第二章 妖魔衝突
6月16日 午前8時13分 鳳凰学園通学路
「ち、遅刻、遅刻!」
送迎バスに乗り遅れたクリスは、息も絶え絶えで通学路を駆け抜けていた。
通学時間との戦いは非情にシビアである。学則により8時15分を過ぎて入門した者には一周1600m×2のグラウンドツアーが贈呈される。
「神様! お願い!」
クリスは焦心して立場との矛盾を口走る。だがやはり神は祈る者に平等なのか、目の前に突如西門が姿を現し始めた。
「いっけえええええっ」
希望を目前にしたクリスはまさに時を駆けるかの如くして全力で下り坂を降りると、ついに敷地内へ感動の一歩を踏み込んだ。
「……はぁ……はぁ、じ、時間は?」
すかざす視線を左手首へと移す。液晶画面には『08』と『15』の数字が表示されていた。
「うきゃああ!? う、うっ……。世間とはなんと残酷なものなのかしら……」
クリスは奮闘虚しく、愕然としてその場にへたりと崩れ落ちる。自身も半分鬼だが、渡れる世間は完全なる鬼ばかりであった。
「あら、あなたはアリシアさん?」
「えっ?」
不意に名前を呼ばれ、クリスは弱々しげに顔を上げる。
「し、新堂先生!」
そこには、今日の門番であろう天使の新堂が立っていた。
「せ、先生ぇー。お、お願いですから。見逃してくださいぃーっ」
クリスは泣き伏しながら懇願する。内申に傷がつく=火傷の跡がつくのであるから、否応でも必死にならざるを得ない。説得に失敗すれば、本来の意味で必死にされてしまうのだ。
「わ、わかったから。そんな売られていく子牛のような目で見ないで。お願いだから……」
異様な迫力を孕んだ泣き落としに負けた新堂は戸惑いながらも、今回の咎めを無しにする約束をしてしまうのだった。
――午前8時35分 鳳凰学園一年A組
クリスが自分の席に辿り着いて、真っ先に気に留まったのが隣の席であった。
「……卓哉。わたしが言えた義理じゃないけど、遅刻は駄目でしょ」
誰もいない席に向かって呟く。一昨日とは言え、夜の校舎で一夜を明かせば疲労するに決まっている。
「――なあ、お前等知ってるか? 卓哉が一昨日から行方不明らしいぞ」
「えっ?」
クリスが椅子に腰を預ける寸前、後方席の男子が意外な言葉を発していた。
「あ、それ知ってる! C組の柳美香さんもなんだってー」
「えっ。あいつら葉月と吸血鬼事件を調査するって言ってたぞ?」
(吸血鬼? まさか、あの結界をヴァンパイアが破るとは思えないけど……)
クリスが不可思議そうに首を傾げていると、教室の前扉がいきなり音を立てて開き、内藤が教室内に入ってきた。
「あれ?」
朝のホームルームはまだ始まってはいない。それに今日の一時間目は社会ではない筈だ。
内藤は教壇に立つと、騒いでいる生徒を宥めて、自分がこの場にいる理由を説明する。
「ええと……まず、連絡事項です。此度、三上先生の諸事情により、私が暫くの間、このクラスの臨時担任を努める事になりました」
突然の報告に教室内がしんと静まりかえる。だが、次の瞬間には一斉の驚愕の声色で満たされ、たちまちにして沸騰を始めた。
「きゃああー」と、興奮する生徒。
「新堂先生じゃないのか……」と、落胆する生徒。
「吸血鬼だ! 吸血鬼の仕業だ!」と、熱心に主張する生徒。
クラス内の反応は様々であった。
「なっ、なんでそうなるのよ……」
ちなみにクリスは顔を真っ赤にして、不満をぼそぼそと呟いていた。
(ま、まあ、それはともかくとして。四人全てが行方不明なんて)
三上を含めて行方不明になっているのは、いずれも一昨晩の校舎に居残りしていた者達だ。つまりヴァンパイアに遭遇して骨まで餌食にされたか、アド化した可能性が高い。
(そうなると犯人はあの四人以外に、あの夜の校舎にいた可能性がある……)
暫し考え巡らせたクリスの頭の中で、これらの条件に該当する人物が一人だけ浮上した。
(――新堂先生なの?)
