46. 揺らぐ信頼の影
捕虜の口から洩れた名――「レティシア」。
その音は、広間に漂っていた余韻を一瞬で切り裂き、場の空気を凍りつかせた。
誰もが耳を疑い、唇を閉ざした。騎士達は顔を見合わせ、低いざわめきが波紋のように広がっていく。
「レティシア様……だと?」「なぜそんな名が……」
小声のやり取りはすぐに大きな疑念となり、侯爵家の石造りの壁に不気味な反響を生んだ。
ルシアの胸は荒く波打っていた。背筋に氷を流し込まれたような感覚。
(レティシア……あなたが……? それとも誰かが名を騙っているの……? それともアレクシスも絡んでいる……?)
一度は愛した夫の名を、こんな形で耳にするとは。まさかここまでするとは思えない。いや、思いたくないのだ。心臓の鼓動が耳の奥で轟音を立て、視界さえ揺らす。
(エドワードはあなたの血を引いた子供なのよ……それなのに?)
信じられない気持ちがぐるぐると頭を巡った。
「……地下牢に送れ」
レオンの声は刃のように冷たく、広間のざわめきを一瞬で黙らせた。
騎士達が捕虜を押し立てる。縄で縛られた男たちの目には、恐怖と絶望と、言葉にできない後悔が入り混じっていた。
一人が必死に喚く。
「違う! 俺はただの駒なんだ! 名を口にしただけで――」
だが騎士の怒声にかき消され、床に引きずられていった。
残された静寂の中、ルシアはエドワードを抱き寄せた。幼い息子の身体は震えていたが、彼は母を守るようにその手を強く握り返してくる。
「お母様……」
その小さな声に、ルシアの胸はさらに締めつけられた。
(この子にまで、疑念の影を背負わせるわけにはいかない……)
レオンは深く息を吸い、血の滲む傷を抑えた手をゆっくり下ろす。
(たとえ真実がどうであろうと、今は揺らいではならない。家を守るためには、まず事実を見極めるのだ)
その瞳は鋼のように固く、痛みを押し殺しながらも指揮官としての威厳を崩さなかった。
捕虜たちが連れ去られた後、残された騎士たちも言葉を失っていた。
「……本当に、あのお方が?」
「いや、考えられん……だが……」
誰も断言できない。疑念は炎のように広がり、騎士の心をも蝕み始めていた。
ルシアはその視線の揺らぎを痛感した。味方であるはずの騎士達の心に、微かな疑いが芽生えている。侯爵家を支えてきた信頼が、音を立てて崩れ始めているのを感じた。
(もしこれが敵の狙いだとしたら……名を囁かせるだけで、私たちの家を分断できる……)
彼女は唇を噛み、背筋を正した。恐怖に飲み込まれるわけにはいかない。
そんな状況の中、ルシアはレオンに近寄った。
「レオン、傷の手当をしましょう。このまま見ていられないわ」
「叔父上、僕も一緒に支えます」エドワードも駆け寄り、左側から身体を支えた。
「ルシア、エドワード……ありがとう」
レオンは小さく笑みを浮かべ、二人の想いを受け止めた。
「あなたがいてくれたから。私達の居場所は保たれているわ」
ルシアはそう言いながら、彼をしっかりと支えた。
医師が呼ばれ、客間に運ばれたレオンの傷は応急の手当てを受けた。負傷した騎士達も同じく治療を受け、回復するまでこの別荘に留まることになった。
「レオン、少し横になっていて。今、温かい物を持ってくるわ。ずっと眠っていないのでしょう」
ルシアは気遣うように言い、部屋を出ていった。
その時、少年の声が静けさを破った。
「叔父上。僕も……知りたい」
エドワードがまっすぐレオンを見上げていた。まだ幼さを残す瞳の奥に、確かな決意が燃えている。
「本当に、レティシア様が僕たちを……裏切ったのかどうか」
レオンはわずかに眉を動かしたが、すぐに真剣な面持ちでうなずいた。
「……必ず確かめる。真実を明らかにするのが、我らの責務だ」
その言葉に、部屋にいた騎士達や侍女達の動揺はわずかに収まった。だが消えはしない。疑念の影は、すでに館の奥深くへ入り込んでしまっていた。
「レオン、スープと柔らかいパンを持ってきたわ」
戻ってきたルシアが、温かな食事を机に置いた。
「少しでも食べて」
「ありがとう、ルシア」
レオンは受け取り、口にした。その様子をエドワードはじっと見つめていた。
本来であれば父と母がここにいたはずだ。だが今は、叔父が父のように傍らにいる。幼い心はその温もりを求めながらも、複雑な影を落としていた。
ルシアはエドワードの肩を抱き、祈るように目を閉じた。
「エドワード、大丈夫?」
小さくうなずく息子の横顔は、あまりにも幼く、あまりにも強がって見えた。
(あんな酷い状況を見てしまったのだもの……。大丈夫なわけないわ。それに……お願い、どうか間違いであって……。あの人が、私たちを……殺そうとしているなんて……)
胸に渦巻く不安は、夜明けの光では払えない闇のように広がっていった。
――この日、侯爵家の中に「疑い」という見えない毒が流れ込んだ。
そしてそれは、やがて誰も予想しなかった結末へとつながっていくことになる。