エピローグ
――数年後。
朝。
アトリエ・アカシアの大きな窓から、柔らかな光が差し込んでいた。
壁には、これまで制作された数々の作品が飾られている。
人気ゲームのキャラクターデザイン。
小説の表紙。
イベントで販売されたイラスト集。
そして、その中央には、ひよりが描いた代表作が飾られていた。
「おはようございます!」
元気な声が響く。
「おはよう」
ひよりはパソコンから顔を上げた。
そこには、一人の少女が立っていた。
まだ高校生くらいだろうか。
大きなリュックを背負い、少し緊張した表情をしている。
「今日からお世話になります!」
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
ひよりは笑った。
「ここでは、好きなだけ絵を描いていいから」
「……はい!」
少女は空いている机へ向かった。
そして、鞄から一冊のスケッチブックを取り出した。
ひよりはちらりとその様子を見る。
「何描くの?」
「えっと……まだ決めてなくて」
「そっか」
ひよりは自分の机へ戻った。
しばらくして。
少女が鉛筆を動かし始める。
紙の上に一本の線が引かれる。
そして、また一本。
少しずつ、一人の少女の姿が描かれていく。
ひよりはその絵を見て、ふと昔の自分を思い出した。
幼稚園。
クレヨン。
大きな太陽。
緑色の山。
そして、画用紙いっぱいに描いた自分の世界。
「……懐かしいな」
「何がですか?」
隣からあかりが顔を出した。
「昔のことを思い出してた」
「また昔話?」
「いいじゃん」
「はいはい」
二人は笑った。
あかりは昔と変わらない笑顔だった。
ただ、あの頃とは一つだけ違う。
二人の左手の薬指には、お揃いの細い指輪があった。
会社を設立してからしばらく経った頃。
二人は正式に恋人になった。
仕事仲間として。
親友として。
そして、人生のパートナーとして。
ただし、アトリエではあえていつも通りにしている。
社員たちも二人の関係を知っているが、誰も特別扱いはしない。
ひより自身も、それが心地よかった。
「社長」
あかりが仕事用のタブレットを差し出す。
「午後の打ち合わせ、二時からね」
「分かってるよ」
「昨日、忘れてたじゃん」
「……あれは忘れたんじゃなくて、考え事をしてたの」
「それを世間では忘れたって言うの」
「厳しいなあ」
ひよりは笑う。
あかりは呆れたようにため息をついた。
けれど、その顔は嬉しそうだった。
そのとき。
「あの……」
少女が遠慮がちに声をかけた。
「ん?」
「これ……どうですか?」
少女がスケッチブックを差し出す。
そこには、まだ少し不器用だけれど、一生懸命描かれた絵があった。
ひよりはじっくりと絵を見る。
そして笑った。
「すごくいいと思う」
「本当ですか?」
「うん」
「でも、まだ全然上手くなくて……」
少女が俯く。
その言葉を聞いた瞬間。
ひよりの胸に、昔の記憶が蘇った。
白い画用紙。
動かない筆。
誰にも言えなかった苦しさ。
そして、中学三年生の自分。
――私、絵……好きだったよね。
ひよりは少しだけ目を細めた。
そして、少女に笑いかける。
「上手いかどうかは、今はそんなに気にしなくていいよ」
「……え?」
「絵を描いていて、楽しい?」
少女は少し考えた。
「……はい」
「じゃあ、それが一番大事」
少女の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
少女は嬉しそうにスケッチブックを抱えた。
「もっと描いてみます!」
「うん。楽しみにしてる」
少女が自分の席へ戻っていく。
ひよりは、その後ろ姿を眺めていた。
「あかり」
「ん?」
「私、昔とは逆になったね」
「何が?」
「昔は、私が絵を褒めてもらってた」
ひよりは笑う。
「今は、私が褒める側」
「ああ」
あかりも笑った。
「そうだね」
少し間を置いて、あかりが言った。
「でも、私は今でもひよりの絵を褒める側でいたいけどね」
「……急に何?」
「本当のこと」
「仕事中だよ?」
「仕事中でも好きなものは好きだから」
ひよりは少しだけ顔を赤くした。
