第二章 初登校(潜入)
6月11日 午前6時20分 鳳凰学園正門前
翌朝、クリスは学園正門の前をうろうろと徘徊していた。
「は、早過ぎたかしら? 何だか少し虚しくなってきたわ……」
ハワード家は常に一時間前行動が基本である。それでも尚更に三十分の余裕をとったのが原因だろう。当然ながら本人を除いて人気は皆無だった。
「うーん。まあ、職員室に向かえば誰かがいるでしょ!」
クリスは悩むのを止め、取り合えずと門の内側に足を踏み入れる。
「こ、これはもはや、既に大学に等しい規模ね」
学園の敷地内には無数の木々に覆われながらも、幾つかの建造物が聳え立っていた。おかげで校舎を特定できなかったが、大抵は正門から直線上の道なりに進めば辿り着くと相場が決まっている――と安直な法則を、その時までは頭ごなしに思い込んでいた。
「……迷った」
結局、クリスは半透明のビニールハウスの前で呆然と立ち尽くしていた。
「ちょ、ちょっと、なんで農園にたどり着いているのよ! この学校、配置が変でしょ!」
自身の方向音痴を棚に上げて愚痴りながらも、取り敢えずハウスの一棟に入る。最初に転入を暖かく歓迎してくれたのは教師でも生徒でもなく、皮肉にも大量の農作物であった。
「ほへえ。トマトって土に埋まってるんじゃなかったんだ。美味しそう」
準都会育ちのクリスにとっては新鮮な光景だった。枝に実ってる赤く熟れた艶のある果実からは瑞々しさが、地面に落ちて潰れた果肉からはじゅわじゅわと甘酸っぱい芳香が漂い、育ち盛りな少女の食欲をそそらせる。
「……まあ、一つだけなら。味見くらいはいいよね」
野食いが未経験のクリスだが、不思議と魅了されて引き込まれるかの如く、その一つへと無意識に手を伸ばした。
「――みんな、病気には気をつけて頑張ろうね」
「わ!?」
突如、奥から温和な鼓舞が発せられ、クリスは伸ばしかけた手を思わず引っ込める。
「あ、あれ?」
我に返ったクリスが足音を立てずにハウスの尻部へと移動すると、緑のジャージ姿に麦藁帽子の地味な格好をした女性が野菜に向かって微笑んでいた。
(ふーん。やけに、美人な用務員さんね)
女性を比喩するなら、棘の無い薔薇であろうか。普通、艶美なものは同時に相応の毒を含有しているケースが多い。しかし女性は綺麗な顔立ちをしていながらも、全身からは少しの毒気も放っていない。泥に塗れた姿が艶麗な外貌を見事に相殺してくれた所為かもしれないが、結果的にクリスの本能は人畜無害を直感していた。
「あ、あの。すいません」
だからクリスは、無警戒にも横から近付いて声を掛けていた。
「……え?」
女性は声に振り向くと、瞳を白黒させながらクリスの顔を無言でじっと見詰める。
「え、えーと。用務員さん? わたしの顔に、な、何か?」
「あ、ごめんなさい。見ない顔だったもので……」
「驚かせてすみません。わたし今日からここに転入する事になったので」
「海外からの転校生……? ああっ!」
彼女は何かを納得して、頷きながら両手をポンと叩いた。
「貴女、もしかして『アリシア・ギルバート』さん?」
「はい、そうですが。わたしの事をご存知なのですか?
「ええ。1年生のクラスに海外留学生が来るって話が挙がってたもの」
学園の制服を着用しているので、滅多な事では不審者に見られないだろうが、クリスにとっては余計な説明が不要になって助かっていた。
「どうしたの? もしかして道に迷って、ここに辿り着いたのかな?」
「!?」
図星を突かれたクリスは、小柄な体躯を萎ませながら首を縦に振る。
それを見た彼女は優しい表情を更に軟らかくして、
「ふふ、ようこそ鳳凰学園へ。それでは校舎に案内するわね、『可愛い留学生さん』」
と、からかい気味に微笑んだ。
――午前8時32分 1年A組廊下前
あれから来賓室でお茶を啜った後、クリスは『三上』と言う教師を紹介され、学園に関する諸々の説明を受けた。そして現在、彼が担任を勤めている教室の前に佇んでいる。
「それでは留学生を紹介するぞー。入ってきなさい」
教室内から発せられた三上の言葉を合図に、クリスは教室の中へと足を踏み入れる。
「うおおおおーっ!! 」
「かわええええっ!!」
「萌えぇーーーッ!!」
途端に巻き起こる熱烈歓迎の砂嵐。クラス内の男子生徒が一同に黄色い雄叫びをあげていた。
「モエー?」
聞き覚えのない言葉にクリスは首を傾げるが、恐らくは女性を称賛する褒義だろう、と都合の良い解釈をする。
「初めまして。イギリスからやって来ましたアリシア・ギルバートです。出来ればアリスと呼んで下さい」
教卓の前に立ち、スタンダードな自己紹介をして左目で軽くウインクを飛ばす。すると男子達は全身を悶えさせて、机に伏すように蹲った。
「……お前ら。アリシアは今学期のみの短期留学だが、その間に彼女を困らせるなよ」
「了解です!」
男子一同が纏まって、忠告に対して元気な返事をする。その妙な自信に満ち溢れた結束力を目にした担任は多少諦め気味に溜息をつきながら、自分の頭をやるせなさそうに掻いた。
「アリシア。席は好きな場所に座りなさい」
「えっ? あ、はい」
教室内の席順は自由だとしても、一度場所を決めてしまえば大概は固定席となってしまうものである。現に、殆どが男子は男子、女子は女子同士で固まっていた。たまに男女が隣合わせで座っているが、それは恐らくそう言う関係なのだろう。
