48. 使者の去りし後、夜の囁き
広間に重苦しい沈黙が落ちていた。
使者が去ったあとも、その余韻は石造りの壁にこびりつき、冷たい空気となって人々の胸を締めつけている。
「……国王陛下の勅命だと?」
低く洩れた騎士の声に、周囲の者たちが頷く。
「だが、なぜ今この時に。侯爵家を狙い撃つような……」
「裏で糸を引いているのはエルデンローゼ公爵家だろう」
抑えきれぬ囁きは、次第に広間の隅々まで波紋のように広がっていった。
公には口にできぬ真実を、皆が心のどこかで確信している。
「侯爵様に忠誠を誓う我らにとっては屈辱だ」
「だが、陛下の命とあっては逆らえぬ……」
その声の端々に滲むのは、憤りと同時に深い恐れだった。
勅命という名の重圧が、確実にこの館を覆い始めている。
廊下を歩いていたルシアの耳にも、その囁きが届いた。
――まさか……もう動き出しているの?
胸の奥に冷たい針が刺さるような感覚。
先の戦いで人ひとり命を落とし、多くの兵が傷ついたばかりだというのに、さらに大きな罠が仕掛けられようとしている。
ルシアは立ち止まり、胸に手を当てた。
息が浅くなる。
だが、これ以上弱い姿を見せるわけにはいかない。
彼女は顔を上げ、ゆっくりと歩みを再開した。
――
その夜。
館の中庭に、白銀の月が静かに降り注いでいた。
薄氷のような光が石畳を照らし、夜気は凍えるほどに澄んでいる。
ルシアはひとり、庭へと足を運んでいた。
胸に積もる不安を鎮めるには、夜の空気を吸い込むしかなかった。
だが、その背後から静かな足音が近づいてくる。
「……ルシア」
振り返れば、そこに立っていたのはレオンだった。
包帯に覆われた肩口と脇腹はまだ痛ましいはずなのに、彼の瞳は驚くほど澄んでいる。
月光に照らされ、彼の横顔は人の世を超えた美しさを帯びていた。
その瞬間、ルシアは息を呑んだ。
「こんな夜更けに……まだ安静にしていなければならないのに」
「ええ、そうすべきだと頭ではわかっています」
レオンは苦く笑いながらも、歩みを止めなかった。
「けれど、どうしても……あなたの姿を探してしまった」
胸の奥が熱を帯びる。
彼の言葉は、決して愛を告げるものではない。
それでも、長い一年以上の間、彼が黙って支えてくれた日々の重みが、その一言にすべて宿っていた。
「……本当に、無茶ばかりして」
ルシアは微笑もうとしたが、声が震えた。
「あなたが倒れてしまったら、私は……」
言葉がそこで途切れる。
頬に熱が広がり、視線を逸らした。
レオンもまた黙り込む。
月光だけが二人の間を満たし、時間が緩やかに流れていった。
気づけば、距離はほんの一歩分しか残されていない。
伸ばせば触れられるほどの近さ。
だが、二人は寸前で立ち止まった。
――越えてはいけない境界。
互いにそれを知りながら、どうしようもなく惹かれ合っている。
レオンの瞳が揺れる。
「ルシア……俺は――」
震える声に、ルシアはそっと首を横に振った。
「言わないで。……今は、それでいいの」
彼女の頬は赤く染まりながらも、その言葉には確かな温もりがあった。
レオンは唇を噛みしめ、けれど静かに頷いた。
二人はただ、月下で並び立ち、互いの存在の温もりを確かめ合う。
心が寄り添うだけで、こんなにも救われるのだと知った。
――
だが、館の壁の向こうでは、別の囁きが渦巻いていた。
騎士たちの間で囁かれる「勅命の真意」。
それはただの命令ではない。
エルデンローゼ公爵家が仕掛けた罠であり、侯爵家を揺さぶるための策略だと。
嵐の前の静けさは、夜の庭にだけ与えられた幻に過ぎない。
月光に照らされた二人の影を包むように、暗雲は着実に迫っていた。
――館を覆う不穏は、まだ始まったばかりだった。