宙空に変顔
清悠は、がくりと膝をついた正道のそばに駆け寄った。
弓を持つ左の半身が穢れのためにひどく焼けただれて、それがじわじわと広がっている。
「まずい、祓わないとっ」
清悠は妖魔を戒める呪文を捨てて、穢れを祓う祝詞を詠おうとした。
が、正道は清悠を制した。
「よせ、俺に構うな。一香は穢れを受けていない、無事だ。だから呪文を続けろ!ヤツの戒めを解いてはならぬ」
「でも直ちに祓わなければ、あなたが邪道に落とされます」
「ダメだ、このままではお前も食われる。俺のことはいい、戦えっ!」
清悠は正道の苦痛を思った。
俺は知ってる。
魂が穢れに灼かれる苦痛は耐え難いはず。なのに、正道の命。
ビリリッ、パリパリッ、バリバリバリッ!ドドーーーーンッ!
背後の空気を裂く轟音に立ち上がった清悠が見たものは、さっきまで力の限り戒めていた呪文を引きちぎろうと荒ぶる妖魔の姿だった。
地上の火の手は更に激しくなり、火災の場所も増えて拡大し、行き交う消防車のサイレンがひっきりなしに鳴り響いている。
悔しい、アイツは邪悪すぎる。
封じるんじゃダメだ、滅するしかない。でも今の俺の手には余る、相手が強すぎる。
正道も助けたい、安野も守りたいのに。
いや、それ以前に。
俺は傲慢だった、一人でどうにかしようなんて思い上がって。
もしも正道が、一香が手を貸してくれていなかったら、俺はここまでやれてたのか。
豊滝ならどうしたろう、彼ならば。
そうだ豊滝、正道が危ないんだ。現れてくれないのか。
ああっまずい、ひどく心が乱れてうまく集中できない。
パリパリッ!バリバリバリッ!バリバリッ!バリバリバリッ!バリバリッ!
暴れる妖魔が執拗に放電し、また呪文を破ろうとしてくる。
このままでは自滅する、集中しなくては。清悠は目を閉じ呼吸を整える。
最後の最後まで呪文を破らせるもんかっ。
豊滝、正道は恋心を向けたあなたを拒否したんじゃない、嫌ったりしていない。
ただ親友として、一生をかけて大切に思っていた。
今もそれは全く変わってない。
また現れて、そのことを確かめてほしい。
彼を助けてほしい。
どうか、この場に。
その時清悠の頭の中に荒々しく別の声が響き渡った。
「畜生っ、同じ道を辿るのは嫌だっ!あの時と同じように正道を失うなど、俺は二度とごめんだっ!」
「豊滝……」
倒れてジリジリと灼かれる正道の魂が弱々しく呟いて、清悠はゾゾゾっと背筋に強烈な寒気が走った。
うわっ、来るっ。
血が逆流するように胸が苦しい。豊滝の魂が体の中を通り抜けて急浮上してくる。
強いその魂に圧されて気が遠くなり、足がふらつく。
けど闘いは終わってない、ここで俺は倒れるわけにいかない、決して。
「いつの世も変わらぬ、人の邪念のおぞましさよ。滅するより他に道なし」
間近に聞こえた低く冷徹な声。
雅やかに存在を告げる、練香の香り。
ふっと体が軽く楽になった清悠が顔を上げると、そこに三門豊滝の魂が現れていた。
「おい正道、しっかりしろっ」
豊滝はその場にひざまづいて朦朧とした様子の正道に呼び掛けた。
「一刻を争う、このままでは……。おい清悠、お前は直ちに祓えの祝詞をあげろ。俺はあやつを滅する」
「承知しました」
豊滝は炎を宿したかのような強い瞳を清悠に向けて告げると、正道をそっと宙空に横たえて立ち上がり、妖魔の方へと向かった。
すごい気迫だ。ビリビリと空気を震わせ、間近に伝わる凄まじい闘気。
この凄み。
俺はこの魂には、豊滝にはとても及ばない。
でも、この魂が最も愛する正道を託されたからには、祓えをやり遂げる。
清悠は再び意識を集中し、正道に向けて祓えの祝詞を詠い始めた。
祝詞の文字が一つ、また一つ金色に輝いて現れては解け、それが雨のように正道の魂に降り注ぐ。
それが赤紫に焼けただれた正道の穢れの傷を少しずつ癒していった。
その向こうでは三門豊滝が、龍神を召喚するべく呪文を詠唱していた。
ほどなく、ゴゴゴゴゴ……という滝の音に似た低い音とともに、晴れていたはずの夜空に黒雲が集まってきた。
やがてその中に銀の光を放つうねりが見え始め、蛇のように思われたそれは、みるみる四つ足と鈍く光る鱗と二本の角の形を現し、銀色の龍の姿になった。
「よし、龍神召喚っ」
龍神の出現で、地上には急に強い雨が降り出し、もう今では夜景も白く煙って見えるほどだ。
