東京ドームシティ
上野の地下道に充満していた饐えた臭いと、子供たちの虚ろな視線が、こびり付いて離れない。
サオリは逃げるように本郷の急な坂を登りきった。ハナは黙ったまま、軍用背嚢の紐を強く握りしめている。
辿り着いたのは、戦火を免れた古い土蔵の裏手だった。周囲には人影もなく、ただ初夏の訪れを告げるような、濃い緑の匂いだけが漂っている。
「……誰かいるの?」
サオリの問いに答えるように、土蔵の影からガサリと音がした。現れたのは、煤けた国民服を着た二人の男だった。眼光だけが異常に鋭い。工藤が「本郷に置いてある」と言ったのは、トラックだけではなく、それを死守し続けてきた彼の「手下」たちだった。
「工藤さんの使いか」
男の一人が、ハナが差し出した「合言葉」代わりの背嚢の中身を確認し、短く頷いた。
「……ああ。迎えに来たよ。こいつを、銀座へ」
ハナの言葉を受け、男たちは無言でトタンの囲いを剥ぎ取った。
そこにいたのは、全体を漆黒に塗り潰された九四式六輪自動貨車。
かつて憲兵隊から強奪し、その素性を消すために闇の底のような黒で塗り固められたその巨体は、土蔵の闇の中で殺気を放っていた。
「……やっぱりごつい、このトラック」
サオリは圧倒され、思わず後ずさった。
ふと、無意識に右手がポケットの中を探る。指先に触れたのは、ここ数日、ただの冷たいガラスの板に成り下がっていたiPhoneだった。
何気なく本体を取り出し、サイドボタンをなぞる。
竹本があの執念深さで弄り回しても、分解しようとしても、ピクリとも反応しなかった黒い塊。工藤が「ただのゴミだ」と吐き捨てた、死んだはずの遺物。
その瞬間、指先に柔らかな脈動が伝わった。
(え……?)
画面中央に、白く輝くロゴが浮かび上がる。電源が入った。時刻も、日付も表示されない。ただ、サオリが設定していたあの日の壁紙だけが、青白く、不気味なほどの透明感を持って浮かんでいた。
「……ついた。なんで……?」
サオリの顔が、漆黒のトラックの傍らで、青白いバックライトに照らし出される。
竹本の手では石ころのようだったそれが、今、自分の掌の中でだけ熱を帯びている。その異様な光景に、サオリは言葉を失い、ただ光る画面を見つめるしかなかった。
「……おい。始めるぞ、離れてろ」
男の野太い声に弾かれ、サオリは慌てて画面を消し、iPhoneをポケットに押し込んだ。
男たちは手慣れた動作で、一メートル近い鉄の棒――クランクハンドルをトラックの正面にある専用の挿入口へと叩き込んだ。
【当時の自動車の始動方法】
現代の車は、スイッチ一つでセルモーター(電気モーター)がエンジンのピストンを回転させて始動させるが、当時の軍用車は「人力」でエンジンを回す必要があった。
手順としては、車の前部(顔の正面)にある穴に鉄製のハンドルを差し込み、エンジンの軸に直接噛み合わせる。そこからハンドルを一気に回して、中のピストンを強制的に上下させることで爆発を起こし、エンジンを起動させる。
この際、エンジンの点火タイミングがずれると、鉄のハンドルが凄まじい勢いで逆方向へ弾き飛ばされる「ケッチン」という現象が起きる。これによって、ハンドルを握っている人間の腕が折れたり、深刻な怪我を負う事故が頻発していた。
「……せえのっ!」
男が全体重をかけ、ハンドルを力任せに跳ね上げる。
ガ、ガガッ、……ギギィ!
金属が噛み合い、火花が散るような音が静寂を切り裂く。
サオリは、男たちの浮き出た腕の筋肉と、滴る汗を凝視していた。
それは単なる「作業」ではなく、鉄の怪物との命がけの取っ組み合いだった。一歩間違えれば腕を砕かれる恐怖を、彼らは日常としてねじ伏せている。
(……なにこれ。こんなの持ってこいって。これは私には無理だわ)
冷や汗が背中を伝う。指先一つでエンジンがかかり、指一本でハンドルが回る世界から来たサオリにとって、この時代の「移動」は、それ自体が暴力的な格闘だった。
ド、ドガガガガガガッ!!
