2、別れ
気付いたのは、木の実を食べている時だった。
食べたことのある実なのに、食べた時のことが思い出せない。
慌てて、どうやってこの島に来たのかを思い出そうとしても、浮かぶのは崩れる空船だけ。
そして私は、自分が記憶を失っていることを、実感した。
自分が自分じゃないような気がして、怖かった。
船が崩れる前の私を、今の私が塗り潰しているようで、辛かった。
お腹の底が、常に寒かった。
でも、エルギオの存在が。
何も知らなくて辛いはずなのに、頑張ってそれに打ち勝とうとしている彼が、私にそれを許さなかった。
私に、彼を不安にさせてはいけないと思わせた。
「…ごめん、余計不安にさせちゃったかも」
彼から目を逸らす。
何やってんだ私。
目覚めたばかりで、自分が記憶喪失かどうかも分からない彼の方が、私よりよっぽど酷いのに。
彼が頼れるのは、私だけなのに。
「…メ、メルリ…」
遠慮がちに呼ばれて、少し迷ってから、彼の方へ向く。
エルギオは、少し躊躇ってから、意を決したように話し出した。
「えっと…メルリも記憶喪失なら、僕たちは…えっと…同じなんだよ」
詰まりながらも、彼は必死に言葉を探す。
「だから、その…」
「…ありがとう」
素直にお礼を言って、微笑む。
まったく、頼られる立場なのに、慰められてどうするんだ。
ほんと、何やってんだ私。
「ふふ。そうだね、私たち同じだね」
「あはは…」
どちらからともなく、笑い声が漏れる。
心の底の不安は消えない。
でもなぜだか、お腹の底の寒さは、和らいでいた。
———
月が東の空から登りだし、夜が来たことを告げていた。
エルギオは、なんとなく分かっていたことだったけど、この世界の常識すら覚えていなかった。
だから私は、思い出せる限り、この世界のことを教えた。
ーーー
この世界が、大小様々な島で構成されていること。
島と島の間には、落ちたら二度と戻れない奈落が広がっていること。
人々は、空船を使って島々を行き来していること。
そして最後に、古き賢者がつけた、この世界の名前。
名前も知らないその人はこの世界をこう呼んだ。
『空の楽園』と。
ーーー
「夜は寝る時間なんだよ」
「あんまり、眠くないんだけど」
「そりゃあ、エルギオはねー」
我ながら、よく少ししか一緒にいなかった相手と仲良くなれたものだ。
雑談をしながら、地面に寝っ転がる。ちょっと汚いけど、今はしょうがない。
エルギオも真似して、私の隣に転がる。
目を瞑ると、こんな状況なのに、意識はすぐに落ちた。
『 オキタ。 オキタ。
メザメタ。 メザメタ。
アア、ホシイ。 アア、ホシイ。 』
「……?」
変な夢を見た気がして、目を覚ます。
そして、隣で寝ていたはずのエルギオが、うなされているのに気付いた。
「あっああ…って……」
「…エルギオ?大丈夫?」
何か悪い夢でも見てるのか。
彼はうなされながら、何かを呟いていた。
「…って、っげて…」
「何?なんて言ってるの?」
怖くなって彼をゆする。何か、ほったらかしではダメな気がした。
その途端、エルギオは寝言とは思えないくらい大きな声で、叫んだ。
「…って!逃げて!にげて!」
「きゃっ!」
同時に、地面が大きく揺れて転ぶ。
その拍子に目を覚ました彼に、近寄ろうとして。
気付く。
気付いてしまう。
何か、大きなものに見られている。
腹の底から握りつぶされたような緊張が、頭の上まで走る。
目を開けたエルギオが、吸い込まれるようにある一点を見た。
私も、彼の視線の先を見上げる。
「———」
巨大な、二つの目。
大人の身長くらいある大きな目が、私達を、エルギオを見下ろしていた。
「……あ」
現実離れした光景のはずなのに、口から声が漏れて、頭の何処かがカチリとハマる。
私の記憶は思ったより頑丈なようで、忘れていたことなのに、見たせいで思い出してしまった。
「さい…りゅう……」
口にしたのに、現実味がない。
口にした言葉を、現実だと思いたくない。
全身が跳ねた。
それに身を任せて、エルギオの手を引く。
私は、そのままその場から逃げ出した。
災竜。
人々が唯一畏れる怪物。
突如現れては、巨大な身体と圧倒的な力で、国や島を襲っては何処かに消える。
世界に何体もいるのに、未だ一体も倒されたことがない。
対抗手段なんて無くて、出来ることと言えば、目と耳を塞いで何処かへいくのを祈るだけ。
文字通りの災害。
敵意を向けられた時点で、生き残ることなどできない。
がむしゃらに走る。
先のことなんて考えてない。
今はただ、少しでも遠くに逃げたい。
心臓が跳ねる。
脚がもつれる。
息が上手くできない。
あの目を見た時点で気絶しなかったのは、運が良かった。
いや、その時点で気絶できなかったのは悪運だ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、まとまらない。
どうしよう。どうしよう。
上手く考えられないうちに、島の縁にまで来てしまった。
もう逃げられない。
「…メルリ」
その時、起きてから静かだったエルギオが、初めて声を出した。
彼へ振り返るのと、彼が見つめている先の森が左右に割れたのは同時だった。
木々の間から、明らかな敵意を孕んだ両目が現れる。
そして、巨大な口を開けて吠えた。
『ーーーーー!!』
音が消える。
脚が、お腹が、痺れていく。
腕が、胸が、心臓がぶるぶると揺さぶられる。
顔が、頭が、脳がうまく動かなくなる。
たった一吠えで、耳を両手で叩かれたみたいに、視界が遠のく。
「——あ」
脚が震えて、立てなくなって座り込む。
ダメだ。
死ぬ。
死んでしまう。
身体中に、黒い恐怖が走る。
動けぬ世界の中、私はそれでもエルギオへ手を伸ばした。
せめて、彼だけでも。
このままでは二人とも死ぬ。
私はいい。
記憶を失って、元々死んだも同然だから。
でも彼は、まだ目覚めたばかりなんだ。
ここで死んでいいはずがないんだ。
「…メルリ」
口を閉じた災竜と睨み合ったまま、彼が呟いた。
落ち着いた声。
「見たせい——僕——思い出—た」
消えそうになる意識の中で、必死に視界を繋ぎ止める。
意識を保つのに精一杯で、彼が何を言っているのかわからない。
「そ—で分かった—今や—べきこ—を—僕が—でき——とを」
彼がこっちへ振り向いた。
そして、ひどくハッキリと聞こえる声で言った。
「…ありがとう。僕を、起こしてくれて」
そういって、微笑んだ。
その笑顔は、安らかで、それでいて悲しそうで。
「——エ—」
口から漏れた声を最後に、私の意識は飛んだ。
—————
後で聞いた話になる。
あの後私は、ネイケシア島という所の浜に流れ着いていた。
傷だらけではあったが、命に別状はなかった。
空船事故に居合わせた147人の中で、唯一の生還者だった。
記憶を無くす前の家族も、友人も、みんな死んだと聞かされた。
もう思い出せなくても、胸は締め付けられた。
ネイケシア島の人達は、私のことを快く受け入れてくれた。
そして、私の過去のことを聞かないでくれた。
だから私も、エルギオのことは誰にも言わなかった。
そうして私は、ネイケシア島で暮らすことになった。
今でも私は、何処かの島であった彼のことを、こうして思い出している。
私が覚えている中で、一番古い記憶。
もう、10年以上前のことだ。
序章、完