「龍神よ、汝の力もてあれなる邪神を滅せ!」
豊滝の声が命じた。
ゴゴゴゴゴ……と水音をたてて、龍は妖魔の周囲を取り巻いていく。
妖魔は負けじと盛んに放電するが、やがてその稲光までも龍の体に巻き込まれた。
とぐろを巻いた銀の龍の隙間からは、その鱗に反射してチカチカと邪眼の赤いレーザー光が漏れてくるが、貫通することはできないようだ。
そして大きく口を開けた龍に、締め上げられた妖魔がゆっくりと呑まれて行く。
その様子を睨みつつ、豊滝は両手を合わせて呪文を詠唱し続けた。
絵の中でしか見たことがない龍。
しかも水を司る龍神の力を借りるなんて。すごい、なんて力だ豊滝。
正道の祓えを無事に終えて、一安心した清悠は豊滝を見つめていた。
「ああ、……俺は。傷が癒えている。それに、あいつがいる、豊滝。俺が悲しませたというのに」
「気がつきましたか、正道の命」
「お前が祓えをしてくれたのか、礼を言うぞ。おかげで傷が癒え、また気力も湧いてきた」
「良かった。妖魔も、豊滝の命が滅するところです」
二人がそう言葉を交わす間にも、銀色の龍はついに妖魔を呑み下した。
現れた時と同じく滝のような轟音とともにその姿が徐々に薄れていき、その形がうねる一本の水流に戻り、それから宙空に溶けて消えた。
後には灰色の雲だけが残って、眼下に霞む夜景に向かってサラサラと銀糸の雨を落としている。
全てが消え失せたのを見届けた豊滝は、おもむろにこちらを振り返り、肩で息をしながら歩んで来た。
「終わった。正道も癒えたな。お前、よくやったな」
そう清悠を労った顔は柔らかく微笑んでいて、あの痺れるような闘気は雨に溶けたように消え失せている。
さっきはこっちまで殺されそうな勢いだったのに。
「恐れ入ります」
「さあ帰ろう。今宵ここらの都一帯に雷が生じ、火災が起こった。人々の目にはそう映るはずだ」豊滝は言った。
妖魔が大都市を破壊しようとし、阻止するために龍神が現れて、空中での激闘。
そうだ、そんな話を一体誰が信じるだろう。
「豊滝、来てくれたんだな」
正道がしみじみとそう言った時、豊滝の顔から微笑みが消えた。
「ふん、馬鹿野郎。あのままお前たちが消えたりしたら、俺が邪道に堕ちて救わねばならん。余計な手間と言うものだ」
真顔の豊滝は、いきなり片手で正道の両頬を挟むと、ヒョットコ顔にした。
「よせ、こいつ」
変顔にされた正道の魂は、くつくつと笑いながら「世話をかけたな」と言うと、やおら立ち上がり豊滝の魂に歩み寄った。
「そのような手間をかけずに済んだのだから、もう俺を許してくれ」
正道は、仏頂面をした豊滝の肩をポンポンとたたいた。
「あ、正道さん……」
宙空に横たわっていた一香が目を覚ました。
正道の魂が離れている今、彼女はまたあの晩のように清悠の服を身につけた女の子の姿に戻っている。
一香の長い髪は、静かな宙空の秋風に流れて白い頬にまとわりついたり、かと思えば急に強く吹き煽られて、ふわりと顔の輪郭や首筋まで露わになる。
「起きたな、大丈夫か」
「清悠。うん、もう大丈夫。ねえ、あの怖い目の妖魔は退治したの?あっ、なんか戻ってる。今わたし、戻ってるよね」
「ああ戻ってる。元の安野だ」
清悠がそう言うと、一香は確かめるように自分の体を眺めた。
「あのさ、安野。何も言わずにお前のこと、置いてきて悪かった。ごめんな」
「それはさ、わたしを心配してくれたからでしょ。正道さんも言ってた。だから、もういいの」
そうだ。
確かにそうなんだけど、他にも違う気持ちが入り込んで俺はそうした。
それは、豊滝を安野に近づけたくなかったから。
そうなんだ。
それはさっき、正道に変顔させた豊滝を見たときに、わかった。
でも、安野にそれは言えない。そう清悠は思った。
「ねえ。このまま、わたし戻れるのかな」
「うーん。今は、正道の魂が安野の体とつながってるんだ。それをきちんとあの世にお送りできた時に、きっと本当に戻れるんじゃないかと思う」
そう、正道と豊滝、二人の魂を見送る日がきたら。
その時初めて安野も俺も、自分の全てを手にすることになる。
いや、それとも自分の一部を失ったって思うのかな。
いつものように三門戻り橋から二人で境内に戻ってくると、こちらもやはり小雨が降っている。
今はもう再び織戸正道の姿に戻って、家までの道を自分と並んで走る一香を横目に清悠は思った。




