47. 広がる疑念の波紋
夜明けの光が、血戦の痕跡も生々しい屋敷の屋根を赤く染め上げていた。まるで新たな流血を予感させるかのように。その下で、戦勝の安堵とはほど遠い重苦しい空気が、館の隅々にまで澱のように広がっていた。
捕虜が漏らした告白――この襲撃の裏に、レティシアと、彼女の実家であるエルデンローゼ公爵家がいるという囁き。それは消えるどころか、人々の不安を養分にして瞬く間に根を張り、疑念という名の蔓となって廊下の隅々にまで浸透していた。
歴戦の兵士たちは、互いに目を合わせても意味ありげに視線を逸らし、交わす言葉もひそやかになる。甲冑を整備する音さえ、どこか遠慮がちに響いた。侍女たちでさえ足音を忍ばせ、息をひそめて動いている。誰もが、見えない敵の存在に怯えていた。
「本当に……あのエルデンローゼ公爵家が裏で糸を引いていると?」
「まさか、レティシア様がそこまで非道なことを……。今はアレクシス様の子を身ごもっているとも噂されるのに」
「だからこそだろう。正統な嫡男であるエドワード様が、彼女にとって邪魔なのだ……」
囁きは毒のように広がり、止まらなかった。人の心とはかくも脆いものか。一度揺らいでしまえば、確かな証拠がなくとも疑心暗鬼は容易には拭えなかった。
そんな不穏な空気が満ちる中、ルシアは医師の手当てを受けるレオンの部屋を訪れていた。眠れぬ夜を過ごし、彼の容態が気になって居ても立ってもいられなかったのだ。
扉を開けると、消毒液の匂いが鼻をついた。上半身を露わにしたレオンがベッドに腰掛け、医師が黙々と傷の処置をしている。左肩から胸にかけて走る深い斬撃と、脇腹を抉った槍傷。新しい包帯が巻かれていくが、その端からは早くも赤が滲んでいた。彼の肌は汗で湿り、顔色は蝋のように青白い。だが、痛みに呻き声を上げることなく、ただ硬い表情で窓の外を見つめていた。
「……レオン」
声をかけると、彼はゆっくりと視線を向けた。その瞳の奥には隠しきれない疲労の色が浮かんでおり、ルシアの胸は締めつけられた。医師が処置を終えて部屋を出ていくと、レオンはすぐさま立ち上がろうとする。
「無理をしてはなりません」
思わず声が震えた。ルシアは駆け寄り、彼の逞しい腕を両手で押さえた。触れた肌は熱を帯び、彼の消耗が指先から伝わってくる。
「あなたが倒れてしまえば、一体誰がこの混乱を鎮めるのですか。皆、あなたがいるからこそ士気を保てているのです」
必死の言葉に、レオンは小さく息を吐き、視線を彼女に戻した。その瞳には一瞬、戦士の鋭さとは違う、柔らかな光が宿った。
「……お前がいるだろう」
冗談めかしたぶっきらぼうな言葉。しかし、それは鎧の隙間から漏れ出た本音のように、ルシアの胸を真っ直ぐに射抜いた。
(私は……そんな大役を担える人間ではない。それでも……)
彼の信頼に応えたい。重圧に押し潰されそうになりながらも、それ以上に、頼りにされたことが嬉しかった。
「私は、ただ……あなたの傍で、出来ることをしたいだけです」
それは、彼女の精一杯の告白だった。夫を裏切りに失い、心を閉ざした彼女にとって、再び誰かを支えようとする勇気そのものだった。
短い沈黙が二人を包む。窓から差し込む朝の光が、レオンの横顔に陰影を落としていた。強靭な戦士の顔でありながら、そこに脆さと孤独が透けて見える。兄の影を背負い、家を守り続ける者の姿だった。
「……助かっている」
ぽつりと落とされたその言葉は、何よりも雄弁だった。鎧のように固い心から零れ落ちた一片の真実。それは、ルシアの胸を温かく満たした。
その時、二人の間の穏やかな空気を裂くように、慌ただしい蹄の音が中庭に響き渡った。敵襲かと緊張が走り、レオンの表情が瞬時に騎士のものへと戻る。間もなく、一人の兵士が息を切らして駆け込んできた。
「レオン様――! 都より、国王陛下の使者が到着いたしました!」
部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。都からの使者。それは救援の手であると同時に、断罪の刃である可能性も秘めている。
レオンは痛みに顔を歪めながらも、迷いなく立ち上がろうとした。ルシアは慌てて肩を支える。
「傷が開きます! どうか無理をなさらないで……!」
「……構わん。国王陛下の使者を、ここで臥せって迎えるわけにはいかぬ」
廊下を進む足取りは重いが、その背筋は真っ直ぐだった。ルシアも歩みを合わせる。触れるか触れないかの距離で腕を支えながら。今この瞬間、守られるだけでなく、彼を支えているという事実が、彼女に小さな勇気を与えた。
広間には、緊張に満ちた顔の騎士たちが両脇に並んでいた。その中央を、外套を翻して進み出たのは都から派遣された使者。絹の衣装を纏い、その冷たい眼差しは、まるで罪人を検分するかのように館を見渡した。
「国王陛下の勅命を伝える。リューンハイム侯爵家は直ちに頭を垂れ、謹んでこれを拝せよ!」
その高らかな声が響いた瞬間、広間にざわめきが走る。
(やはり……次の一手が仕掛けられるのね)
ルシアは胸の奥で息を詰めた。捕虜の口から囁かれたレティシアの名、そしてこの絶妙なタイミングで訪れた使者。すべてが一本の糸で繋がっている。
(襲撃で血を流させ、そのうえで勅命を下す……。これほどの仕打ちをしてなお、さらに次を仕掛けようというの……?)
隣で、エドワードが不安げに母の袖を握りしめた。幼い手は冷たく震えている。ルシアはその手を力強く握り返し、目を伏せた。母がここにいる、と伝えるために。
その横顔を、レオンは無言で見つめていた。互いに言葉は交わさない。だがその沈黙の中に、互いを支え合う確かな絆があった。
――館を満たすのは、内なる疑念と拭いきれぬ不安。そして外から迫る、王権という名の新たな圧力。嵐の予兆は、すでに誰の目にも明らかだった。




