第参帳:【症状】
――――――。
鼻を突く強烈だが無機質な消毒液の臭い。
目を開けると、そこは白い天井だった。
焦点の合わない視界の先で、蛍光灯の白さがナイフのように網膜を焼く。
(ここは……)
「一条さん! 一条さん、気が付きましたか!?」
僕は脂汗を流しながら、荒い呼吸を繰り返した。
(体、……在る)
(右足は……)
シーツ越しに、渾身の力を込める。
鈍い重みが脳へと伝わってきた。
指先が動く。布を掴む感触。……在る。
とても信じられないが、あの「幽世」で経験したことは現実だ。
骨を砕くあの熱量、命が零れ落ちる絶対的な虚無。あれを夢で片付けられるほど、僕の想像力は豊かじゃない。
「一条さん、動かないで! 今、先生を呼びますから!」
「......はい」
銀髪の神官。黄金の瞳。
そして、あのくたびれた和服の男の記憶。
『お前は誰だ』
脳内に残る、澱んだ沼のような低い声。
そして、
『小娘はもう起きることはない』か……。
「……君」
「…条…君」
「一条君」
不意に、声が鼓膜にへばりついた。
意識が急速に、この無機質な病室へと引き戻される。
「はいっ!」
思わず、情けないほど声が裏返ってしまった。
如何やら考え事をしすぎたらしい。
「……一条君」
医師の声は、努めて低く、穏やかだった。
「……今は、何も考えなくていい。体の方は、こちらで処置を終えて安定しているから。まずは、ゆっくり休むことだけを考えてくれればいいよ」
医師は僕の目を無理に覗き込もうとはせず、手元のバイタルデータに視線を落としたまま、静かに語りかけた。その言葉には、僕を急かすような鋭さも、何かを問い詰めるような圧迫感も一切なかった。
「一条さん、大丈夫ですよ。ゆっくり呼吸してくださいね。先生、処置後の経過も良好ですし、これ以上はお休みいただいた方がいいかと思います」
傍らにいた看護師さんが、僕に安心感を与えるような穏やかなトーンで告げた。
「そうだね。一条君、君が以前からうちの精神科で加療中なのは共有されているから。そのうち、精神科の担当医が来る。……今は、ただ眠りなさい。」
医師と看護師が去った後、入れ替わるように一人の男が病室に入ってきた。
白衣は着ておらず、落ち着いた灰色のカーディガンを羽織っている。精神科の諮問医だろう。
「一条君、こんにちは。少しお話できるかな」
彼は僕のベッドの脇にある丸椅子に、音を立てずに腰を下ろした。
その声は柔らかく、僕を刺激しないように細心の注意が払われているのが分かった。
「……久遠さんが見つけてくれなければ、大変なことになっていたね。山奥の古い社で、首を吊ろうとしていた……。その事実については、君自身も覚えているかな」
僕は視線を天井に向けたまま、小さく頷いた。
「分かった。……ただね、一条君。今の君の状態は、自分自身をコントロールできているとは言い難い。自傷や他害の恐れがある場合、僕たちは君の安全を守るために、精神病院棟への『強制入院』を検討しなければならないんだ」
強制入院。
その言葉の響きは、僕をこの社会から完全に切り離す宣告のように聞こえた。それだけはまずい。
なぜなら、僕の脳裏には、幽世で聞いた謎の男とあの神主の『言葉』が、鮮明な違和感として居座っていたから。
「……先生、一つだけ、お願いがあります」
「何かな、言ってみて」
「再検査を、もう一度、鬱の検査をしてください」
自分でも驚くほど冷静だった。
死の淵から戻り、ゆきの声を聴いた今の僕は、以前の「ただ消えたい」と願っていた僕とは、何かが根本的に、細胞レベルで入れ替わっている確信があったからだ。
「……分かった。納得した上で治療に進むのは大事なことだ。もう一度、心理検査と脳波のスクリーニングをやり直そう」
◇ ◇ ◇
数時間後。
戻ってきた医師の手には、数枚の検査結果が握られていた。
彼の表情からは、先ほどまでの「同情」や「配慮」が消えてた。
「……一条君!。正直に言って、こんな前例はない」
諮問医はひどく動揺した様子だった、手元の数値を何度も見直しながら、独り言のように呟いた。