漆黒の獣が、爆音と共に目を覚ました。
マフラーから吐き出された濃厚な黒煙が土蔵を覆い尽くし、サオリの足元を激しく揺さぶる。
「……よし。……おい、乗れ! 憲兵が来る前にここを離れるぞ!」
運転席へ飛び乗ろうとする男の背中に、ハナが声を張った。
「待って! 工藤さんからの言いつけがあるんだよ。銀座へ戻るまでに、使える『電線』をできるだけ集めてこいってさ」
男は動きを止め、片眉を上げた。
「電線だと? ……あんな重くて嵩張るもん、どこに……」
男は言いかけて、ふと南西の方角――夕陽に染まりつつある小石川の空を睨んだ。
「……そういや、小石川の砲兵工廠跡だ。三月の空襲で、あのへんの倉庫はガタガタになった。軍の連中が焼け残った通信ケーブルをあそこの空き地に野積みにしてるはずだが、瓦礫の片付けに追われて番人もいやしねえ」
_男が指差した先。
本郷の高台から見下ろす夕闇の彼方、赤黒い夕焼け空をバックに、灰色の瓦礫の山が延々と広がっている。かつて東洋最大を誇った兵器工場の、無惨な死体のような風景だった。
(……ああ、あそこのあたりは、東京ドームのとこだ)
「……そういや、小石川の砲兵工廠跡だ。三月の空襲で、あのへんの倉庫はガタガタになった。軍の連中が焼け残った通信ケーブルをあそこの空き地に野積みにしてるはずだが、瓦礫の片付けに追われて番人もいやしねえ」
男が指差した先。
本郷の高台から見下ろす夕闇の彼方、赤黒い夕焼け空をバックに、巨大な灰色の山が連なっている。かつて東洋最大を誇った兵器工場の、無惨な死体のような風景だった。
(……ああ、あそこのあたりは、東京ドームのとこだ……あ、あれ?)
瓦礫の山のすぐ隣。
2025年なら白い東京ドームの屋根が輝いているはずの場所に、**どす黒いコンクリートの巨大な「器」**が、怪物のように口を開けて鎮座していた。
「……。あれ、野球場?」
それは、サオリの知っている軽やかなドームではない。
爆撃を耐え抜き、煤を被り、窓の一つ一つが暗い眼窩のようにこちらを睨んでいる、戦時下の後楽園球場だ。
かつての「野球の聖地」は、今は高射砲が空を睨み、スタンドがジャガイモ畑に作り変えられた、歪な軍事要塞と化している。
友達とパンケーキを食べて、光る観覧車を見上げて、ジェットコースターの悲鳴が響いていたあの場所。
今は、悲鳴すら聞こえない。
自分が知っている「キラキラした遊び場」が、跡形もなく、ただの熱い石ころと、巨大な監獄のような要塞に変わっている。
地図のピースが、あまりに冷酷な形で噛み合った。
知っている場所と、目の前の地獄が結びついた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなる。
「焼け跡のど真ん中だ。この『黒塗り』で裏から突っ込んで、憲兵に見つかる前にかっさらえば、誰も気づきゃしねえよ。……運が良けりゃ、銀座に着く頃には荷台がお宝でいっぱいだぜ」
男はニヤリと汚れた歯を見せて笑い、高い助手席へとサオリを押し上げた。ハナはその後ろ、幌のついた荷台の中へと消えていく。
右手に、昭和の暴力的な咆哮と、油臭い男の沈黙。
左手のポケットには、まだ熱を持ったままの、令和の静かな光。
黒塗りの死神は、本郷の静寂を切り裂き、夕日を浴びて広がる死の要塞――後楽園球場と小石川の瓦礫の山へ向けて、一気に坂を駆け下りた。




