第16話 - 「イストの戦い - 始まりの詩」
年が明けて太平三〇二年三月。
草木は緑の衣をまとい朝露の装飾で飾り立てると、柔らかな陽射しを受けて、春の到来をきらびやかに告げていた。
長い冬の眠りから目覚めた動物たちが、のっそりと活動を開始する。
そんな中、文官たちの懸命の働きにより、何とか貴族諸侯との関係を保つことに成功したイトアニアでは、サーディアス再侵攻のための準備が着々と進められていた。
士気向上のため一時帰宅を許された兵士たちが再度召集され、新たに任命された部隊長の下で再編成が行われる。前回の戦に参加した兵士に新たに四千を加え、総勢約一万五千である。補給物資を整え、上層部は再戦と復讐の意欲に燃えていた。
そこへサーディアス方面を監視する物見から知らせが入った。
――サーディアス軍発見の報である。
「さすがにイトアニアの連中も、こちらから攻め寄せるとは思ってもいなかろうな」
ウルシアは、悪戯に成功した童のような笑みを浮かべた。
「そりゃあ、そうでしょう。なにせこっちは全軍騎兵とはいえ、総勢千五百しかいないんですからね。籠城策でも取られようものなら万に一つも勝ち目はないんですよ?」
「そうならぬよう、ちゃんと手は打ってある。ワルアからの報告も上々だ。イトアニアにはこちらの手のひらの上で踊ってもらうさ」
ウルシアは弟の心配など歯牙にも掛けぬ様子で、胸を反らした。
「我らはこのままゆっくりと前進し、イストの地で敵を迎え撃つ」
イストとはイトアニア地方最北の砦から北に十五キロほどにある土地で、なだらかな丘と平地が二十キロ四方に渡って広がる場所だ。
野戦向きの場所だが、それは同時に、数の少ないサーディアスにとって不利な戦場ということでもあった。
「奴らにとっても申し分ない場所だ。心配せずとも野戦に応じるだろう。今頃、イトアニアの連中は顔を赤唐辛子のように真っ赤に染め上げているだろうよ」
「しかし、まだ問題はあるぞ。野戦に持ち込めても、その後の展開まで上手くいくとは限らないだろう。特に――」
「分かっている。確かにそこは賭けになるが、少なくとも五分以上の勝算はある。高々、千五百の軍勢なのだ。十分すぎるほどの勝率だとは思わんか?」
ウォレスは軍師の問いに、沈黙でもって応えた。
「ここで心配していても始まらん。休憩もそろそろ良かろう。号令をかけろウォレス」
ここ数日、サーディアス軍は領境にて休息を取っていた。イトアニアの伝令がカルナスに届くまでの時間を図っての待機であったが、これにはもう一つ意味があった。
長年サーディアスで暮らしてきた兵士たちの身体は、山岳地方での生活に慣れている。低所にあるイトアニアで存分な戦働きをするためには、まず気圧の差に身体を慣らしておく必要があったのである。
ウォレスは一つ頷くと、全軍に前進の指示を出した。
決戦の時は刻一刻と近づいていた――。
両軍が相見えたのは太平三〇二年三月二十八日のことである。
歴史の分岐点となる瞬間を見物しようと、朝早くから張り切っていた太陽は、邪魔な雲を追い散らして特等席に陣取っている。
わずか二百メートルほどの平地を挟むなだらかな丘に陣取った両軍の兵力は、サーディアス軍千五百に対し、イトアニア軍は一万五千。騎兵の数でこそ勝るものの十倍の兵力差は如何ともし難く、サーディアス軍の劣勢は明らかであった。
サーディアスの地と違い、両軍の行動を阻むような障害物は何もなく、大軍を思う存分に生かせる場所だ。
サーディアス軍の愚行に、イトアニア将兵は勝利を確信していた。
「いずれこちらから攻める予定だったのだ。何にせよ結果は変わらんが、馬鹿な奴らよ。自領に引き込み、地の利を得ての戦いであれば善戦することも出来たであろうに」
そう独白したのはイトアニアの現領主ブロス・アラニアである。
