第3話
「実は、お酒がやめられないんです」
洗髪と体を洗い終えて湯に浸かっていると、ユトリロが突然、打ち明けてきた。
「酔うと眠くなったり、呂律が怪しくなったり、笑い上戸になったり、仕事に支障が出たりして、皆からも厳しく言われて、よくないことだってわかってるのにやめられなくて……本当にご迷惑をおかけしました」
「いえ、私はそれほど迷惑を被っていませんので……」
というより、掛けてやる言葉が見付からないといったほうが正しい。
慰めるべきなのか、酒なんてと諭すべきなのか、はたまたそれくらいいいんじゃないと許してしまうべきなのか、伝えてしまうにはまだ関わりも少なく、どれも無責任に過ぎる。
ただでさえ男性に見守られながらの風呂なのに、居心地が余計に悪くなってしまった。
「あ、そういえば、ここはリフ神様の領地ですので、身に着けるものや使うものはすべて黒色で統一されています。よって服も靴も当然に黒ですが、ご容赦ください」
「はい。それに関しては問題ありません。ところで、なぜリフ神様は急に花嫁を探そうと思い立ったのです?」
問うと、ユトリロは眉尻を下げて困惑した。
「それは俺からお伝えするには重すぎます」
「そうですか……。もしかして、なにか、大変なことをやらされたり……?」
「いえ、そういうことはございません。ただリフ神様と、ごゆるりとお過ごしくださればと思います」
「なにもしなくてもいいのですか?」
「はい」
(そんな都合のいい話があるのだろうか。もう少し距離が縮んだら、聴いてみよう)
「お飲み物をどうぞ」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
そうして手渡された細いグラスには黄金の液体が半分ほど注がれていた。どんな味がするのやらと煽ってみると、なんと強い酒だった。思わず噎せてしまう。
「こ、これ、お酒ですか!? すみませっ、私、まだお酒を飲んだことがなかったもので、初めてで……!」
「それは大変失礼いたしました! ──ああ、勿体ない……!」
そうして、カナレットの口の周りに溢れてしまった酒を、なんとユトリロは長い舌でべろりと舐めとった。
そして恍惚そうな表情を浮かべる。
「はあ……美味しい……」
その行動に仰天したのはカナレットだ。
「ぎゃああああ!」
「は! も、申し訳ありません! 酒だと思うと、つ、つい!」
「つ、次! 次からはお酒じゃなくていいので! み、水でいいので!」
「わわわわわかりました! な、なんという無礼なことを! あわわわわ!」
「わ、私も驚いてしまいまして! なななななんか、すすすすすすすみません!」
「わわわわわ!」
「ななななな!」
◇◆◇◆◇◆
「カナレット、顔が赤いみたいだけれど、どうしたの?」
ディナーが始まる前、向かいに座るリフに訊ねられて、カナレットは硬直した。
まさか嫁いできた初日に他の男から口を舐められましたなんぞ言えるはずがない。不徳として殺されてしまっても文句を言えない行為だ。
ダイクは調理担当なのかダイニングにはおらず、厨房から料理を運んでいる途中らしい。バジールとユトリロは末席に並んで立っていた。
ぴくりとユトリロの肩が震えたのをカナレットは見た。
「い、いえ! やはり、男性に見守られながらのお風呂というのが、その、なかなか気恥ずかしいものがありまして……!」
「ああ、そうだよね。きっと、すぐに慣れるよ」
「そうですね……! お気遣い感謝し──」
「僕はてっきり、ユトリロとなにかいかがわしいことでもあったのかと思ったよ」
ぴしっと凍り付いたのはカナレットだけではなかった。固まった笑顔をなんとか保ちながらナフキンを膝に乗せる。
その視界の端でバジールがぐるんとユトリロに顔を向けて睨んでいるのが見えた。ユトリロが必死に首を振っている。
話題を変えないと。
「あ、リフ神様はお仕事で外に行かれたのですか?」
訊ねた途端、ダイニングの空気が氷点下まで下がった気がした。水が氷になってしまう、ぴしり、という軋むような音が聞こえたようで、カナレットは周囲を窺った。
(え? なにか、聞いてはいけないことだったのかしら。他愛ない会話をと思ったのだけど)
