例題2『欲しかった時計』――装飾比喩・幻想型純文学ブラッシュドアップ実例
森川時計店のショーウィンドウには、いつも同じ時刻を指している腕時計があった。
細い銀色の針は、十時九分のところで止まっている。
時計なのだから、本当は動いているのかもしれない。店を閉める前にぜんまいを巻かれ、夜のあいだだけ、誰にも見られず時を刻んでいるのかもしれない。けれど、放課後に通りかかる中村雪には、それはいつも同じ時刻を指しているように見えた。
細い銀色のベルト。
淡い青色の文字盤。
目盛りは小さく、飾りもほとんどない。華やかな時計ではなかった。むしろ、隣に置かれた金色の時計や、小さな石を埋め込んだ時計に比べれば、ひどく静かだった。
その静けさが、雪は好きだった。
文字盤の青は、よく晴れた空よりも薄く、雨の前の空よりも明るかった。どこにも存在しない時間だけを集めて、丸いガラスの中へ閉じ込めたような色だった。
値札には、二万八千円と書かれていた。
雪が高校二年生だった頃、二万八千円は、金額というより距離だった。
歩いても歩いても着かない場所。
窓の向こうに見えているのに、入口のない部屋。
放課後、雪は友人の佐伯美咲と一緒に、駅へ続く古い商店街を歩いて帰った。
八百屋の店先には段ボール箱が積まれ、蜜柑や林檎が夕方の光を受けていた。総菜店からは油と甘辛いソースの匂いが流れ、和菓子屋のガラスケースには、粉をまとった大福が行儀よく並んでいた。
「今日はコロッケ揚げたてだよ」
総菜店の女性が、二人の制服姿を見ると声をかけてきた。
「どうする?」
美咲が足を止める。
「今日、新しいクレープ屋さんも行くんやろ」
「そうだった」
「両方食べたら太るかな」
「一個ずつなら大丈夫じゃない?」
「その理屈、何個まで使えるん?」
美咲が笑い、雪も笑った。
雪は友人といると、よく笑った。学校であったことや、先生の口癖や、同じクラスの男子が授業中に居眠りしていたことなら、いくらでも話せた。
けれど、将来のことを尋ねられると、言葉が少なくなった。
大学で何を学びたいのか。
どんな仕事に就きたいのか。
どこで暮らしたいのか。
何になりたいのか。
雪には、どれもよく分からなかった。
分からないと答えるたび、自分の中にある空白を人へ見せてしまうようで、少し恥ずかしかった。
美咲は看護師になりたいと言っていた。別の友人は教師になりたいと言い、都会の大学へ行きたいという子もいた。みんなの未来には、まだ鉛筆書きではあっても、道らしき線が引かれていた。
雪の未来だけは、白い紙のままだった。
商店街の半ばまで来ると、雪はいつも歩く速度を落とした。
森川時計店。
金色の文字で書かれた看板は、雨と埃で少しくすんでいる。店内には柱時計や置き時計が並び、それぞれ違う音で時を刻んでいた。扉が閉まっていても、耳を澄ませば、無数の小さな音がガラスの向こうで重なっている気がした。
その中央に、淡い青色の腕時計があった。
「また見てる」
美咲が言った。
「うん」
「ほんまに好きやなあ」
雪はガラスへ顔を近づけた。自分の顔と時計が重なって映る。制服の襟、額にかかった髪、その向こうで静かに光る青い文字盤。
「ちょっと地味じゃない?」
「そうかな」
「雪らしいと言えば、雪らしいけど」
「どういう意味?」
「静かそう」
「時計が?」
「時計も。雪も」
美咲は悪びれずに笑った。
雪も笑ったが、視線は時計から外さなかった。
「そんなに欲しいなら、誕生日に買ってもらえばいいやん」
「無理」
「言ってみたら?」
「腕時計に二万八千円も使ってほしいなんて言えない」
雪の家は、困るほど貧しくはなかった。食卓には毎日きちんと食事が並び、必要な参考書や制服も買ってもらえた。
だからこそ、必要ではないものをねだるのは申し訳なかった。
二万八千円あれば、家族で何度か外食ができる。母が迷った末に棚へ戻した服も買える。父がそろそろ替えなければと言っている靴にも届く。
「じゃあ、自分で買うしかないな」
「高校生には高いよ」
「大人になったら普通に買えるんじゃない?」
美咲は、総菜店のコロッケについて話すのと同じ調子で言った。
けれど、その言葉は雪の胸の中へ落ち、そこだけ深く沈んだ。
大人になった自分を、雪は想像した。
制服ではなく、きれいな服を着ている。
自分で働いて、自分で稼いだお金を持っている。
一人で店の扉を開ける。