彼女は類稀なる美人ではあるが、男子達の執着には何処か常軌を逸するものがあった。それはまるで、人間のものとは異質の妖しさに惑わされているのでは、と、疑ってしまう程に。
だが、それは推測の域を過ぎない。それに新堂の正体がヴァンパイアだと判明しても、迂闊な干渉行動は種族間抗争の引き金となってしまう恐れがある。
(でも、まさかあの新堂先生、がね?)
けれども、相手が何をしても、クリスが絶対に傍観を決め込む義務も無いのである。
6月17日 午前1時38分 鳳凰学園西棟周辺
「まさか、校舎やその他の建物にも妖王の手がかり一つ掴めないなんて……。鳳雅俊の馬鹿ーー!! 潔く正体を現しなさいよ! この臆病者ー!」
クリスは相当焦っていた。小雨に打たれてる原因もあってか、苛立ちを抑えきれず、つい校舎に向かって八つ当たりの文句を発つ。
「ふむ、奴に用があるのかえ?」
「っ!」
クリスがすかさず距離をとって背後を振り向く。視線の先には赤い瞳の老人が一人佇んでいた。
「……なんだ。ただのアドじゃない。驚かせないでよ」
「くっくっ、それはすまんのう。だが、こんな雨夜に健全な小娘が鳳を尋ねるとは……奴に一体何用かのう?」
老人は品性の欠片もない笑いを浮かべていた。それを見て不愉快な気分になったクリスは人差し指を垂直に立て、瞬時にこぶし大の光球を作り出す。
「悪いけど、あなた相手に魔術を組む気はないから。これで消えてね」
「ほほう。たかが魔弾如きでワシを消すと言うか。うむ、しかし魔力は中の上といった所じゃの。なかなかやりおるではないか」
クリスの今までの経験からすると、このマナの塊を目の当たりにした者は大抵腰を抜かすか、もしくは命からがらに逃げる筈だが、老人はどちらにも当てはまらなかった。寧ろ、魔力量を余裕で分析している姿に自分の方が一瞬逃げ出したい気分になった。
「……あっそう。でもすぐにそんな戯言は言えなくなるけどね。はい、さようなら」
不安と苛立ちが募った所為か、クリスはすぐさまに魔弾を老人へと向かって投げつけた。
「くっくっくっ」
迫り来る消滅の瞬間を前にしても、老人はやはり不気味に笑っていた。
(……おかしい。先ほどから態度に余裕があり過ぎる)
クリスは怪訝な表情で出方を窺う。老人が瞑想をして息を深く吸い込み、喝を入れると、魔弾はまるで恐縮するかの様に目前でその動きを停止した。
「嘘でしょ!?」
クリスはこの起こり得る筈のない現象に驚きを隠せなかった。更に老人は呪詛を唱えてマナの分解と、それを再構築する技術までやってのけた。
「な、何で、アド・ヴァンパイアにそこまでの芸当が出来るのよ! これじゃまるで……」
「くっくっく。ワシを嘗めてもらっては困るの。ジェームス・ハワードの娘よ」
「えっ!?」
クリスは一瞬耳を疑った。老人が突如、自分の父親の名前を口にしたのだから。
「ちょっ、あなたはパパと……」
「問答無用。涅槃へと消えるがよい!」
老人はクリスが話し終える前に、先ほど術式変換したものを向かって放出した。すると雹状の魔力が雨粒と混ざりながら怒号の勢いで無差別に降り注いだ。
「う、嘘でしょ!?」
地面を荒削っていくその魔術に命の危機を直感したクリスは、魔力の障壁で身体を防護しながら、屋上まで一気に跳躍する。
「な、なんで、なんで、何でっ! 今日に限ってあんな変なのと遭遇するのよ!」
急いで扉から校舎内へと駆け込むクリスの頭の中はとおに混乱していた。何故に、魔王である自分が追い詰められているのだろうか?