席を物色しているクリスの目に、ふと窓際の前卓が留まる。
最前列の席と言うものは非常に人気が無い。そこには一人の男子がいるだけであった。
少年は余程授業熱心なのか。それとも只、人と関わらまいとしているだけか。ともかく、適度な距離感を求めるクリスにとっては都合が良かった。
クリスはその長卓に移動すると、一つ隔てた席に腰掛ける。すると意外にも、いきなり少年から声を掛けられた。
「よっ! 俺は木藤卓哉。ヨロシクな!」
卓哉と名乗った少年は愛想良く挨拶をして、右手を差し出してきた。それは日本の若者には珍しい、社交的な行動だった。
「よろしくね。卓哉」
出された手をクリスは握る。卓哉の右手は微かな熱と湿気を帯びていた。
「よーし。ホームルームはここまでだ。各自すぐに一時間目の用意をすること。以上!」
転校生の紹介で時間が切迫していたのか、三上は出席簿を脇に抱えると、慌ただしく教室の外へと駆け出て行った。
その直後――。大量の足音と共に、女子達が凄い形相で窓際へと押し寄せ、クリスの四面八方をあっという間に取り囲んでしまった。
「な、何か用ですか?」
逃げ場を塞がれたクリスは辟易した。もしやこれが伝統の『集団イジメ』と言うやつではないだろうか。実際、何人かの唇はわなわなと震えているので、きっと自己紹介時の過度な煽りが女子の反感を買ってしまったのだろう。
「き、きっ……」
「なっ、何よ?」
罵倒の言葉を今すぐにでも発さんとしている女子達。迫力にたじろぎ、調子に乗った事を深く後悔したクリスは祈るようにして目を瞑った。
「きゃああああっーー! かわいいーー!」
「……へぇっ?」
間の抜けた疑問符が口から飛ぶ。何事かと、まるで警戒心の強い小動物さながらにおどおどと目を開くが、この動作が却って仇となった。理性の箍が外れた女子達は顔を上気させて、一斉にクリスの身体を撫で回し始めたのである。
「きゃあ! あ、あの……く、くすぐったい」
「ほんと、近くで見ると更にお人形さんみたい」
「アリスちゃん、日本語すっごい上手だね。何処で習ったの?」
「ねえねえ、社会の先生が言ってたけど、日本の文化が人気あるって本当?」
「わたし、お持ち帰りしたくなっちゃったよぉー」
集団イジメではなく、完全に集団質問責めに遭っていた。
半艶妖の魅力は男子のみならず、女子までもを虜にしてしまっていた。皮肉にもそれは母親から譲り受けた特徴の一つであった。
「あ、ありがとう。でも、あなたにはまだ及ばないわ」
「日本語は日本人の母から習ったの。だから漢字の読み書きも出来るわよ」
「うん。忍者とか、刀が人気あるよ。わたしの周りは将棋がブームかな」
「ちなみにテイクアウトサービスは実施してないの。ゴメンね」
クリスにとってこの状況は僥倖であった。母親直伝の対人用スマイルを浮かべると、順序良く皆の質問に答えていく。そして社交の教えが役に立った事に感心しながら、このまま窮地を潜り抜けて行けるように心の中でそっと祈る。
「ねえ、はづき研究会に加入しない?」
「えっ……」
平穏無事を願った矢先、流暢だった口先がいきなり止まってしまった。
「はづき研究会?」
クリスが言葉を反芻すると、質問者はもの凄い勢いで幾度も頷き、内容を説明し始める。
「ぶっちゃけて言うと、私とそこの卓哉と、あと一人で構成されているオカルト研究の為の同好会なんだけど興味ない? あっ、ちなみに現活動は最近学園内で起こった、女生徒が被害になった吸血殺人事件と、同じ日に教師が神隠しにあった事件の真相解明ね」
――オカルト研究会。
「あの、ごめんなさい。実はわたし、科学主義で」
クリスは婉曲的に断りの返事をする。科学派のウィザードなど存在する筈がないが、嘘も方便であった。下手をすれば自身が解明されてしまうのだ。
「……そう、残念。まあ気が変わったらいつでもおいでよ」
「うん、分かった。その時はよろしくね」
クリスは笑顔で媚びる。日本人との交友は面倒なものだと熟々(つくづく)感じさせられていた。
「はい、皆さん。可愛い留学生との交流はこれまで。次は休み時間にしましょうね」
突然、教卓から両手を拍打つ音が発せられ、それをきっかけに皆はクリスの前から漸々と姿を消して行く。
「あ、あの人は!」
視界が開けたクリスは大きく目を剥いた。そこには服装こそは違えども、先程の用務員が立っていた。
だがそれよりも更に驚愕とした事があった。それはクラス内の男子達が獲物を定めた肉食動物かの如く、鋭くも卑しい視線を一斉に女性へと向けている妙な光景である。
「な、なぜ、新堂先生がここにいるんですか?」
鼻息を荒げている一人の男子が、何かを期待するように彼女へと理由を尋ねた。
「ええ。今日は山中先生が出張の為、私が替わりに授業を受け持つことになりました」
『…………………』
教室内に訪れる数秒間の沈黙。
『よっしゃっああーー!!』
その後、男子全員が飛び上がりそうな程に狂喜乱舞した。ある者は突然踊りだし、又ある者は突然鼻から大量噴血して離席する。
この光景を目の当たりしたクリスは学園の偏差値もそうだが、特に日本男児の質を疑った。確かに、彼女は老若男女どの目から見ても認めざるを得ない程の美女なのだが、
「男って……、美人なら何でもいいんだ……」
彼等の変わり身の早さには、流石に悪い意味で舌を巻くしかなかった。