誰かの顔色をうかがうことも、許可を求めることもなく、ショーウィンドウの時計を指さして言う。
「これをください」
それだけのことが、雪にはひどくまぶしく思えた。
時計を買う自分には、きっと迷いがない。
仕事もできる。
一人で知らない町へ行ける。
何を選び、何を諦めるのかを、自分で決められる。
自分の時間が、自分のものになっている。
「じゃあ、大人になったら買う」
雪が言うと、美咲は「うん」と答えた。
美咲にとっては、帰り道に交わした小さな会話だった。
雪にとっては、まだ顔も知らない未来の自分と結んだ約束になった。
それから雪は、貯金を始めた。
台所で使われなくなっていた紅茶の缶をもらい、机の引き出しへしまった。缶の底に五百円玉を落とすと、硬く澄んだ音がした。
その音を聞くたび、時計の針が一目盛りだけ動くような気がした。
帰り道に買っていたジュースを我慢した。
美咲とクレープ店へ行っても、「今日はいい」と言う日が増えた。
「ダイエット?」
「貯金」
「時計の?」
「うん」
「本気やなあ」
美咲が生クリームのついた紙を折り畳みながら言った。雪は笑って、クレープの甘い匂いだけを吸い込んだ。
最初のうちは、お金が増えること自体が楽しかった。
五百円玉が二枚になり、三枚になった。千円札を細く折って入れると、缶の中の硬貨が少しだけ鳴った。
雪は、ときどき全部を机へ並べて数えた。
三千五百円。
五千円。
八千円。
金額はまだ遠かったが、遠いなりに、こちらへ近づいている気がした。
けれど、高校生の生活にも支払いはあった。
友人の誕生日。
部活動で必要なもの。
進路のための参考書。
何かがあるたび、缶の中身は減った。
時計へ続く道は、進んでは戻る細い坂道だった。
それでも、雪は貯金をやめなかった。
缶の中身が一万円を超えた頃、母の誕生日が近づいた。
ある日、母と商店街を歩いていると、雑貨店の前で母が足を止めた。
灰色の手袋だった。手首のところに、小さな白い刺繍が入っている。
「これ、温かそう」
母は手に取ったが、値札を見るとすぐに棚へ戻した。
「まだ使えるのがあるから」
そう言って歩き出した。
その言い方が、雪にはよく分かった。
欲しくないのではない。
欲しいと言うほどではないことにしたのだ。
誕生日の前日、雪は紅茶の缶を開けた。
硬貨を取り出し、何度も数えた。
手袋を買えば、時計は遠ざかる。
雪は机の上に並べたお金を見つめた。銀色の硬貨は、窓から入る夕方の光を冷たく返していた。
翌日、雪は雑貨店で手袋を買った。
母は包みを開けると、しばらく何も言わなかった。
「これ、見てたやつ」
「うん」
「覚えてたの?」
雪が頷くと、母は手袋を両手で包むように持った。
「ありがとう。大切に使うね」
その冬、母は出掛けるたびに手袋をつけた。
「温かいよ」
何度もそう言った。
雪は、そのたびにうれしかった。
同時に、机の引き出しを開け、軽くなった缶を持つと、胸の中へ薄い風が吹いた。
後悔はなかった。
ただ、時計の青が少しだけ遠くなった。
(大人になってから買えばいい)
雪は自分へ言い聞かせた。
大人になるまで、時計は待っていてくれる気がした。
高校三年生の冬、雪は一人で商店街を歩いた。
美咲は受験のため塾へ通っていた。雪は地元の大学へ進学することが決まっていたが、そこで何を見つけたいのかは、まだ分からなかった。
空は早く暗くなり、八百屋の裸電球が蜜柑を照らしていた。総菜店の油の匂いが、冷たい空気の中でいつもより濃く感じられた。
森川時計店の前で、雪は立ち止まった。
時計はまだあった。
細い銀色のベルト。
淡い青色の文字盤。
二万八千円。
何一つ変わっていないように見えた。
雪だけが、もうすぐ制服を脱ぐ。
卒業祝いとして両親へ頼めば、買ってもらえるかもしれなかった。けれど、そうしたくはなかった。
この時計だけは、自分で働いたお金で買いたかった。
それができたとき、自分は本当に大人になれる。
ガラスへ映った雪の顔は、店内の暗さと重なり、輪郭が少しぼやけていた。その向こうで、青い文字盤だけが小さな窓のように浮かんでいる。
(待っていてね)
雪は心の中で言った。
(大人になったら、迎えに来るから)
止まって見える針は、返事をしなかった。
その日が、十六歳の雪が時計を見た最後の日になった。
◇
二十九歳になった雪は、研修先から帰る電車の中で、十三年前に暮らしていた町の名前を見つけた。
扉の上に流れる案内表示へ、見慣れた駅名が一瞬だけ現れ、右から左へ消えていく。
