薔薇園の兄妹
「……泣いてたみたいだけど、追いかけなくていいの? 色男」
少女と入れ違いに中庭に入ってきたメイド姿の娘がそう庭師に話しかけた。手に摘み草の籠を持っている。ハーブ園があるのは別の中庭だから、からかうためにだけわざわざ出てきたのだろう。
「追いかけてどうしろと? それに『色男』っていうのはどういう当てこすりだ?」
「あてこすってなんかいないわよ。涙ながらに言い寄ってくる女を次から次へと袖にするのは、色男の特権でしょうが」
どこでそういうくだらない戯言を仕入れてくるんだ、と庭師があきれ顔で溜め息をつく。……やっぱり恋愛小説か。そんなものをこの邸に持ち込んだのは誰だ。
「お嬢様は涙ながらに言い寄ってきたりはしないし、『次から次へと』というほど大勢の女はこの屋敷にはいないぞ」
「でもここ二三日、お嬢様がひまをみては探し回ってたのは事実よ。どうしちゃったの? 急に」
庭師が肩を竦める。
「お嬢様ももう十五だからな。虫よけの必要を感じられたんだろうさ。それに、良家の令嬢はあまり陽に当たるものではないんだそうだ」
「……誰がそんなこと言ったの? 旦那様? それとも奥様?」
「俺が聞いたのは旦那様からだが、奥様のご意見だろうな。あの方は生粋の都育ちだそうだから、都ではこうだった、って言えば旦那様は言う通りになさるだろう」
この邸の主は、五年前後添いに迎えた若い妻を溺愛していて、うちの中の事は彼女のいうがままになっている。さすがに都育ちに領地経営は任せられないと、家産の管理は自ら行っているが。
とはいえ、後添いが入ってから、古参の奉公人たちが働き難さのあまりずいぶん辞めてしまった。殊に、先妻の忘れ形見である令嬢の周りには、三年以上前からいるものは一人もいない。
「そこまで解ってて言いなりになるなんて、らしくないわねー。それともお嬢様の相手をするのが嫌になってきたとか?」
「……口うるさい妹の相手をするよりはましだと思ってるが?」
「ひっどぉーい。たった二人の兄妹なのに。あんまりだわ」
メイド服の娘が頬を膨らませる。
「何人兄弟だろうとお前が口うるさいのは変わらんだろうが。俺をからかう以外の用事がないなら……」
庭師がその場を立ち去ろうとすると、その背中に声がかけられた。
「お嬢様に縁談が来てるの」
「……ずいぶん早いな。お披露目もまだなのに」
立ち去ろうとした足を止めて、庭師がつぶやく。
支配者階級の婚約が早いのは、珍しい事ではない。中には生まれながらに相手が定められている者さえいる。
とはいえ、それは一握りの者たちの話で、普通は本人が社交界へデビューしてから話が進められるのが一般的だ。
そして件の令嬢のデビューは次の次のシーズン、一年半以上先の予定だ。
「……まあ、今のところは、申し入れがあった、と言うだけで、今すぐどうこうってわけじゃないみたいだけど。…………ただね、旦那様、ちょっとこの縁談を無下に断れないみたいなのよねー」
「というと……あれか」
この邸の主は、とある商人に債務を負っている。
六年前、林檎酒の醸造設備を拡大する際、新しい機器を購入するための資金をその商人に援助してもらったためだ。その代価は、向こう十年間の、王都での林檎酒の独占販売権と、そこから上がる利益で賄う事になっている。
しかし、昨年の稀に見る不作のせいで、十分な量の林檎酒ができず、支払いが滞ってしまったのだ。
「だが、支払いの猶予と、お嬢様の身の振り方とは、別問題だろう?」
「まあ、冷静に考えればそうなんだけどね。負い目があると、強くは出られないでしょ」
メイドが肩を竦める。
「でもまあ、少なくとも坊ちゃまが読み書きできるようにならないうちは、お嬢様を手放したりはなさらないだろうけどね」
跡取り息子が生まれるのと前後して目を患った主は、その後帳簿の管理や手紙などの代筆を娘に頼っている。妻が文字の読み書きや計算を不得手としているためだ。執事も一通り文字の読み書きはできるのだが、記録文書の代筆は自分の責ではない、と拒んでいる。あるいは、彼なりに後添いの教育方針に対する抗議をしているのかもしれないが。
