十三章 別れの日
また母親の夢を見た。
今度はあの胸の激苦が取れ、とても軽かった。何の不自由無く呼吸が行える。
ふと違和感から掌の中を見ると、裏表共に同じ女性像の刻印された金貨が納まっていた。
(そうだ、これは……バースデイコイン)
片側の擦り切れた箇所には、かつて私の名と誕生日が彫られていた。乱暴に扱った記憶も無いのに、何時の間にか判読出来なくなってしまっていた――まるで、健康長寿の守りとしての役目を終えたかのように。
(守りだと……?何故私は、こんな事を覚えているのだ?)
ベッドには私の代わりに仰向けで誰かが眠っていた。……そうだ、弟。何故かは分からぬが、それだけは知っている。
「―――、もうすぐよ……もうすぐ治してあげるわ」
母は以前の夢よりずっと顔色が悪く、頬は青黒かった。なのに虚ろな両目の奥だけがギラギラ輝いて、まるで……宇宙の歪みより這い現れる、悪魔。
ブゥン……何処かで空気の震えが起こる。
母親は眠る弟の手を握り、期待に満ちた狂気の笑みを浮かべた。
だが彼女の精神は、彼の目覚めまで保たなかった。
―――…♬♩♫♪♩……。
何処からともなく美しく、そしてとても悲しげなバイオリンの音が聞こえてきた。
「イヤアアアッッッッッ!!!」
音色を聞いた母は金切り声を上げ、両眼を異常な程グルグル回した。しばらくして、更に大きな絶叫が部屋中に響き渡り、
そして私は瞼を開いた。
「っはっ……はぁ……!?」
額を伝う気持ち悪い感触。寝巻きもぐっしょり汗で濡れている。
「何なんだ、この記憶は………?」
あれが私の昔?間違っても、四天使の言動がきっかけで生まれた妄想ではあるまい。
「ん?」
寝る前にあったウイスキー臭い枕が無い。大方飽きて自室にでも引っ込んだのだろう。取り乱した所を見られなくて幸いだ。何をほざかれるか分かった物ではない。
寝巻きのついでに包帯も替える事にし、纏っている物を全て外した。クリスタル壁の反射を利用して背中と両腕の傷の治癒具合を確認し、新しいガーゼと包帯を巻く。
(良かった。これなら明日の朝一で帰れそうだ)
もうすぐこの非人間的な場所を出、妹達に会えると思うと嬉しくて小躍りしてしまいそうだ。もう二度と戻って来たくはない。悪夢も、きっと下界の新鮮な空気を吸えば収まってくれるだろう。
「ふぅ……」
過去は過去。幾ら悲惨でも現状には関係無い。それに私も一応は人の子。これ以上怪物じみた母親を見たくはなかった。
(さあ、リサの御両親の所へ行こう)
清潔な寝巻きを纏い、調整室を出る。
沈黙の水晶宮に私の足音だけが響く。やがて大広間に入り、自然と彼の墓標を見上げた。
「……可哀相に」
宿るはずの無い愛故に自死を選んだ天使は、遺された者など何処吹く風。百年前から変わらず、酷く安らかに眠っていた。
「微笑むは貴殿だけ、か。そうだな……所詮幸福など己で見つけるしかない」
あの神もいつかその真理に気付くのだろうか。それとも……端からは見えずとも、今の狂った状態が最上の幸せ、なのかもしれない。この忠実な守護天使はもう何処にも行けぬし、死者に心移す事も無いのだから……。
「ではな」
赤毛の四天使と違い、彼は私や他の木偶を意志ある物として扱ってくれていた。優しい手当ての感触を、まだ皮膚が覚えている。道具らしくない、情け深い天使。貴殿は恐らく今――愛する魂と幸福の只中にあるのだな。
昨日と同じく裏口を出、追憶回廊へ。今度こそ出て来るかと思った母は現れず、無事魂の牢獄へ到着した。
「済まない。また顔を見に来た」
「あ、シルクさん!」
御両親は期待に満ちた笑顔で、わざわざ鉄格子の前までやってきた。
「昨日は途中で邪魔が入り済まなかった。ええと、リサが手術を終えた後の話だったな」
「シルクさん」
「どうしたお父上?」
彼は私の顔をまじまじと見つめる。
「いや、昨日より顔色が悪いような……怪我の具合が良くないのに、私達のために無理をなさって来られたのですか?なあ?」
「ええ、目の下に隈が出来ている。戻って休んだ方がいいのでは?」
「あ、いやこれは……少し夢見が悪かっただけだ。問題無い」
「まあ、大丈夫ですか?どんな夢を……?」
母の、と言い掛けて思い留まる。幾ら赤の他人とは言え、連想で己達を責め始めてしまう可能性大だ。
「偶にあるのだ、大した事ではない。それより御両親、悪夢は見るのか?」
牢獄は大悪魔の封印された氷城の目と鼻の先。水晶宮より距離が近い分、影響も出やすいはずだ。
「え、ええ……よく。だけど昨日は、シルクさんとリサのお陰で全く」写真を愛しげに胸の前で抱き微笑む。
「シルクさんはリサだけでなく、私達にとっても恩人です。あなたが来てくれなかったら、罪悪感でお互いを際限無く傷付け続けていた」父親は正座し、頭を限界まで下げる。「本当にありがとうございました」
「だから感謝される資格など」居た堪れなさから頭を掻く。「話をして構わないだろうか?――実は、明日にもリサの所へ帰るつもりなのだ。傷も癒えたしな。だから御二人を訪ねるのも……これを最後にするつもりだ」
私が異教徒抹殺反対の意見を有している事は既に伝えてあったので、御両親はすんなり納得してくれた。
「では、もうここへは戻って来ないのですね……寂しいけれど、その分あの子の傍にいてもらえるなら……」
「ああ。生きているリサと違い、魂の私達に遠慮はいりません。娘が元気で笑っていてくれる事……仮令見えず聞こえずとも、それが私達の幸せです」
一瞬だけ、親子を再会させたいと言う欲求が芽生える。しかし即座に実行するまでもないと否定した。リサが感じていなくても、親子の絆は遥か昔から結ばれている。守ろう、処刑人の私が全ての罪を背負い。
「ねえシルクさん。あなたが姉で本当に良かった……」
その返事は敢えてせず、私は話の続きを始めた。