実家には今もときどき帰っていた。
けれど、駅まで両親が車で迎えに来ることが多く、商店街を歩くことはほとんどなかった。
その日は、予定より早く仕事が終わっていた。
雪は次の駅で降りるつもりだったが、扉が開く直前、不意に立ち上がった。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
ホームへ降りると、電車は雪だけを残して走り去った。
改札を出て、商店街へ向かった。
八百屋は閉まっていた。店先の屋根だけが残り、シャッターには不動産会社の紙が貼られている。
総菜店は明るい外観へ改装され、知らない若い店員が働いていた。和菓子屋はまだあったが、看板の文字が新しくなっていた。
クレープ店のあった場所には、携帯電話の修理店が入っている。
高校生の頃には長く感じた道が、今は驚くほど短かった。
道が縮んだのではない。
自分の歩幅が変わったのだと気づいて、雪は少しおかしくなった。
仕事用の紺色のパンツに、薄い灰色のコートを着ていた。肩には鞄があり、中には社員証と化粧ポーチと財布が入っている。
財布には現金がある。クレジットカードもある。
二万八千円の時計なら、今すぐ買えた。
買ったあと、食費を削る必要もない。誰かに理由を説明する必要もない。
そのことを思った瞬間、雪は森川時計店を思い出した。
まだあるだろうか。
店はなくなっているかもしれない。
時計など、とっくに誰かが買っただろう。
そう考えながら、雪は少しだけ歩調を速めた。
森川時計店は、昔と同じ場所にあった。
看板の金色はさらに薄れ、一部は文字が読めないほどになっていた。シャッターの端には錆が浮き、扉の前のマットは日に焼けている。
それでも、営業中の札が掛かっていた。
雪はショーウィンドウをのぞいた。
そこに、あの時計があった。
細い銀色のベルト。
淡い青色の文字盤。
置かれている場所まで、記憶とほとんど同じだった。
ただし、値札は新しくなっていた。
三万六千円。
高校生の頃なら、八千円の値上がりを、道がさらに遠くなったことのように感じただろう。
今の雪には、買えない金額ではなかった。
雪はガラスの前に立った。
十三年前、何度も思い描いた日が来ていた。
自分で働いて得たお金がある。
店の扉を開け、時計を指さし、「これをください」と言うことができる。
誰にも相談しなくてよい。
誰の許可もいらない。
けれど、胸は高鳴らなかった。
雪はもう一度、時計をよく見た。
思っていたより、小さかった。
銀色のベルトは華奢で、今の自分の手首には頼りなく見えた。淡い青色の文字盤も、記憶の中にあったほど深くはなかった。
記憶の中で、時計は長い年月をかけて育っていた。
ガラスの中の時計だけが、十三年前の大きさのまま残っていた。
雪は戸惑った。
あれほど欲しかった。
帰り道のたびに眺めた。
ジュースやクレープを我慢した。
紅茶の缶に硬貨を入れ、何度も数えた。
大人になれば必ず買うと決めていた。
それなのに、扉へ手を伸ばそうとは思わなかった。
値段を惜しんでいるのではない。
似合うかどうか迷っているのでもない。
ただ、もう欲しくなかった。
その事実は、小さな針のように胸へ触れた。痛いというほどではない。ただ、そこにあると分かる程度の細さで、静かに残った。
ガラスに映る自分の姿へ、制服の雪が重なった。
重たい学生鞄。
風で乱れた髪。
美咲の笑い声。
揚げたてのコロッケの匂い。
紅茶の缶の底へ五百円玉が落ちたときの、硬い音。
母が手袋を両手で包んだ姿。
『大切に使うね』
あの頃、二万八千円は遠かった。
大人になることも同じくらい遠かった。
雪は、大人になれば迷わなくなると思っていた。
朝はきちんと起き、仕事では失敗せず、疲れていても夕食を作る。自分の時間を、自分の意思だけで使える。何をすべきか分からず立ち止まることなどない。
実際の雪は、朝の目覚ましを何度も止めた。
仕事で数字を間違え、上司に謝ったこともある。帰宅して鞄を床へ置いたまま、コンビニのおにぎりだけで夕食を済ませる夜もあった。
何かを選んだあとで、本当にこれでよかったのかと考えることもある。
大人になっても、未来は白いまま残ることがあった。
ただ、高校生の頃とは違い、雪はその白さの上を、自分の足で歩いていた。
自分で働き、自分で部屋を借りている。
何を買うか、どこへ行くか、今日の残りをどう過ごすか、自分で決めている。
