表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

47/67

46. 揺らぐ信頼の影

捕虜の口から洩れた名――「レティシア」。

 その音は、広間に漂っていた余韻を一瞬で切り裂き、場の空気を凍りつかせた。


誰もが耳を疑い、唇を閉ざした。騎士達は顔を見合わせ、低いざわめきが波紋のように広がっていく。

「レティシア様……だと?」「なぜそんな名が……」

 小声のやり取りはすぐに大きな疑念となり、侯爵家の石造りの壁に不気味な反響を生んだ。


 ルシアの胸は荒く波打っていた。背筋に氷を流し込まれたような感覚。

(レティシア……あなたが……? それとも誰かが名を騙っているの……? それともアレクシスも絡んでいる……?)

 一度は愛した夫の名を、こんな形で耳にするとは。まさかここまでするとは思えない。いや、思いたくないのだ。心臓の鼓動が耳の奥で轟音を立て、視界さえ揺らす。

(エドワードはあなたの血を引いた子供なのよ……それなのに?)

 信じられない気持ちがぐるぐると頭を巡った。


「……地下牢に送れ」

 レオンの声は刃のように冷たく、広間のざわめきを一瞬で黙らせた。

 騎士達が捕虜を押し立てる。縄で縛られた男たちの目には、恐怖と絶望と、言葉にできない後悔が入り混じっていた。

 一人が必死に喚く。

「違う! 俺はただの駒なんだ! 名を口にしただけで――」

 だが騎士の怒声にかき消され、床に引きずられていった。


 残された静寂の中、ルシアはエドワードを抱き寄せた。幼い息子の身体は震えていたが、彼は母を守るようにその手を強く握り返してくる。

「お母様……」

 その小さな声に、ルシアの胸はさらに締めつけられた。

(この子にまで、疑念の影を背負わせるわけにはいかない……)


 レオンは深く息を吸い、血の滲む傷を抑えた手をゆっくり下ろす。

(たとえ真実がどうであろうと、今は揺らいではならない。家を守るためには、まず事実を見極めるのだ)

 その瞳は鋼のように固く、痛みを押し殺しながらも指揮官としての威厳を崩さなかった。


 捕虜たちが連れ去られた後、残された騎士たちも言葉を失っていた。

「……本当に、あのお方が?」

「いや、考えられん……だが……」

 誰も断言できない。疑念は炎のように広がり、騎士の心をも蝕み始めていた。


 ルシアはその視線の揺らぎを痛感した。味方であるはずの騎士達の心に、微かな疑いが芽生えている。侯爵家を支えてきた信頼が、音を立てて崩れ始めているのを感じた。

(もしこれが敵の狙いだとしたら……名を囁かせるだけで、私たちの家を分断できる……)

 彼女は唇を噛み、背筋を正した。恐怖に飲み込まれるわけにはいかない。


 そんな状況の中、ルシアはレオンに近寄った。

「レオン、傷の手当をしましょう。このまま見ていられないわ」

「叔父上、僕も一緒に支えます」エドワードも駆け寄り、左側から身体を支えた。

「ルシア、エドワード……ありがとう」

 レオンは小さく笑みを浮かべ、二人の想いを受け止めた。

「あなたがいてくれたから。私達の居場所は保たれているわ」

 ルシアはそう言いながら、彼をしっかりと支えた。


 医師が呼ばれ、客間に運ばれたレオンの傷は応急の手当てを受けた。負傷した騎士達も同じく治療を受け、回復するまでこの別荘に留まることになった。


「レオン、少し横になっていて。今、温かい物を持ってくるわ。ずっと眠っていないのでしょう」

 ルシアは気遣うように言い、部屋を出ていった。


 その時、少年の声が静けさを破った。

「叔父上。僕も……知りたい」

 エドワードがまっすぐレオンを見上げていた。まだ幼さを残す瞳の奥に、確かな決意が燃えている。

「本当に、レティシア様が僕たちを……裏切ったのかどうか」


 レオンはわずかに眉を動かしたが、すぐに真剣な面持ちでうなずいた。

「……必ず確かめる。真実を明らかにするのが、我らの責務だ」

 その言葉に、部屋にいた騎士達や侍女達の動揺はわずかに収まった。だが消えはしない。疑念の影は、すでに館の奥深くへ入り込んでしまっていた。


「レオン、スープと柔らかいパンを持ってきたわ」

 戻ってきたルシアが、温かな食事を机に置いた。

「少しでも食べて」

「ありがとう、ルシア」

 レオンは受け取り、口にした。その様子をエドワードはじっと見つめていた。


 本来であれば父と母がここにいたはずだ。だが今は、叔父が父のように傍らにいる。幼い心はその温もりを求めながらも、複雑な影を落としていた。


 ルシアはエドワードの肩を抱き、祈るように目を閉じた。

「エドワード、大丈夫?」

 小さくうなずく息子の横顔は、あまりにも幼く、あまりにも強がって見えた。

(あんな酷い状況を見てしまったのだもの……。大丈夫なわけないわ。それに……お願い、どうか間違いであって……。あの人が、私たちを……殺そうとしているなんて……)


 胸に渦巻く不安は、夜明けの光では払えない闇のように広がっていった。


 ――この日、侯爵家の中に「疑い」という見えない毒が流れ込んだ。

 そしてそれは、やがて誰も予想しなかった結末へとつながっていくことになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