勝鬨の岸壁
銀座、四丁目の祠の前。
数日前までここを威圧していたヤクザの主力部隊は、サオリが放った「築地の権利書」を検分するため、一時的に引き上げている。残されたのは、焼け跡にうずくまり、今日を生き延びるためだけに泥を啜る地元民や、居場所のないチンピラたちだった。
「……瑞穂屋のお嬢さん。あんた、いいもん食ってんだろ。こっちの泥水、飲んでみるかい?」
差し出されたのは、野菜屑を煮込んだ酸っぱい残飯スープ。彼らが守っているのは「銀座の土地」などではなく、ただ明日への「空腹」でしかなかった。
サオリはその臭いに噎せながら、ふと、昨夜本郷の蔵で嗅いだ**「野田の生醤油」**の芳醇な香りを呼び覚ました。
(築地……魚……。魚を使って、この飢えきった連中の脳を黙らせるもの……。……寿司だ。寿司があるじゃん。……これ、いける。……いけるわ、これ)
サオリの目が、絶望の縁にいる「地上げ屋」から、勝利を確信した「戦略家」のそれに変わった。
「工藤さん。……今すぐ、海岸へ行くわよ」
翌朝、朝靄が立ち込める勝鬨橋の袂。
軍の監視を盗み、泥まみれの隅田川の河口に必死に糸を垂らす男たちがいた。巨大な鉄の橋脚の影で、彼らはまるで泥を啜る獣のように水面を睨んでいる。
サオリは、男たちが持つ錆びついたバケツを覗き込んだ。
そこにあったのは、およそ「江戸前」の華やかさとは無縁の、泥臭い雑魚の群れだった。
青白く光るヒイラギ、鱗に粘り気のあるボラ、ぬめった感触のハゼ。そして、わずかなスズキやクロダイの稚魚、コハダ。現代なら「外道」と吐き捨てられるような雑魚たちが、重油の浮いた水の中で虚しく跳ねていた。
「……おじさん。その魚、これと替えてくれない?」
サオリは、自分たちの数日分の食糧である「おにぎり」を差し出した。釣り人の目が剥き出しになり、彼はそれを奪い取るなり口に押し込んだ。
「……持っていきな。こんな泥臭い魚、どうせまともにゃ食えねえ。……死ぬよりマシだと思って、毎日これを啜ってるんだよ」
釣り人は吐き捨てるように言った。サオリは、迷わずその泥臭いバケツを両手で掴み上げた。
重いバケツの中では、死にかけの魚が跳ね、泥水がサオリのスカートの裾を汚した。彼女は顔をしかめたが、それを気にする素振りさえ見せず、ただ冷徹にバケツを抱え直した。
(不衛生? 泥臭い?いいえ、 多分大丈夫……。……しっかり血を抜いて、塩で締め、現代のやり方で『炙り』にする。……それだけじゃ足りない。あいつらの脳を、一撃で溶かす何かが……)
バケツを抱え、土手を上がろうとしたサオリの足が止まった。
橋の袂、瓦礫の隙間から、たくましく青々とした葉を伸ばすノビルの群生が目に飛び込んできた。
「……っ! これだわ」
サオリはバケツを置き、土手に膝をついた。1945年の人々にとって、ノビルは飢えを凌ぐための、ただの辛い野草だ。だが、2025年のサオリにとっては、魚の臭みを完全にねじ伏せ、旨味を引き立てる最高の「薬味」である。
サオリは、汚れも厭わず素手で土を払い、数把分のノビルを丁寧に摘み取った。爪の間に黒い土が入り込んだが、彼女はそれを拭うこともなく、iPhoneを操作して情報を確認した。
(このノビルを細かく刻んで、炙った雑魚の上に乗せる。……そこに、あの野田の生醤油を、一滴だけ垂らしたら……。これ、現代の回転寿司でも人気が出る『薬味炙り』の完成形だわ)
1945年の「サバイバル食(野草)」と、2025年の「グルメ(薬味・醤油)」の融合。それは、この時代の人間には想像もつかない、だが本能的に抗えない「旨味の爆弾」になる。
「工藤さん。本郷へ伝言を。ハナに、あの醤油を一滴も零さずここに持ってこさせて。……それから、大きな七輪と炭。……今夜、銀座で奇跡を見せてやるわ」
泥と鱗に汚れたスカートで立ち尽くすサオリの表情は、汚れとは裏腹に、勝利を確信した革命家のように輝いていた。




