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【つづく】天楼国物語~新米道士と科挙試験~  作者: 月食ぱんな
新米道士と科挙試験
103/103

103 善と悪と

 本日依依は天楼城内、省殿ショウデンと呼ばれる宮にいる。

 ここに足を運ぶ理由として一番多いのが兄、燈依トウイに対する金の無心。

 けれど今日の依依の目的はむしろその逆、金を稼ぐことなのである。


(こ、今度こそ隅から隅までしかと目を通して見せる)


 依依は目を見開き、今まさに目の前でくるくると広げられるであろう巻物に目を凝らす。


「では、こちらに署名と血印を」

「ちょっと待ったです!!」


 依依はたまらず声をあげる。

 何故なら麗人明景(メイケイ)がまたもや必要部分のみをくるりと開き、依依に署名させようとしたからだ。


「何か問題でも?」


(問題ありすぎです)


 依依は困った顔を自分に向ける明景に無言で抗議する。


「まさか赦鶯様に嫌気が?」


 慌てた様子の明景。


(違います、問題は明景様のその手です)


 依依は巻物を握る怪しい明景の手から視線を逸らし、

 コホン、コホンとわざとらしく咳をする。

 そして一気に話し始めた。


赦鶯シャオウ様と個人的に契約を結ぶ事には全く問題はありません。現在私が問題としておりますのは、果たしてこの巻物に記されている事を把握せず署名をして良いものか。まさにそれです」

「なんだ。そんな事ですか。良かったですね、赦鶯様」


 明景が腕組みをし、窓の外を眺める赦鶯に声をかける。


「ん?」

「聞いていなかったのですか?」


 明景が向かい側の椅子に座る赦鶯に呆れた声を出す。


「聞いていた。しかし彼女の兄である燈依トウイ、そしてお前が頼めば嫌だとは口に出せない。だから本音はどうなのだろうかと、署名などさせて本当にいいのかと、ふと思ってな」

「何言っているんですか。折角その気になっているのですよ?この機会を逃したら使い勝手の良い女の道士などと金輪際、赦鶯様がお知り合いになれる機会など訪れる事などあり得ないと思いますけれど」


 明景が赦鶯に呆れた顔を向ける。

 所々気になる部分はあるが依依は素直に思う。


(私は別にいいんだけど)


 依依は手元の巻物に視線を落とす。


 現在依依が署名しようとしている巻物。

 それは依依が正式に赦鶯の通称鼠ねずみになる事を記す巻物である。

 つまりこの巻物に署名をすれば、今後依依は赦鶯の命を受け、個人的に働く隠密になるということ。


(それは全然嫌じゃないんだけどな)


 依依は正直仕事が欲しい。

 そして出来れば割のいい仕事が欲しいと常に願っている。


(それに私は自分の実力をわりと思い知っちゃったし)


 今回本当に色々あった。

 その色々を振り返ると、依依が役に立った部分など爪の垢ほどだと自分では感じている。


(まだまだ修行が必要だし、色々な仕事の経験もしたい)


 そのために赦鶯の鼠になること。

 それは全然悪い事だと依依は微塵も思っていないのである。


「赦鶯様、心配して頂きありがとうございます。私は赦鶯様の元で働く事はむしろ光栄な事だと思っています」


 依依は明るく告げる。


「そうか。しかし私の命で仕事を受けるとなると、時には君の中の善に従えない事も出てくるかも知れない。なるべく道義に逆らうような仕事は頼まないつもりだ。しかし立場上、綺麗事ばかりではいられない。それは道士である君にとって、己の中の信念を曲げる事になるのではないだろうか?」


 赦鶯が遠慮がちではあるが、奇跡的に向かい側に座る依依を正面から見つめる。


(赦鶯様って、いつもは頼れるお方なんだけど、ふと見せる自信がなさそうに、見える表情が、母性本能をくすぐるって言うか……それにいつも私側の事情を気にしてくれるんだよなぁ)


 依依は赦鶯を尊敬に値する人だと評価している。

 だから依依は指示される事も命令される事も苦に思わない。

 しかし赦鶯自身はたかだた一介の道士である依依に対し気を使いすぎなのである。


「私は赦鶯様とお知り合いになってまだ日も浅いですけど、でも赦鶯様がこの国を思う気持ちは充分伝わっています。そして私もそのお気持ちに賛同しています。それに何より、赦鶯様の事は信用に値するお方だと思っていますので、赦鶯様の命とあれば、必要ならば私の信念を曲げ……」


(曲げる!?)


