79、未経験の恋
「お世話になりました」
とっくに夜八時を回った頃、仕事帰りの白井の友人、寿がアパートの前まで迎えにきてくれた。
濡れた服と残りのガトーショコラを貰った白井は水瀬と御厨に一礼した。
「また服は洗ってお返しします」
「オッケ〜!」
「お片付けをお手伝いできずすみません・・・」
「いえ、何も問題ありませんよ」
二人に見送られ、白井は寿の車に乗った。
「・・・ほんと、美人なお姉さんだったね」
「えぇ」
白井が帰ったあと、御厨は水瀬の片付けを手伝ってくれたが、世間体的にこれは大丈夫なのかと疑問を抱く水瀬であった。
「ねぇ、お兄さん」
「はい?」
テーブルを拭く御厨が洗い物をする水瀬に話しかける。
「お兄さんってあのお姉さんのこと好きなんでしょ?」
ガシャンとシンクの中で音が鳴る。驚いた水瀬が食器を不覚にも滑り落としてしまった音である。その動揺っぷりで図星なのがわかった御厨はニヤニヤと意地の悪い顔をして水瀬を質問攻めにしていく。
「さっき、お姉さんが泣いてた時、ずっとお姉さんのほう見てたでしょ」
「・・・」
「しかもなんか愛おしそうに」
「・・・」
全て図星で、水瀬の手は食器をつかめずツルツルと滑るばかり。これでは食器をダメにしてしまうと思った水瀬は手を置いた。
「・・・よく気がつきましたね」
「女子大生の勘は鋭いの」
やはりという表情で御厨は胸を張った。小さく微笑んだ水瀬はグラスを拭いた。
「さっきのカクテル、飲みます?」
「飲む一択」
レモンの切れ端が余ったので水瀬は先ほど作ったノンアルカクテルをもう一度作り、御厨の前に出した。水瀬も水を一杯グラスに注ぎ、リビングに座った。
「なに、片思いしてんの?」
御厨が聞くが、水瀬は首を横にも縦にも振らなかった。
「わかりません」
「なにそれ」
水瀬は人の感情に疎くはない。ましてや、自分に好意を向けているだろうということなど一目瞭然。態度、声色、顔を火照り。その見分け方を洗練された水瀬の五感は狂いを見せることがない。白井が自分に好意を寄せているだろうということも水瀬にはわかっている。
「・・・お兄さんはさ、いつお姉さんのこと好きになったの?」
「それもわかりません。いつの間にか、です」
学生時代にも誰かを好きになったことがない水瀬は、この恋に気づくのでさえ遅かった。
「・・・ただ、今こう考えてみると、私は随分前から白井さんのことが気になっていたのではないかと思います」
水瀬がそう考えるのは水瀬が白井に対する感情である。
水瀬はたびたび白井に対して「可愛い」と思っている。これが一般的に女性へ対する感情なのか、そうではないのか水瀬にはあまりわからない。「可愛い」、そう思ったものが「可愛い」。しかし、どれだけの女性を見ても白井と同じ「可愛い」という感情は表れない。名前のつかないあの感情が、今思えば「恋しい」というものだったのではないだろうか。
「・・・お兄さんって敏感なの?鈍感なの?」
「え・・・」
頬杖をつき、御厨が眉間にシワを寄せて問う。
水瀬はしばらく考え、グラスをテーブルにそっと置いた。
「いえ、鈍感ではないはずです」
「じゃあ、なんで自覚するのに時間がかかったの?」
確かにその通りだ。御厨が疑問に思うのも無理はない。
明確に白井のことを好きになった時はわからないが、それでも白井という人物を気にかけていたのは事実。そして他の女性とは違う何かしらの感情を持っていたも事実。それが随分前からだったというのも事実。
白井が自分に好意を向けていることを理解しているのも事実。
「・・・経験がないから、だと思います」
「経験?人に恋心を抱くこと?」
「そうです」
学生時代も税関志望者の時もバーでバイトをしていた時も、水瀬は誰かに恋をした経験がない。相手から寄せられる好意はグラスいっぱいあったものの、いざ自分は、というと好意を向けてきていることはわかるがその相手と同じ感情になったためしがない。結局、いつもフってばかり。
「この感情を恋と呼んで良いのか、もしかして家族愛のようなものなのではないか、無意識にそう考えてしまうようです」
「・・・ふーん、じゃあ・・・」
御厨が口に入れた氷を噛み砕く。
「恋に限らず、お兄さんは人を好きになったことがないんだ」
「・・・」
ガリっという氷が砕けて音がした。
「つまりだね、お兄さんは多分、家族に大事にされてなかったと思うんだよね」
結露したグラスの中で氷がカランと冷たい音を鳴らす。水瀬はそのグラスを握りしめた。
「親とか兄弟とか、特に親だけどお兄さんは守ってもらった事とか自分って家族に愛されてるんだなって感じたことがないんだよ、きっと。つまりさ、大切っていうのがわかんないから恋心もわかんないんだよ」
御厨の言葉に胸がぎゅっとする。
「家族に愛されたことがない人が人を愛せるわけないじゃん。愛を知らない人が自分の中で芽生える感情を理解することなんて不可能に近いよ。愛し方も愛され方も」
「・・・」
「自分のことは自分がいちばん理解しているはずなのに、実際は半分も理解してない。お兄さんは人一倍、自分を少しも理解できないほど自分に興味がないんだね」
御厨に言われてようやく、水瀬は自分の現状に立った気がした。
「ま、これが私の考察ね。外れてる部分だってあると思うけど大きくみればそんなに外れてないと思うよ」
グラスの中の氷を全部食べ尽くした御厨はいどころへと向かい、シンクにグラスを置いた。
「これからどうするんかわかんないけど、とりあえず私は応援してるから。当たって砕けろ、だ!」
「・・・砕ける気はありませんが」
ガトーショコラが入っていた、洗われたタッパーを袋に入れ、服が入った鞄と共に持ち上げた。
「じゃ、遅くまで居座ってごめんね」
「いえ、助かりました。ありがとうございました」
満天の笑顔で御厨は帰っていった。
その後、水瀬はサッとグラスを洗い、風呂に入った。温かいお湯が体に沁み、少しだけ気持ちが緩んだ気がした。
(・・・家族・・・)




