表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

49/67

48. 使者の去りし後、夜の囁き

 広間に重苦しい沈黙が落ちていた。

使者が去ったあとも、その余韻は石造りの壁にこびりつき、冷たい空気となって人々の胸を締めつけている。


「……国王陛下の勅命だと?」

低く洩れた騎士の声に、周囲の者たちが頷く。

「だが、なぜ今この時に。侯爵家を狙い撃つような……」

「裏で糸を引いているのはエルデンローゼ公爵家だろう」


抑えきれぬ囁きは、次第に広間の隅々まで波紋のように広がっていった。

公には口にできぬ真実を、皆が心のどこかで確信している。

「侯爵様に忠誠を誓う我らにとっては屈辱だ」

「だが、陛下の命とあっては逆らえぬ……」


その声の端々に滲むのは、憤りと同時に深い恐れだった。

勅命という名の重圧が、確実にこの館を覆い始めている。


廊下を歩いていたルシアの耳にも、その囁きが届いた。

――まさか……もう動き出しているの?

胸の奥に冷たい針が刺さるような感覚。

先の戦いで人ひとり命を落とし、多くの兵が傷ついたばかりだというのに、さらに大きな罠が仕掛けられようとしている。


ルシアは立ち止まり、胸に手を当てた。

息が浅くなる。

だが、これ以上弱い姿を見せるわけにはいかない。

彼女は顔を上げ、ゆっくりと歩みを再開した。


――


その夜。

館の中庭に、白銀の月が静かに降り注いでいた。

薄氷のような光が石畳を照らし、夜気は凍えるほどに澄んでいる。


ルシアはひとり、庭へと足を運んでいた。

胸に積もる不安を鎮めるには、夜の空気を吸い込むしかなかった。

だが、その背後から静かな足音が近づいてくる。


「……ルシア」


振り返れば、そこに立っていたのはレオンだった。

包帯に覆われた肩口と脇腹はまだ痛ましいはずなのに、彼の瞳は驚くほど澄んでいる。

月光に照らされ、彼の横顔は人の世を超えた美しさを帯びていた。

その瞬間、ルシアは息を呑んだ。


「こんな夜更けに……まだ安静にしていなければならないのに」

「ええ、そうすべきだと頭ではわかっています」

レオンは苦く笑いながらも、歩みを止めなかった。

「けれど、どうしても……あなたの姿を探してしまった」


胸の奥が熱を帯びる。

彼の言葉は、決して愛を告げるものではない。

それでも、長い一年以上の間、彼が黙って支えてくれた日々の重みが、その一言にすべて宿っていた。


「……本当に、無茶ばかりして」

ルシアは微笑もうとしたが、声が震えた。

「あなたが倒れてしまったら、私は……」


言葉がそこで途切れる。

頬に熱が広がり、視線を逸らした。

レオンもまた黙り込む。

月光だけが二人の間を満たし、時間が緩やかに流れていった。


気づけば、距離はほんの一歩分しか残されていない。

伸ばせば触れられるほどの近さ。

だが、二人は寸前で立ち止まった。


――越えてはいけない境界。

互いにそれを知りながら、どうしようもなく惹かれ合っている。


レオンの瞳が揺れる。

「ルシア……俺は――」

震える声に、ルシアはそっと首を横に振った。

「言わないで。……今は、それでいいの」


彼女の頬は赤く染まりながらも、その言葉には確かな温もりがあった。

レオンは唇を噛みしめ、けれど静かに頷いた。


二人はただ、月下で並び立ち、互いの存在の温もりを確かめ合う。

心が寄り添うだけで、こんなにも救われるのだと知った。


――


だが、館の壁の向こうでは、別の囁きが渦巻いていた。

騎士たちの間で囁かれる「勅命の真意」。

それはただの命令ではない。

エルデンローゼ公爵家が仕掛けた罠であり、侯爵家を揺さぶるための策略だと。


嵐の前の静けさは、夜の庭にだけ与えられた幻に過ぎない。

月光に照らされた二人の影を包むように、暗雲は着実に迫っていた。


――館を覆う不穏は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