「……そういうの、急に言うのやめてよ」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「昔はもっと恥ずかしいこと言ってたじゃん」
「いつ?」
「あれ。高校の頃」
「……覚えてない」
「嘘」
あかりが笑う。
ひよりも笑った。
そんな何気ない会話が、二人には心地よかった。
恋人になったからといって、何もかもが変わったわけではない。
喧嘩もする。
仕事で意見がぶつかることもある。
「この構図、私はこっちがいいと思う」
「でも、こっちの方が伝わりやすいよ」
「ひより、頑固」
「あかりだって頑固じゃん」
時には、仕事が終わった後まで言い合いになる。
けれど、次の日にはいつの間にか仲直りしている。
帰り道にコンビニでアイスを二つ買って。
「昨日はごめん」
「私も」
「半分食べる?」
「食べる」
それだけで元に戻れる。
そして何より。
嬉しいことがあったとき、一番に伝えたい相手が互いだった。
大きな仕事が決まったとき。
新しい作品が完成したとき。
社員が初めて賞を取ったとき。
何でもない休日に、一緒に散歩したとき。
そのすべてを二人で分け合ってきた。
ひよりは窓の外を見る。
青い空が広がっていた。
幼い頃に描いた絵と同じような、澄んだ青。
けれど、今はもう違う。
あの頃よりも、ずっと広い世界を知っている。
嬉しいことも。
悔しいことも。
孤独も。
友情も。
夢を追う怖さも。
夢が叶ったときの喜びも。
そして――。
大切な人と人生を歩く幸せも。
ひよりは机の上に置かれた白い画用紙を一枚手に取った。
「ねえ、あかり」
「何?」
「私たちも描こうか」
「仕事中だけど?」
「たまにはいいでしょ」
「社長がそんなこと言っていいの?」
「社長だからいいの」
「めちゃくちゃだなあ」
二人は笑った。
ひよりは鉛筆を持つ。
白い画用紙。
何も描かれていない。
昔は、この白さが怖かった。
何を描けばいいのか分からなくなったこともあった。
けれど今は違う。
何を描いてもいい。
どんな未来を描いてもいい。
ひよりは画用紙に最初の線を引いた。
その隣で、あかりも鉛筆を走らせる。
少し離れたところでは、新しく入った少女が夢中になって絵を描いている。
アトリエには、鉛筆の音だけが響いていた。
ひよりはその音を聞きながら、微笑んだ。
「……やっぱり、絵って楽しいね」
あかりが笑う。
「今さら?」
「うん。今さら」
あかりはひよりの手元を見た。
「ひより」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒に描こうね」
ひよりは一瞬だけ筆を止めた。
そして、あかりを見る。
「うん」
少し照れながら、笑った。
「これからもずっと、一緒にいよう」
「……うん」
二人の笑い声が、アトリエいっぱいに響く。
しばらくして。
ひよりは、ふと手を止めた。
「ねえ、あかり」
「ん?」
「ちょっとだけ、こっち向いて」
「え?」
「あ、動かないでね」
ひよりは新しいスケッチブックを取り出した。
「何するの?」
「似顔絵」
「私の?」
「うん」
あかりは少し驚いたような顔をした。
「珍しいね。ひよりが私を描くの」
「そう?」
「うん。いつもキャラクターとか風景ばっかりじゃん」
「今日は描きたいの」
ひよりは鉛筆を握った。
あかりは少し照れながら椅子に座る。
「……変な顔に描かないでよ?」
「どうしようかな」
「ちょっと!」
二人が笑う。
やがて、ひよりの表情が真剣になった。
鉛筆が紙の上を滑っていく。
髪。
目。
鼻。
口元。
そして――いつも自分の隣で笑っている表情。
ひよりは何度もあかりを見ては、スケッチブックに視線を戻した。
「……そんなに見る?」
「あかりをちゃんと描きたいから」
「なんか……恥ずかしいな」
「私も恥ずかしいよ」
「ひよりが?」
「うん」
「なんで?」
ひよりは少しだけ笑った。
「大切な人を描くのって、難しいんだね」
あかりは何も言わなかった。
ただ、優しく笑った。
しばらくして。
「……できた」
ひよりがスケッチブックを差し出した。
そこには、あかりの似顔絵が描かれていた。