「君の以前のカルテにあった、典型的な大うつ病の脳波パターンが……完全に消えている。セロトニンやドーパミンの数値も、鬱病患者のそれではない。むしろ、異常なまでの覚醒と生命力を示しているんだ」
医師が差し出したグラフには、僕が「鬱病」であることを否定した。
「診断を覆さざるを得ない。今の君は、医学的な意味での『うつ病』ではない。……ただ、それなら、なぜ君があんな極端な行動に走ったのか、医学的には説明がつかなくなってしまった」
「そうですか」
そりゃそうだ。ゆきが求めているなら僕は死んでも死なない。
「もう夜も更ける。久遠さんが明日迎えに来るから。いろいろ準備しといたほうがいい」
結局、検査結果が「正常」を通り越して「異常なほどの生命力」を示したことで、諮問医は強制入院の根拠を失った。もちろん、自死未遂の事実は消えない。これからも経過観察があるだろう。
◇ ◇ ◇
翌朝
「久遠さん」
彼は病院のロビーで、いつも通りくたびれたジャケットのポケットに手を突っ込み、所在なげに天井を眺めていた。
「よぉ、頼。……随分と顔色が良くなったじゃないか」
いつもの、どこか他人事のような飄々とした声。だが、車に乗り込み、家の玄関をくぐった瞬間、その空気は一変した。
久遠さんはリビングのソファに深く腰を下ろすと、机の上にスマートフォンを放り出した。画面には、地図上を動く一点の赤い光が映っている。
「……種明かしをしておこう。お前の主治医……例の諮問医の先生から進言があってね。『一条君の最近の様子は、危ういものを感じる』と。だから、お前の私物にGPSをつけさせてもらった」
彼は眼鏡を外し、眉間を深く揉んだ。先ほどまでの軽薄な空気は霧散し、そこには「父親」としての峻烈な顔があった。
「なんで俺がここまでやるかわかるか?頼」
「俺はお前の父親代わりだと思っている。だから、これだけは真面目に言うぞ」
彼は僕の目を真っ直ぐに見据えた。
「ゆきが……あの子が動かなくなって、お前が苦しいのは分かっている。だが、あそこで首を吊って、お前までいなくなって、残された俺にどうしろと言うんだ。……次にこんな真似をしてみろ。その時は、お前を座敷牢にでも叩き込んで、一生外に出さないからな」
怒鳴るわけでも、泣くわけでもない。ただ、淡々とした、けれど逃げ場のない「親」としての重圧。
「……すみませんでした。でも、僕はもう、死にません」
おじさんは良い人だ。両親が亡くなって親戚もいない、身寄りもない僕を『息子』と迎えてくれた。
「信じるぞ。頼」
………。
(き、気まずい……)
何とも言えない空気が流れる。普段は説教をされないから、余計に罪悪感を感じる。
「ま、まぁ、無事でよかったぞ」
おじさんはそう微妙な空気を断つと、わざとらしく大きく伸びをして、先ほどまでの「父」の仮面を脱ぎ捨てた。
キッチンへ向かう彼の背中は、どこか小さく、そしてひどく疲れているように見えた。冷蔵庫を開ける冷気がリビングまで届き、麦茶を喉に流し込む音が静寂に響く。
「……主治医には、私からもう一度連絡を入れておく。あそこの病院のコーヒー、不味いんだよなぁ」
独り言のように零された軽口。それが、彼なりの「日常への回帰」の合図だった。
彼はカウンターに置かれた車のキーを手に取ると、こちらを見ずに続けた。
「俺は、ゆきの見舞いに行ってくる。お前の好きなアイスが冷蔵庫に入っているから、それ食べながら待っててくれ」
思わず口をついて出た言葉に、玄関へ向かおうとしていた彼の足が止まる。
振り返った久遠さんの瞳には、一瞬だけ、射抜くような鋭い光が戻っていた。
「僕も行くよ。おじさん」
「駄目だ。お前は、さっきまで死にかけてたことをわかってない。家で休め。」
有無を言わせぬ拒絶。
説教された分、反論できない。
「……わかった。留守番してるよ」
「そうしろ。……アイス、溶ける前に食えよ」
「それと、おじさん。ゆきは……」
(言うべきか?いや………)
「なんでもない……」
「そうか」
ひらひらと手を振り、彼は家を出ていった。
重厚な玄関のドアが閉まる音とともに、家の中には、僕一人になってしまった。
「はぁ……」
思わずため息をついてしまう。
「これからどうしようか……」
そう僕は、黄昏てしまうのであった。