しかし、老人の魔術に対処できない今、一刻も早く逃げ切らなくてはならない。下手をすれば、満十四という若年で人生の終焉を迎えてしまうのだ。そんな呆気なく、遣り残した事が数多くある状態での最期は嫌だった。
「どうしよう、先生……」
光を求め、連絡通路を駆け抜けるクリスの頭の中に、ふと、内藤の笑顔が思い浮かぶ。
その時、いきなり弾力のある壁に激突し、クリスは床に勢い良く尻餅を付いてしまった。
「いたたた……」
「だ、大丈夫ですか。ギルバートさん?」
何処か聞き覚えのある慌てた声と共に、目の前に右手が差し伸ばされる。
クリスが腰を擦りながら相手の顔を見上げると、そこには困惑した表情を浮かべている内藤の姿があった。
「な、何で……ぐすっ」
宿直当番なのか、他の理由か。ともかくあまりの偶然にクリスは思わず涙ぐむが、制服の袖で涙をさっと拭い、差し出された手を強く握って地面へと起き上がる。
「え?」
内藤の背後に別の人物がいた。
「新堂……先生」
赤みを帯びていたクリスの顔がたちまちに蒼白する。この情況が意味するものとは、次の犠牲者候補の正体であった。
(い、一体どうすれば?)
今この場で新堂を片付けてしまおうとの考えが、クリスの頭に一瞬過ぎったが、確証もない現状下で無闇に手を出すのは危険である。それにもし魔術を使ってしまえば、内藤に自分の正体を暴露してしまう事にも繋がってしまう。
結局、クリスは判断に困り、おろおろと前後を交互に振り返る事しか出来なかった。
「くくっ! 見つけたぞい」
しかし、その躊躇が命取りになった。先程の老人が西棟側の通路から、猛烈な勢いで宙を駆け渡りながら近付いて来たのである。
(ごめんなさい……内藤先生)
板挟みにより退路を断たれ、確実に窮地へと追い込まれる状況に陥ってしまったクリス。せめて内藤だけは逃がそうと、自身の命を賭す覚悟で老人の前に一歩踏み出た。
「――殺せ、響希」
「……え?」
クリスの真後ろから冷酷な殺意を含んだ男の声が発せられた。
「ええ」
只、一言の受諾。女性はクリスの横をすんなりと通り過ぎると、堂々と老人の前に立ち塞がった。
「くっ、邪魔じゃ。この小娘が!」
挑発にも似た行為を相当不快に感じたのか、老人は先程とは比べ物にならない膨大な量のマナを即座にかき集めて、目の前の女性を完全に排除しようと試みる。
「……何と愚昧な」
女性が深い一息を付くと、その右手からたちまちの内に蒼白く光る棒状の炎が立ち昇った。
「えっ?」
それが一体何だったかをクリスが認識する暇もなく、女性は間髪を入れず横一線に薙ぐ。すると寄ってきた老人の上下半身は先の苦戦が虚実に思える程、呆気なく分離した。
「黄泉へと消え失せなさい。下賎なるアド・ヴァンパイアロードよ!」
女性が声を張ると同時に二つに割かれた身体は刹那にして炎に包まれ、そして灰と化す間も無く現世から完全に消失した。
「そ、そんなことって……」
クリスは目の前で起きた光景に呆然と佇んでいた。背後から見える女性の髪は老人の瞳と同系色にも見えなくもない。
しかし女性が先程使用した炎はまさしく――。
「……お……鬼火」
「ほう。やはり貴様でもそれくらいは気付くか」
「えっ!? あっ……な、ないと……っ」
クリスが反射的に背後を振り向くと、そこには良く知っている男がいた。けれども口からその名前は紡がれなかった。
何故なら、男は凍りつく程の冷たい瞳で淡々とクリスを見下ろしていたからである。
「で、己に一体何の用だ。アリシア・ギルバート。……否」
――魔王クリスティ・ハワード。
男は殺気を込めた口調で、ゆっくりと少女の名を呼んだ。