柔らかな線で描かれた、笑顔のあかり。
その表情には、ひよりが知っているたくさんの思い出が詰まっていた。
高校の教室で初めて声をかけてくれたとき。
ひよりが絵を嫌いになりかけたとき。
美術部に誘ってくれたとき。
フリーランスになったひよりを支えてくれたとき。
コミケで一緒に本を売ったとき。
会社を作ったとき。
そして――。
今も、隣にいる。
「あ……」
あかりは絵を見つめた。
「どう?」
ひよりが少し不安そうに尋ねる。
「あたし……こんな顔してる?」
「うん」
「なんか、綺麗に描きすぎじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」
あかりは絵を見ながら笑った。
「でも……好き」
「絵が?」
「うん。絵も」
あかりはひよりを見る。
「描いてくれたことが嬉しい」
ひよりは少し照れながら笑った。
「じゃあ、あげる」
「本当に?」
「うん」
あかりは大切そうにスケッチブックのページを見つめた。
「……宝物にする」
「大げさだなあ」
「大げさじゃないよ」
あかりはそう言って、似顔絵を胸元に抱えた。
ひよりは、その姿を見て微笑んだ。
そして、ふと昔の自分を思い出した。
幼稚園で初めて描いた絵。
大きな太陽。
緑色の山。
画用紙いっぱいに描いた、自分だけの世界。
あの頃のひよりは、自分の世界を描いていた。
誰かに褒めてもらえることが嬉しくて。
誰かに認めてもらえることが嬉しくて。
けれど、いつしか「上手く描くこと」に囚われていた。
絵を描くことが怖くなった。
何も描けなくなった。
そんな自分を救ってくれたのも――。
また絵を描く楽しさを思い出させてくれたのも――。
あかりだった。
「ねえ、あかり」
「ん?」
「私、あかりを描けてよかった」
「……どうして?」
「今まで描いてきた絵は、たくさんの人に見てもらった」
ひよりは似顔絵を見る。
「でも、この絵はあかりに見てもらうために描いたから」
あかりの目が少し潤んだ。
「……ひより」
「何?」
「もう一回言って」
「嫌」
「なんで!」
「恥ずかしいから」
「さっき私も同じこと言ったじゃん」
「じゃあ、お互い様」
二人は顔を見合わせる。
そして、笑った。
あかりは似顔絵を大切そうにしまう。
「じゃあ、これはずっと持ってる」
「うん」
「もしボロボロになったら?」
「また描くよ」
「何枚でも?」
「何枚でも」
「じゃあ……」
あかりは笑った。
「これからも、いっぱい描いてね」
ひよりは頷いた。
「うん」
そして、新しい白い画用紙を一枚、机の上に置いた。
まだ何も描かれていない。
真っ白な未来。
ひよりは鉛筆を持つ。
あかりも隣に座る。
少し離れたところでは、新しく入った少女が夢中になって絵を描いている。
アトリエには、鉛筆の音だけが響いていた。
ひよりはその音を聞きながら、微笑んだ。
「……やっぱり、絵って楽しいね」
あかりが笑う。
「今さら?」
「うん。今さら」
二人の笑い声が、アトリエいっぱいに響く。
壁に並ぶ、これまでの作品。
その中央に飾られた、ひよりの代表作。
その隣には、二人で描いた小さな作品。
そして――。
机の上には、ひよりが描いたあかりの似顔絵。
笑顔のあかり。
そのすぐ隣には、まだ何も描かれていない一枚の白い画用紙。
過去の絵。
今の絵。
そして、これから描かれる未来。
すべてが、一つにつながっている。
幼い少女が初めてクレヨンを握った日から始まった物語。
その少女は、いつしか誰かの憧れになった。
そして今度は、自分が誰かの背中を押す側になった。
ひよりは、隣にいるあかりを見る。
あかりも、ひよりを見る。
二人は何も言わずに笑った。
――物語は、終わらない。
絵を描き続ける限り。
夢を追い続ける限り。
そして、大切な人と歩き続ける限り。
二人の未来には、まだ無限の色が残されている。
最後に映るのは――
ひよりが描いた、あかりの笑顔。
そして、その隣に置かれた、真っ白な画用紙。
「次は、何を描こうか」
あかりの声が返ってくる。
「二人で決めよう」
FIN
次回新作『僕らの青春』
初投稿は9月1日




