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  作者: Yonohitomi
一章
16/177

22.鬼に変えられる



 だが、蓮次の涙が一瞬にして凍りつく。

 屋敷の奥から響いた悲鳴が、冬の空気を切り裂いた。

 女性の甲高い叫び声に続いて、兄や弟たちの怒声、混乱した悲鳴が次々と重なっていく。

 蓮次の胸が締めつけられ、体中の血が逆流するような錯覚に襲われた。


 ――皆が襲われている……鬼に!


 蓮次は顔を上げ、痛む体を無理やり叩き起こすようにして駆け出した。


 その姿を、静かに見送る者がいる。

 家長にとどめを刺した鬼。その者の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。目の前で繰り広げられる惨状すら、取るに足らぬ見世物のように映っているかのように。


「朱炎様……」

 一人の側近が一歩下がり、低く告げる。

「奥で低級共が暴れております。……蓮次様も、奥へ――」


「……そうか」

 朱炎は眉ひとつ動かさない。

 急ぐ素振りも見せぬまま、ゆっくりと屋敷の奥へ歩みを向けた。


***


 奥の間に辿り着いた蓮次の視界に飛び込んできたのは、緑色の肌を持つ鬼たちが人間を引き裂く光景だった。

 血の匂いが、容赦なく鼻腔を刺す。

 部屋は荒れ狂う異形の鬼どもに蹂躙され、屋敷に住まう者たちの絶望的な悲鳴が耳を打った。

 叫びが、恐怖を押し流していく。

 戦うしかない。

「やめろおぉぉ!!」

 蓮次は叫び、近くに転がる物を適当に手にして立ち向かう。


 だが、全身を蝕む痛みが動きを阻む。筋肉は鉛のように硬直し、思うように身体が応えない。

 任務で負った傷は、いずれも癒えきってはいなかった。それでも歯を食いしばり、必死に構えを取る。


 複数の赤い目が、ぎらりとこちらを捉えた。緑色の鬼たちが、一斉に標的を蓮次へと切り替えた。

 この数、一人で戦って勝てる数ではない。


 ここで終わるのか――

 虚しさが胸を満たす中で、蓮次は覚悟を決めた。


 その時。

 不意に場の空気が張り詰めた。

 重々しい気配で覆われる。

 息を吸おうとするたび、胸の内側に見えない手を差し込まれるような感覚が走る。


(動けない……っ……!)


 その正体は、朱炎。


 彼はわずかに片手を掲げただけで、緑の鬼たちの動きを完全に奪う。蓮次に向かって牙を剥き出していた者も、襲いかかろうとしていた者も、凍りついたかのように一斉に静止した。


「手を出すな」

 鬼の王の声に、緑色の鬼たちは威圧されるように小さく震えた。


 蓮次もまた、その念に絡め取られていた。

 身体は重く、指一本動かせない。

 恐怖と緊張で全身が強張り、心臓が荒々しく脈打つ。視界が霞み、冷たい汗が額を伝った。


(……一体、何が)

 圧倒的な力に押し潰され、声も出せない。

(駄目だ! 動け! 動け!!)

 その間にもゆっくりと距離を詰めてくる、鬼。

 一歩、一歩と。恐怖が胸に刻み込まれていく。


 威厳を宿した眼差しが、蓮次を見下ろした。

「久しいな、蓮次」

 その声に、息を呑む。


 崩れた屋根の間から静かに差し込む月光。

 青白い光に照らされ、蓮次は目の前の鬼の顔を初めてはっきりと見ることができた。

 赤い瞳、長い黒髪、冷徹で凍るような表情。

 まるで夢の中の悪夢がそのまま具現化したかのような姿。

 幾度も夢で目にしてきたあの鬼に酷似している。

(まさか!)


「鬼になれ、蓮次」

 鬼の命令が、骨の髄まで染み込んでくる。


(嫌だ……嫌だ!来るな!!)

 この先に待つものが分かっている。

 夢で何度も繰り返された、自分の身体が変質していく苦しみ。

 それが、現実として迫っていた。


(来るな! 来るな!)

 ゆっくりと近づいてくる朱炎を睨みつける蓮次。

「俺は……鬼にならない……」と、心の中で叫んだ。自らにも言い聞かせるように。

 だが、朱炎が近づくほど恐怖は膨れ上がり、言葉は悲鳴となって溢れた。


「俺は鬼にならない!絶対に!」

 視界さえもぼやけてきた。

 鬼は、愉快な見世物でも眺めるように目を細めていた。


「お前がどう言おうと、この運命から逃れることはできない」

 その言葉に、蓮次は一層深い恐怖に飲み込まれた。


 目の前の存在は不気味なほどに揺るぎなく、蓮次の命を掌握しているかのようである。

 どこにも逃げ場がない。

 次々と展開される残酷な現実。

 いや、これは夢だ。いつもの夢だ、そう信じたかった。

 もしこれが夢なら、どうか早く覚めてほしい。


「俺は…鬼にならない!絶対に、鬼にならない!」

 喉が裂ける思いで訴える。


 だが鬼は嘲笑した。

「何を言う。お前は、鬼になるべきだ。その力は鬼になってこそ真に活かされる」


 夢と同じ言葉だった。

 悲しみが胸を押し潰し、絶望が深く沈殿していく。

 念に縛られた身体は動かず、逃げることすら許されない。

 鬼の手が、ゆっくりと胸元へ伸びてくる。


「もう遅い」

 触れられた途端、圧倒的な苦痛が全身を貫いた。


「あ”ぁぁぁぁ――!」

 内側から何かが湧き上がり、溢れ出す感覚。

 細胞が内側から壊れていく。

 激痛が全身を駆け巡り、骨が軋み、血が逆流するような感覚に思わず絶叫する。


「あ"ぁぁぁぁーー!!」

 焼けつく痛みが身体を貫き、内臓が捩れるようだった。

「嫌だ! 俺は、鬼になんてならない!」

 蓮次は何度も強く言い放った。


「……嫌だ……鬼になんて……」

 だが、朱炎の意志は容赦なく蓮次を侵食していく。異形への変貌を強いられ、蓮次の意識は闇に沈んだ。


***


「朱炎様、この屋敷はどう処理を?」

 静まり返った屋敷にて、一人の鬼が、転がる屍を見て問うた。


 朱炎はその問いに悠然と答える。

「放っておけ」

 淡々と告げられた命令に、鬼たちは無言で頷いた。


「屍体の山を築き、我らの存在を忘れぬよう人間に刻みつけるのも悪くない」

 朱炎は静かに笑みを浮かべた。


 

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