第1話 壁に埋まった騎士団長
「これはいったい……」
「おっ、その声はブライトン事務官か! いいところに来た。いやー、ちいとばかり困ってたんだよ」
「……はあ」
私の目の前で激しく存在を主張する物体は、まごうかたなき成人男性の臀部である。
正確に状況を説明するなら、成人男性の下半身が壁から突き出している状態だ。つまり壁尻とでも言えばいいだろうか。
いったいなにがどうしてこうなったと小一時間問い詰めたいところだけど、最大にして最悪の問題はこの臀部の持ち主が私の上司である第一騎士団団長、アシュレイド・クロイツだということだろう。
アシュレイド・クロイツ。
四年前、二十九歳の若さで第一騎士団団長に就任した彼は、王国の盾と称される第一騎士団の頂点に立つにふさわしい剣技を誇る人物である。
かくいう私も学生時代に初めて彼の剣を目にして以来、その姿に憧れ続けてきたひとりだ。
その憧れの人の尻が、私の目の前にある。
うららかな午後の日差しに包まれたご立派な臀部を前に、私は遠い目をしながらため息をついた。
「――それで、いったいどうしてこんなことになっているのでしょう」
「ブライトン事務官にはわからんと思うが、そこに穴があったら入れてみたいと思うのは男の悲しい性なんだ」
「時間の無駄なので端的にお願いします」
「……ちょっとした出来心でした。本当にすみません」
曰く、執務室の壁に穴が開いているのを見つけた。騎士団長である自分の執務室の壁に穴など、自然に開くわけがない。そこでどうして人を呼ばないんだと小一時間(省略)……、とにかく好奇心旺盛な彼は、誰かが来る前に調べる必要があると考えたらしい。
「身体を入れるのはスムーズだったんだ。だが、入った途端に穴がきゅっと締まっちまってよ。どうにも身動きが取れん」
「単純に壁の向こうから身体を引けば、問題は解決するのではないでしょうか」
「それが、どうやらこの穴は別の場所につながっているようなんだ」
「は?」
「つまり今、俺から見えているのは、どう考えても隣の部屋じゃあねえってことだな」
「……少々お待ちください」
団長の言葉を疑うわけではないが、念のため隣の備品室に向かう。
壁に並んだ棚に備品が乱雑に積まれた室内は、人の気配もなくしんと静まりかえっている。私は本来なら団長の上半身があるはずの壁に近づき、慎重に叩いてみた。
「……団長?」
石造りの壁には穴どころかヒビひとつ見当たらない。返ってくるのは硬い感触だけだ。
(……たしかに、ここに団長はいないようね)
私は首を捻りながら再び団長室へと戻った。
「クロイツ団長のおっしゃるとおり、備品室に異常はありませんでした。団長からはいったいなにが見えているんでしょう」
「見えるっつうか、暗闇だな」
「つまり、手掛かりになりそうなものはないということですか」
「残念ながら、そのようだな」
「定例会議が半刻後から始まりますが、ご参加は……」
「あー……このままだと難しいだろうなあ」
壁の向こうから聞こえるのは、ため息交じりの声だ。もし顔が見えたなら、普段の人をおちょくったようなニヒルな笑みは鳴りを潜め、太い眉尻を下げた情けない顔をしているに違いない。
目下の問題は、半刻後に国防会議が控えていることだろう。団長がいなければ会議そのものが成立しないうえに、出席者は軍務卿をはじめとする錚々たる顔ぶれ。明日から遠征がある関係で、日程の変更も不可能だ。
「とにかく、この状況をなんとかしないといけませんね。オブライエン補佐官を呼んできますので、少々力業になりますが引っ張ってもらい──」
「ま、待て、それはまずい!」
壁の向こうから聞こえる焦った声に、私は歩き出そうとしていた足を止めた。
「はい? なぜですか?」
「いやその、さすがにオブライエンに見られるのはまずい。あいつにこんな姿を見られたら、あとでなにを言われるかわからねえ。だから大事になる前になんとかしたい」
「はあ」
オブライエン補佐官は口も堅く、わざわざ言いふらすような人物ではない。けれど、壁から下半身だけを出した姿を見られたくない団長の気持ちも、わからなくはない。
普段は下ネタばかりで飄々としているけれど、この男は仮にも我が国の騎士団長であり、公爵家の子息というご立派な身分もお持ちだ。万が一にもこんな姿が広まれば、面目は丸つぶれだろう。
私は大きくため息をついた。
「しかたありませんね。では、まずは私にできる範囲でなんとかできないか試してみましょう」
「おおお! 恩に着る!」
私は壁から生えた尻……団長の下半身の前に立ち、彼の腰のベルトに手をかけた。
ところで私と団長ではかなり体格差がある。
身長は二メートル近くあり、どこもかしこもぶ厚い筋肉で覆われた団長に対し、私はどちらかというと小柄な体格だ。
そもそも私は騎士団付きの文官だ。女性騎士と違い鍛え上げた筋肉などあろうはずもない。
そんな私が団長の腰を引っぱるとどうなるのか。
「では、いきます」
「おう!」
ベルトを両手でしっかりと掴み、両足を踏みしめ渾身の力を込める。けれど、団長の身体はびくともしない。
もう一度、今度は身体を後ろに倒すようにして引いてみる。だが結果は同じだ。むしろ私の腕のほうが先に悲鳴を上げそうだ。
「これは……無理ですね」
「む……」
私は微動だにしない団長の腰から手をはなすと、額に浮いた汗を拭った。
目の前にあるご立派な臀部は筋肉質なぶんとても肉厚であり、たとえるならちょっとした酒樽ほどの大きさはある。
そんな酒樽を、果たして非力な私が引き抜けるだろうか。
答えは否。どう考えても焼け石に水だ。
「私が引っ張ってもあまり意味がないように思います。やはり応援を呼ぶべきではないでしょうか」
「いやそんなことはない! たしかに今、動く気配がしたんだ。だから諦めずにひと思いにやってくれ。この際、服が破れてもいい。頼む!」
「はあ……ではもう一度やってみますが、あまり期待しないでください」
それではと先ほどはベルトを掴んでいたのを、今度は両腕を尻……腰に抱きつくようにして回そうとしたところで、私ははたと我に返った。
私ことマーガレット・ブライトンは、これでもれっきとした貴族の令嬢である。
いくら我がブライトン家が貧乏で有名な男爵家だとしても、騎士団のお局と呼ばれて久しい二十四歳だとしても、私は未婚の令嬢なのだ。
そんな私が成人男性の腰、もとい尻に抱きつくという行為は、客観的に考えれば醜聞になるのではないだろうか。
(……もし部屋に入ってきたのがまだ若い令嬢だったとしたら、団長はこんなことを頼んだかしら)
ふと浮かんだ疑問に、私は心の中で首を横に振る。
普段どれだけふざけた態度だとしても、騎士であり騎士団長である彼の女性に対するマナーは完璧だ。
そこから導きだされる答えは一つ。
(つまり、女扱いされてないってこと……か)
「……団長、提案があります」




