのは――
「本当に……あれが私の息子なのか」
苛立ちと呆れと、それから、どこかに失望が沈む声だった。
足がもつれかけた。言葉が頭の中で何度も跳ね返り、反響する。
喉の奥から、押し殺していた何かが溢れた。声にならない叫びを抱えたまま、廊下を駆け抜ける。冷たい風が頬を打った。
屋敷を飛び出し、森の闇へ。
気づけば瞬間移動を繰り返していた。無意識のうちに身体が逃げている。
結界の外に敵がいた事も、狙われた事ももうすでに遠い記憶となっている。
自分の身を守るための余裕は、どこにもなかった。