するとリフはまた口元を隠すように手を握り組んだ。モノクルが光に反射して眼差しを見えなくする。
背中から黒い靄のようなものが滲み出ているのは錯覚だろうか。異様な雰囲気に呑まれそうになる。
「どうして? 誰かから、なにか聞いた?」
これはうまく答えなければと、なんとなく察しがついた。
「い、いえ、廊下の黒い絨毯に砂が落ちていたので……てっきり、どこかにお出掛けされたのかと……」
「へえ……カナレットは目がいいんだねぇ……」
これは褒められているのだろうか。
それとも、生意気にしゃしゃり出てくるなと牽制されているのだろうか。
よくわからなくて、とりあえず謝ることにした。人の顔色はわかるが、含まれた意までをも汲むのはとても苦手だ。
「立ち入ったことを聞いてしまいました、失礼いたしました」
「いいんだよ。これからずっとここで暮らしていくのだから、肩の力を抜いて。気楽にのんびり過ごそう」
「は、はい」
「そうだ。なにか言いたいことはない? これが欲しいだとか、あれが食べたいだとか。カナレットの願いなら、なんでも叶えてあげるよ」
「いいえ、特に欲しいものなんて──……あ。ならば、ひとつお願いがあります」
「うん。なにかな」
「ユトリロさん達にも『奥様』ではなく、名前で呼んでいただきたいのです」
リフがゆっくりと瞬きをした。それが意味を汲み取ろうとするときの癖なのだろう。優雅な瞬きは、美しささえあった。
「わかった。そうしよう。ただ、理由を聞いてもいいかな?」
「はい。実は、名前を呼ばれたことがほとんどないのです。いつも、おい、お前、あんた、ねえ、と呼ばれていたもので、出来ればここでは名前でと、思いまして……」
声が尻すぼみになっていったのは、リフの表情があまりにも冷たいからだ。
(そんなに失礼なお願いだったかしら?)
学問の教養は受けさせてもらったが、貴族の嗜みの類は一切わからない。なにか、とてつもなく無礼なことをしているのではと、いちいち自信をなくしてしまう。ちらちらとリフを窺っていると、ふと微笑んでくれた。
「そういう理由なら。バジール、今後はそうするように」
「畏まりました。ダイクにも伝達しておきます」
「うん」
これで会話は終わり。
さあさっさと食事をして、早く部屋に戻りたい。リフには、独特の緊張感があって疲れてしまう。
ふう、と小さく安堵の溜息をついてすっかり気を抜いていた。
「他には?」
「……えっ?」
「他にお願いはないの? 僕に」
「あ、リフ神様にですか……?」
「そう。今のは3人に対するお願いでしょ? 僕にはないの?」
(えぇ……)
そんなことを突然言われても思い付かない。
考えておきますとでも返事をしておけばいいのだろうか、思い付いたら伝えますとか。それで怒られないだろうかと、バジールにちらりと視線を向けた。バジールは視線を受け止めてくれたが、すぐに逸らされた。
リフは見逃してくれなかった。
「あれ? もしかして、僕よりバジールのほうが好き?」
「い、いえ! そんなことは! ただ、思い付かなかったもので、その……」
「ああ、そうか。そうだよね。ごめんね、答えを急がせてしまったね。あ、言い忘れていたけど──」
リフが足を組み換え、手を口の前で組むあの姿勢になった。また目の周りの筋肉だけを動かして強引に笑顔にしている。
「僕、独占欲強めだよ」
びり、びり、と言葉のひとつひとつに電流が宿っているような痺れを肌で感じる。カナレットはまともにリフを見られず、目の前に置かれたカトラリーの輝きに視線を送っていた。
「それも、かなり、ね。重い男は嫌だ?」
言葉がプレッシャーを与えてくる。カナレットは頬が痙攣しても、なんとか笑顔を保った。
「む、むしろ、こ、光栄です」
言うと、リフは小首を傾げて微笑んだ。
「そ? ならよかった、安心だ。
ね? ユトリロ」
ユトリロはぶんぶんと首を上下させて頷いた。タイミングよくダイクが食事を運んできたので、場の緊張が解ける。
(あら? 私、もしかしてとんでもない状況なんじゃ……)
カナレットは震える手でスープを飲んだ。
ほとんど味がしなかった。