サーディアス軍侵攻の報を聞いて、自ら出陣してきたのだ。寡兵であるサーディアスに対し、自軍が圧倒的な大軍であること。また、サーディアスの設定した戦場がこのイストの地であったことが、彼に勝利を確信させたのだった。
あるいは領内で噂になっている美貌の女軍師を、一目見たかったのかも知れない。往々にして権力者とは貪欲なものである。
勝者が敗者の生殺与奪の権利を持つ世にあって、美女の存在は報酬と同じ意味を持つ。
ブロスが目の色を変えたとしても、何ら不思議はなかった。
「しかし、グスタフを破ったというからどれほどの相手かと思ったが、まるで素人ではないか。百戦錬磨の猛将はよほどの失敗を犯したと見える」
ブロスがそう評したのも無理からぬことであろう。
大軍であるイトアニア軍は、横陣を布いていた。本隊であるブロス率いる歩兵二千を中心とし、その左右に傭兵部隊二千を配し、前面には領民兵一万一千が広く展開している。 地形的に見て最も遊軍の少ない布陣であり、兵力差のあるこの状況では、敵の包囲殲滅もし易い。
一方、サーディアス軍はといえば、これまた横陣を布いていた。この場合、縦深陣や円錐陣、紡錘陣なりを取って攻撃力を集中し、一点突破を図って敵を分断した上で各個撃破に出るべきところなのだ。兵が少ない以上、横陣では折角の騎兵もその威力を生かせぬままに全滅の憂き目に遭うことだろう。
「確かに。しかし、くれぐれもご油断無きよう。愚弟の采配に問題があったとはいえ、一度奴らに煮え湯を飲まされたという事実は変わりませぬ故」
「分かっておる。だがこの状況で我らが負けるなど、万に一つもありはせんだろう」
負ける要素が見当たらないとはいえ、バルドスは主君ほど楽観的にはなれなかった。
戦場に生きる者の勘であろうか。どうにも落ち着かないものがあった。
(せめてローゼンに一隊を任せたかったのだがな……)
バルドスはカルナスに置いてきた部下に思いを馳せた。
有能な部下として信頼している男は、戦場にない。
ブロスの仕打ちは、ローゼンに大きな傷を負わせていたのである。裂けた背の傷はことのほか大きく、完治には一月以上の時間を要した。その後も体調は優れず、貴族諸侯の目もあって未だ自宅養生の日々を送っているのだ。
この時、バルドスは弟グスタフを送り出した時と同じく、漠然とした不安を感じていた。
前方へ視線を転じる。一触即発。緊張が高まる中、サーディアス軍より二騎の騎影が近づいてくる。二騎は両軍の中央で止まった。一人はサーディアス領旗を、もう一人はイトアニア領旗とローディアの国旗を掲げている。
黒衣の騎士と髪の長い女だ。二騎のみということは、戦口上でもするつもりなのだろう。
「あれがサーディアスの軍師か? 遠目ではよう分からんが、確かににじみ出るものがあるわ」
ウルシアの美貌を鑑定しようと、ブロスは馬上で身を乗り出した。
今やサーディアスは、負けることの許されぬ憎き仇敵である。戦口上など聞かず一気に蹴散らすこともできたが、既に勝利を確信して止まぬイトアニア軍には余裕が生まれていた。何よりこうした戦場には他領の間者が紛れているものである。迂闊な行動は周辺各領の評判を落とし、今後の外交にも関わる問題となる。
ブロスはサーディアスの戦口上を拝聴することに決めたようであった。
北から南に向けて一陣の風が吹き抜けた。
一万五千もの大軍が整然と並ぶ様は壮観であった。
もしもこの大軍が雪崩を打って押し寄せることになれば、サーディアス軍は蜘蛛の子を散らすように、半刻と保たずして全滅するに違いない。
この圧倒的に不利な状況を覆す策は、既に巡らせてある。結果は神のみぞ知るところだ。
そう思いつつも、ウルシアの胸中では不安という名の虫が増殖を始めていた。
この一戦が全てを決するのである。不安を感じるなという方が無理であろう。
『戦場で迷うことは許されん』そう言ったワルアの厳しい顔が思い出された。