完璧ではないまま、いつの間にか、あの日に憧れた場所へ着いていた。
時計をつけていない手首を、雪はコートの袖口から少し出してみた。
何もない。
けれど、足りないとは思わなかった。
店の奥で影が動いた。
しばらくして、扉が開いた。小さな鈴が鳴り、高齢の男性が顔を出した。
「その時計、気になりますか」
雪は返事をするまでに、少し時間がかかった。
「昔、すごく欲しかったんです」
「昔?」
「高校生の頃、毎日ここを通っていました」
店主は雪の顔を見た。
覚えているのかどうかは分からなかった。目を細めたのは、外の光がまぶしかっただけかもしれない。
「ずいぶん長く置いてありますからね」
「売れなかったんですか」
「同じ型のものは何度か入れ替えています。これは……これも、まあ、長いですね」
雪は少し驚いた。
目の前の時計が、十三年前に見ていたものと同じかどうか、自分には分からないのだと初めて気づいた。
同じに見えるだけかもしれない。
入れ替わりながら、同じ場所に置かれてきたのかもしれない。
時計は雪を待っていたわけではなかった。
ただ、時計店には時計があり、季節が過ぎ、値札が変わり、その間に雪が大人になった。
「つけてみますか」
店主が言った。
腕につければ、昔の気持ちが戻るかもしれない。
ガラス越しではなく、自分の肌の上で見れば、再び欲しいと思うかもしれない。
そしてそのまま、買って帰ることもできる。
雪は時計を見た。
文字盤の青は、夕方の光を薄く含んでいた。十時九分を指しているように見えた針は、よく見ると、今の時刻へきちんと進んでいた。
止まっていたのではない。
離れた場所から、そう見えていただけだった。
雪は静かに首を振った。
「いいえ。大丈夫です」
「そうですか」
「ずっと置いていてくださって、ありがとうございました」
店主は不思議そうな顔をした。
それから、長く店にいる人らしい、何かを急いで理解しようとはしない笑みを浮かべた。
「こちらこそ、覚えていてくださって」
雪は頭を下げ、時計店を離れた。
約束を破ったという感じはしなかった。
むしろ、あの日の約束をようやく果たした気がした。
時計を買うためではない。
時計の前まで、自分の足で戻ってくるための約束だったのかもしれない。
商店街を歩くと、総菜店から揚げ物の匂いが流れてきた。
店先の札には、コロッケ一個百二十円と書かれている。
高校生の頃、時計のために何度か我慢したものだった。
雪は一つ買った。
紙袋から熱が伝わった。商店街の端にあるベンチへ座り、仕事用の服へ油を落とさないよう、少し前かがみになって食べた。
衣が歯の下で小さく砕け、中から湯気が出た。
じゃがいもの甘さと、油の匂い。
特別な味ではなかった。
けれど、温かかった。
雪は時計店のある方角を見た。
時計を欲しくてたまらなかった十六歳の自分は、もういない。
それを思うと、胸の中に、誰も住まなくなった部屋を見つけたような寂しさがあった。
けれど、その部屋は壊れてはいなかった。
机があり、紅茶の缶があり、窓の向こうには淡い青色の文字盤がある。若い雪はそこで、まだ見えない未来を想像している。
今は欲しくないからといって、あの頃の気持ちまで嘘になるわけではなかった。
雪は、本当に時計が欲しかった。
その憧れがあったから、形のなかった未来を思い描けた。大人になることを、少しだけ楽しみにできた。
時計は雪のものにはならなかった。
けれど、長いあいだ、雪の未来を預かっていた。
それで十分だった。
コロッケを食べ終え、雪は紙袋を小さく折り畳んだ。
スマートフォンを見ると、母から連絡が届いていた。
『近くまで来ているなら、夕食を食べていかない?』
雪は少し考えたあと、実家へ行くと返信した。
『コロッケも買っていくね』
送信すると、すぐに母から笑顔の印が返ってきた。
雪は立ち上がり、総菜店へ戻った。
その途中でもう一度、森川時計店の前を通った。
今度は立ち止まらなかった。
ショーウィンドウの中で、淡い青色の文字盤が夕方の光を受けている。
針は、雪が見ていないあいだにも進んでいた。
雪は横目で時計を見ながら、そのまま歩いた。
胸は痛まなかった。
欲しいとも思わなかった。
(ちゃんと、大人になったよ)
昔の自分へ報告すると、返事の代わりに、総菜店の紙袋が手の中で温かく鳴った。
雪は今夜、自分が食べたいものを買うために、夕暮れの商店街を歩いていった。