 そんな事が果たして可能なのだろうかと依依はうなる。


「やはりな。君は周囲からの圧に負け、今日ここに足を運んだに違いない」


 赦鶯が依依から顔を逸し、机の上に置かれた丸められた巻物に視線を落とす。


(そうなのか……)


 確かに赦鶯から鼠にならないかと正式に口にされた時、燈依には「またとない光栄な機会」だと言われた。

 そして明景からは、「あなたしかいない」などと幾分調子の良い事を言われ、「ならば」とその気になった気がすると依依。


 そしてふと今回の事件を思い出す。


 事件が幕を閉じ、依依は曹暁柚ソウギョクユ沈麗シンリー

 どちらが悪かと問われたら正直答えに詰まる。


(勿論キッカケは曹暁柚で間違いない。だけど、沈麗はあまりにも自分本位に周囲を巻き込んでしまった)


 沈麗に最初に横恋慕した曹暁柚こそ悪なのか。

 だとすると復讐の為に幼い寂東ジャクトウを宦官とし、思蘭スーランを巻き込み、最後には我が子を見捨て自らキョンシーになる事を望んだ沈麗は善なのか。


 客観的に見るとどちらも正しい事をしたようには思えない。


「赦鶯様は、曹暁柚と沈麗様。どちらが悪だと思いますか?」


 気付けば正しい答えを求めようと依依は赦鶯に問いかけていた。


「曹暁柚と沈麗。どちらも道徳的規範から外れた行動をした。しかし善と悪。それを決めるのは所詮人の心。つまり物事の善悪を決めるのは判断する者の立ち位置一つで大きく変わる。だから事件の当事者ではない私はどちらにも公平であるべき。それが上に立つ者としては理想なのだろうな」

「ですよね……」


 依依は赦鶯が述べた意見は「もっともだ」と頭では納得する。

 けれど依依の心はまだ違う答えを求めているかのように、どこかすっきりしない。


「ただ、私も一人の人間だ。自分の中に道義はある。だからその道義に沿い、善悪を判断しがちになる。けれどそれは完璧ではないし、立場を変えれば揺らぐ場合もある。だからこそ、人に対し罪を問う時はより一層慎重になるべきだろう。ま、最近私もそれを学んだばかりなのだが」


 赦鶯は何処か遠い目になり、窓の外を見つめる。

 赦鶯の哀愁漂う横顔を眺め、依依まで引きずられるように物哀しい気分になる。


「もしかして、科挙試験で冤罪逮捕のちキョンシーになって、それで赦鶯様を襲った人達のこと。その人達の事を考えてます?」


 依依はたまらず質問する。


「私は彼らを良く調べもせず牢に入れた。確かに不正をした証拠はあった。しかし本人が違うと口にした言葉を無視し、私は証拠を信じた。証拠があるのだから間違いないと思ってしまったんだ」

「あの状況では、誰だってそう判断しますよ」


 明景が赦鶯を庇うような言葉をかける。


「しかしそのせいで、三人の尊い命を失った」

「……確かにそうですけど」

「人を罰するのは、本当に難しいものだ。しかし私はこの先もその事からは逃げる事は出来ない。だから公平であることを心がけたい。そして必ず私の判断が正しいかどうか、聞く耳を持つようにしたい」


 赦鶯はまるで自分に言い聞かせるように静かに告げる。


「天子様や赦鶯様のご判断。それが間違う事のないよう私達のような鼠はお手伝いをするのです。最後に善悪の判断を下し、その責任を持つのは上に立つ者の責務ですからね」

「明景、そのようないい方は、私の鼠になれと誘導しているも同然であろう」

「そうですよ?私はこちら側にコウ依依イーイーが欲しいですから」


 明景の包み隠さぬ言葉に依依の心はドキンと脈打つ。


(やば、嬉しいかも)


 依依は道士として、自分が求められているという事実に手放しで嬉しい気持ちに包まれる。それは杏玄流を飛び出してから今まで、凛玄リンゲン絡みではなく、初めて一人前の道士として誰かに「必要だ」と願われているからである。