「……だといいがな」
件の執事がこぼすところによれば、主は昨年の林檎酒をめぐる一連の争い事以来、領地経営に対する情熱を失いつつあるらしい。
今の所は新しく何かを始めようとする意欲に欠けているだけのようだが、領民の訴えに対する対策をなおざりにするようになったり、家産の管理を妻に任せたりするようになってしまったら、この家は急速に傾くだろう。
何しろ、件の妻といえば、林檎酒にする果汁が足りないと聞いて、水を足せばいい、などという女なのだから。
「ところで、何でお前がそんな事を知ってる?」
「問題のお客様を旦那様のところに案内したのがあたしだからよ。特に人払いもしなかったし」
「……他聞を憚らない申し入れなのか、使用人は家具同然だと思っているのか……どっちだろうな?」
「両方でしょ。……で、どうするの?」
「………………どう、って?」
「真顔で聞かれると困るわね。……強いて言えば、『誰の味方に立つか』かな。お嬢様か、奥様か」
「……あるいは、坊ちゃまを鍛える、か」
庭師がむっつりした顔でそう付け加える。
メイドがまじまじと兄の顔を見つめ返し、口元に手を当て、半歩引きながらからかい口調で言った。
「……ヤダ。そういう趣味があったの?…………知らなかったわ」
「何の話をしている!?」
「そりゃ、坊ちゃまはあの奥様の息子だから、将来は期待できるけど……あの生意気さはあたしとしてはナシだったんだけど。……そうか、『調教』って言うのはアリか」
「……だから、何の話をっ」
庭師がものすごい形相になる。
「……冗談よぉ。他愛のない。……でもまあ、正論ではあるのよね。あの坊ちゃまには、石にかじりついてでも立派な主になっていただかないとね」
自分たちの享受している富が、領民たちの労働が生み出す財貨に依存している、という事をしっかり認識しておらず、ただ威張るだけの主なぞは、ただの重荷でしかない。
それでも、使用人の立場なら、主を見限る事もできる。多少の痛手は被るだろうが。
だが、領民の立場では、それは難しい。
洩れ聞こえてくるところによれば、、都生まれ都育ちの主たちの中には、領地の事も良く知らず、領民に無理を強いるものも多いそうだ。むちゃな要求を強いたあまり、領民たちが破れかぶれの暴動を起こし、血祭りにあげられてしまった者もいると聞く。
「……まあ、『立派な』とまでは言わんが……領民たちに背かれるような主にだけはなってほしくないものだな」
「ずいぶん要求水準を下げたものねぇ。そのうち『天寿を全うできればいい』とか言い出しそう」
「……跡継ぎを残す事、が前提だけどな。天寿が十年だの十六年だのではいかにも早すぎる」
「…………十六年、て?」
十年、はつい先だって亡くなったという王子のことだろう。国中が喪に服しているおかげでここの令嬢のデビューが一年延びたのだ。
「お前は覚えてないか? 先の奥様の遠縁にあたられる伯爵家の息子。奥様が亡くなられるまで、よく顔を出していたんだが」
「んー……うっすら記憶にあるような……ないような……その方が若くして亡くなった、と?」
「家を継いで間もなく、な。幼馴染の令嬢と婚約が調ったばかりだったらしい」
「ふーん……ってなんでそんなこと知ってるの」
「薔薇の苗を貰いに行ったときに耳にした。あそこの薔薇園が万一潰されるようなことがあれば全部引き取る、という約束も取り付けてきた」
「全部、って……そんな権限あった?」
「庭のことに関しては旦那様から一任されている。……奥様から何か要求があっても、理不尽ならば撥ねつけても良い、と」
「ふ、ふーん」
それは、庭のことに関してはやりたい放題、ってことじゃないのか?
「奥様の言う事を聞いていたら造園工事で家が破産する。あの方は都育ちの上もの知らずだからな
」
庭師の後妻に対する評価は限りなく低い。