ウルシアは騎首を並べる黒衣の騎士と視線を交わした。
一つ頷いたウォレスに、不安の色は微塵も見られない。威風堂々たる姿でそこにあった。その深い信頼にウルシアは覚悟を決めた。
サーディアスの領旗を地に突き立て、決然と前を向く。風の後押しを受け、紅一点たる軍師はよく通る声を張り上げた。
「私はサーディアス軍が軍師ウルシア! 隣にあるはサーディアス軍が総大将ウォレス・シュレッテンである! 領主ラース・シュレッテンより全権を委任され、ここへ参った。我が言葉はサーディアスの総意であることを伝えおく!」
静まり返った戦場に、ウルシアの声が響き渡る。
「イトアニア領主ブロス・アラニア殿。まず、こうして口上を述べる機会を与えてくれたことに礼を申す! これよりサーディアス軍は、今ここにあるイトアニアの兵士たちと行動を共にする意思があることをお伝えする!」
ここでウルシアは一旦言葉を切った。イトアニア軍に波紋が広がる。
降服の申し入れとも取れるその発言に、ブロスは口の端を上げた。一度勝利を得たとはいえ、サーディアスが如き弱小国がいつまでもイトアニアに抗しきれるものではない。サーディアスは先の戦果を背景に、少しでも立場を強化しようと考えているのだろうが、気にする必要もない。降服するとあらば、勝者として強気の態度で要求を突きつけてやるまでのことである。
ウーツ鋼を始め、グスタフの代わりとして黒衣の騎士を得られるとなれば、戦果としては悪くない。何より美貌の女軍師を側女として置くことができる。全面降伏を入れることで度量を示すこともできよう。欲に塗れた身体が小刻みに揺れた。
一方、バルドスの不安は大きくなるばかりであった。サーディアスの行動には何か裏があるように思えてならなかったのである。
「次に、イトアニア軍兵士たちに申す!」
ざわついていた兵士たちは、女軍師の声に静まった。
ウルシアはイトアニア全軍を右から左へ眺めやると、正面へと向き直った。
そして、あらんばかりの声量を風に乗せ……吼えた。
「愚か者ッ!!!」
大気が振るえ、意思と気迫を込めた怒声がイトアニア軍兵士たちの耳朶を叩く。
敵将に一喝された兵士たちは何事かと互いに顔を見合わせ、次いで猛る女軍師の言葉に耳を傾けた。
「貴様らはここで一体何をやっておるかッ!」
兵士たちは、なぜ怒鳴られているのか見当も付かない。
領主ブロスと闘将バルドスもまた、ウルシアの行動に首を傾げ、眉を顰めた。
「貴様らは何をするためにここに集まったのだ!? 抗すべき相手を間違うでない愚か者! お前たちも此度の戦の顛末は知っておろう。どこに我らと戦う理由があるか!?」
ワルアの情報工作の甲斐あって、先の戦の顛末はイトアニア将兵の間にも広まっている。それを承知で、ウルシアはまずサーディアスの正当性を説いた。
「お前たちが戦うべき相手は他におろう。いつまで己の心を欺き続けるつもりだ! 座して待つだけでは何も変わらぬことくらい、とうに気づいておろうがッ!」
そしてここにきて初めて、兵士たちは合点がいった。ウルシアは、現状を嘆くばかりで自ら変革のために動かぬ彼らに、説教をしているのだ。
「お前たちが苦しい立場にあることは、私も知っている。人の力には限りがある。そうそう事態を変革することなどできぬことも分かる。だが本当にそれで良いのか!? 奪われるだけ奪われ、その日の食事もままならぬ生活! 訳も分からぬまま重労働にかり出され、多くの仲間たちが命を落としていく現状! 何もせねばこの苦難を我が子に引き継がせることになるのだぞ! それをお前たちは良しとするのか!?」
ウルシアの言葉が、現実を突きつける。
イトアニア兵士たちの顔が苦渋に歪んだ。
「この先も戦はあるだろう。その度、前線に立つのはその方らであろう! 一部の特権階級の者たちが喜ぶだけで、いくら懸命に戦おうとも、お前たちの生活も安全も保証などされぬ。何のために己が命を掛けるというのだ!」