「赦鶯様が煮え切らず、御託を並べてばかりいるのであれば、天子様が彼女を自分の鼠に加えるまで。この契約の巻物の名前を今から天子様のお名前に変えましょうか?」


 明景が早口で赦鶯に告げると、くるくると巻物を広げ始める。


「待て明景。早まるな」

「早まるなではありません。寂東ジャクトウが呑気に帰省を楽しんでいるのです。天子様側も鼠不足なのですよ。さぁ、候依依。その名をここに!!」


 明景が巻物を広げていた手を止め、今度は依依を脅すように最初に指示された場所。

 つまり署名と血印の場所を指差した。


「ひとまず署名と血印。それさえいただければ、あとは野となれ山となれ。所属はどうにでもなりますので。さ、どうぞ」

「あ、はい」


 依依は明景の気迫に押され、思わず用意された筆を握る。

 すると白魚のような美しい手が筆を握る依依の手を上から押さえる。


「待て。君は本当にそれでいいのか?」

「こ、これは……」


(赦鶯様の手なの!?)


 依依は驚きと共に自分の手元を凝視する。

 すると確かに女性恐怖症の赦鶯が依依の手を動かすまいと上から押さえつけていた。


「き、奇跡だ」

「そうですね、赦鶯様の記念すべき日かと」


 依依は驚きつつ、ついにやったと感動的な気持ちが込み上げる。


「す、すまない」


 赦鶯は慌てた様子で手を戻す。

 そして落ち着かない様子で、押し売りをしようと画策する怪しい商人のように揉み手をしている。


「候依依、赦鶯様は現在自らの行動に激しく動揺しております。今のうちに早く」

「は、はい」


 明景に急かされ依依は慌てて巻物に自らの名前をサラサラと書き込む。


「さ、次は血印をここに!!」

「り、了解です」


 明景がピシリと指差した場所に依依は親指で血印を押した。


「ありがとうございます。ではこちらは天子様にご提出させていただきます」


 明景は口にするや否や、くるくると依依の目の前で巻物を仕舞い、金色の紐でキュツと綺麗に縛った。


「では、今日はご苦労様でした。私は仕事があるのでこれで」


 明景は天空の麗人も嫉妬するであろう、美しい笑みを依依に向けた。

 そして巻物をしっかりと握ると、逃げるように赦鶯の執務室から姿を消した。


「あっ、してやられた!!」


 依依は我に返り大きな声をあげる。


「何をあいつにやられたんだ?何なら俺が今から……」


 赦鶯が慌てたように椅子から腰を上げる。

 しかも漏れ出す珍しい赦鶯の「俺」という自己表現に依依はクラリとする。


(じゃなくて!!)


「違うんです、赦鶯様。おかけください」


 依依は慌てて両手を前に突き出し落ち着けと態度で示す。


「ふむ」


 赦鶯は依依をチラリと見たのち、椅子に腰を落ち着けた。


「それで君は何をやられたのだ?」


 眉間に皺を深く刻み、訝しげな声を出す赦鶯。


「契約内容をまたもや確認するのを忘れました」

「契約内容?」

「はい。しちゃいけない事とか、約束を守らなかった時の罰とか。その、容赦なく抹消する系の話とか」


 依依は濁しつつ赦鶯に伝える。


「機密保持に関する事だろうか?」

「まぁ、多分そんな感じかと」

「実は君がここに来る前に私も目を通しておいた。だから覚えている範囲でよければ説明するが」


(でも既に署名しちゃったんだよね)


 依依は今更聞いても後の祭りなのではないだろうかと、ふと気付く。


「何なら、私が新たに紙にまとめても良いが」


 親切心全開な赦鶯を目の当たりにし依依は断れない雰囲気になる。


(それに赦鶯様はちょっと嬉しそうだし)


 主人が嬉しい。

 それは鼠となった依依も嬉しいこと。


「赦鶯様、ひとまず口頭でお願いします」

「そうか……まぁ君ならば覚えられるであろう」

「はい、頑張ります」


 依依は元気に答える。

 そんな依依をチラリと見たのち視線を逸した赦鶯。

 その口元が珍しく自然な感じで緩んでいるのを依依は見逃さなかったのであった。



 第一部

 天楼国物語――科挙試験編、完

お読み頂きありがとうございました。

第二部のプロットは完成済みなのですが、充電期間中なためしばらくお待ち頂けると嬉しいです。

私が仕上げないと依依が幸せになれないので、来年中には必ず完結させたい(とういう気持ちはある)作品です。


毎日お付き合い頂いた方には感謝しかありません。ありがとうございました。


追伸

途中、一話抜けている事に昨日気付き青ざめました。

ご迷惑をおかけいたしました。

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