困惑する領主を余所に、バルドスは焦りを覚えていた。まさかとは思うが、他に敵の軍師の狙いが思いつかない。背筋を冷たいものが伝い落ちた。
「お前たちにも大切なものがあろう。恋人、家族、財産、権利、自由……剣を振るうならば、己が意思で、自らの大切なものを守るために振るえ! 見よッ! お前たちの領主を! 領民の血と汗と涙の結晶を奪い、絞り尽くし、ぶくぶくと醜く肥え太ったあの姿をッ!」
事実とはいえあまりの言われように、ウルシアの指差した先でブロスが怒りに顔を歪めた。
「領主とは、為政者とは、統治者とは! 領民の生命と財産を守る者のことだ! いつまであの醜い置物を領主と崇めるつもりだ。王侯貴族も初めから王や貴族であったわけではないのだぞ。何の功績があったわけでもない穀潰し共をつけあがらせているのは、他でもない。領民であるお前たち自身だ!」
イトアニア軍に動きはない。前列にある領民兵たちは、皆一様にウルシアの演説に聴き入っていた。
「奴らは権力を笠に着て強大な力を振るう。が、連中の数は少数だ! 見よッ! 己の周囲に何が見える!? ここには同じ苦しみを分かち合う仲間が大勢いるではないかッ!」
ウルシアは一拍おいて、イトアニア兵たちが互いの姿を確認しあうのを待った。
「他に何が足りないというのだ? 性根の腐りきった外道共に抗する武器か? では今お前たちが手にしているものは何だ! 鍬か? それとも鋤か? 否ッ! 剣であり槍であろう!」
静寂の中、搾取されることに慣れきった兵士たちは、ウルシアの演説に戸惑っていた。
彼らとて初めのうちは抵抗していたのである。しかし、多くの者が捕らわれ拷問にかけられた。死しては晒し者とされ、その戦意は挫けてしまった。勝てぬ相手には服従するより他にない。とはいえ、これ以上圧政が続く事態は避けたい。
イトアニア兵の心は激しく揺さぶられた。
「その刃を振り下ろすべき相手は誰だ!? 世の荒廃を嘆き、不正を正そうと立ち上がった我らサーディアスか? それとも一切の責任を果たそうとしない、傲慢で意地汚いお前たちの領主か?」
拳を握り熱く語る軍師を、若き将軍と後方に控える兵士たちが見守る。
正義は我が軍にありと、その士気が高まっていく。
「昨年末、サーディアスがイトアニアと戦火を交えた理由は、我らが権利を守るためであり、庇護を求めてきたそなたらと同郷の者たちを守るためである! 我らはそのどちらも護りきって見せた! その時あるいは、そなたらの仲間にも傷を負った者がいたやもしれぬ。しかし、我が軍が狙ったのは各部隊の指揮官とグスタフ将軍率いる貴族の馬鹿共だけだ。我らは帰路の安全と食料を保証し、多くの者が生きて故郷の地を踏んだはず! これは我らサーディアスに、そなたらと敵対する意思がないことの証明だ!」
顔を赤く染め上げ全身をわななかせる領主の横で、バルドスは確信した。
敵の女軍師は、イトアニアの兵士たちを口説いているのだ。
既にイトアニア兵の戦意はすっかり挫けている。
今、命令を出したところで彼らがサーディアスに刃を向けるとは思えなかった。
こうなったからには、やるべきことは一つしかない。小うるさい女軍師を斬り捨て、彼女の唱える希望など現実には存在しないのだと、領民たちに知らしめることである。
バルドスは主君にその旨を伝えると、槍を片手に自軍兵士の海へと身を躍らせた。
一方、ウルシアはイトアニア兵引き込みの演説を続けている。
「傲慢で搾取するばかりの貴族のために、命を掛ける価値はあるのか!? 戦う理由を他人に押しつけるな! お前たちは奴隷ではないッ!」
イトアニア軍の中央に一筋の亀裂が生じるのを見やり、ウルシアは傍らに控える黒衣の騎士へと視線で合図を送った。




