90.それぞれの野望
朕の名はカシウス。スタンダル帝国の皇帝であり、国の未来を担う者である。
スタンダル帝国は、かつて半島にあった小国を起源とする。我が帝国は近隣の国々を武力で制覇し、植民地化することで力をつけてきた。半島自体は産出する資源がほとんどないが、文化は発展している。子どもの育て方に力を入れて、わが国民には知能、運動能力、どこをとっても優れたものしかいない。器用な手先と優れた頭脳をもって、技術改革に力を注いだ。その技術こそが、我が国の生命線だ。
しかし、残念なことに半島だけでなく列国もあまり豊かな土地ではない。食料の多くは、ダイバーレス王国から輸入している。
もし、あの国の豊かな土地を手に入れることができれば、我が国はさらに発展するだろう。資源も食料も、全てが手に入る。
「……結局、我が妹は何の役にも立たなかったな」
朕は王座に腰掛け、苛立ちを覚えながら独り言を漏らした。
窓の外には、灰色の海が広がっている。波が岩壁に打ち付ける音が、遠くから聞こえてくる。
先代皇帝は、朕の妹カトリーナをダイバーレス王国に嫁がせ、将来的に帝国の支配下に置く計画を立てていた。カトリーナの子が王位を継げば、内側から影響力を持ち、いずれは王国を乗っ取る。それが父の描いた青写真だった。
ダイバーレス王国は小国でありながら、魔法結界に守られた難攻不落の国だ。単純に力で攻めても無駄であることは、歴史が証明している。先代皇帝である父も、それを理解していたからこそ、内側から崩そうと画策した。
だが、先代の思惑は完全に外れた。
フィリップには魔法の才がなかったのだ。
ダイバーレス王国では、魔法を使えない者が国王になることはできない。その掟がある以上、フィリップが王になる可能性はほぼゼロだった。考えるだけ無駄なことだ。
しかし、アンドリアンは見事やってのけた。
時間はかかったが、王を廃し、魔力の弱い第一王子を王に据えて魔法結界を弱体化させたのだ。
朕は口元に笑みを浮かべた。
二十年以上前、ダイバーレス王国への復讐を望む男が朕のもとを訪れた。アンドリアン・クレイヴェル。
あの男の漆黒の瞳を、今でも覚えている。冷たく、何の感情も映さない目だった。まるで深淵を覗き込むような、不気味な瞳。
同じ冷たい漆黒の瞳をしたアンドリアンの母、シャルロット・モンタギューは朕のかつての婚約者だった。
だが、現皇后との結婚のために婚約を破棄した。政略結婚だ。愛などという甘いものではない。国のために、より強力な同盟を結ぶ必要があった。
シャルロットのことなど、アンドリアンが現れるまで忘れていた。だが、どうやら婚約破棄後の彼女の人生は悲惨なものだったらしい。
ダイバーレス王国の子爵家に嫁ぎ、ひどい扱いを受けたという話だ。息子のアンドリアンは、母の恨み節を聞かされながら育ったという。
そのアンドリアンが、ダイバーレス王国を内側から崩壊させようと動いた。
「皮肉なものよな」
朕は声に出して笑った。
「かつて朕を恨んでいたはずのシャルロットの息子が、今や朕の野望のために尽くしているとは」
形ばかりの通達をダイバーレス王国に突きつけ、あとは攻め入るのみ。
朕は指揮艦隊の中で、最後通達の期限である日没を待つ。
甲板を踏む音が聞こえる。兵士たちの声、武器を整える音。全ては順調だ。
------
「ふははははは! やったぞ! これで、ダイバーレス王国はもう終わりだ!」
私は艦隊の旗艦の甲板に立ち、声を上げて笑った。
海風が頬を撫でる。潮の香りが鼻をつく。水平線の向こうには、ダイバーレス王国の海岸線が見える。
ダイバーレス王国への復讐が終わったら、私は母方の祖父であるスタンダル帝国のモンタギュー伯爵位を引き継ぐ予定だ。
落ちぶれてスタンダル帝国に敗れる予定のダイバーレス王国になど、もう何の用もない。
私は幼い頃、母と一緒にスタンダル帝国にある母方の実家、モンタギュー伯爵家で十年ほど育てられていた。
表向きは、ダイバーレス王国のクレイヴェル子爵家があまり裕福ではないため、母方の実家の方が良い教育ができると判断してのこととされていた。
だが、実際は違う。
父方の祖母は、スタンダル帝国式の子育てを「こんなに丸められて、赤ちゃんがかわいそう」と言って取り合わなかった。その挙句、母のことをまともに育児もできない冷たいスタンダル人だと罵り、添い寝布を切り裂き、母から私を取り上げて育てようとしたのだ。母の意見など、誰も聞こうとしなかった。それで怒った母が実家に帰り、私を育てることにしたのだ。
スタンダル帝国にいる祖父母も母も、ダイバーレス王国のことを野蛮な国だと言って嫌っていた。
私もまた、スタンダル帝国の洗練された美しさが好きだった。石畳の街並み、高い建物、美しい噴水。
しかし、大好きな母はずっと抱いた怒りが体を蝕み、私が十歳になったときに亡くなってしまった。
母の最期の言葉を、今でも覚えている。
「アンドリアン……ダイバーレスを……許さないで……」
やせ細った手が、私の手を握りしめた。その手は、冷たかった。
私は、ダイバーレス王国に戻ることにした。母の復讐を果たすために。
父は優しいが優柔不断な上に愚鈍だった。母を虐めた父方の祖母は、スタンダル帝国で育った私のことをあまりよく思っていなかった。
だが、私は祖母をうまいこと騙して追い出した。父を利用し、祖母を遠くの修道院に送り込んだ。
しかし、クレイヴェル家を破綻させるだけでは、母の復讐は果たせないと思った。
母を否定するばかりで、誰も母の言うことに耳を傾けなかったダイバーレス王国そのものが憎かった。
私は学校で、仕事で、能力の高さを見せつけた。
幸い、ダイバーレス王国での官僚の仕事は爵位の高さよりも能力を重視していた。実力主義。それが、私にとっては都合が良かった。
私はあっという間に宰相まで上り詰め、王の信頼を得ることができた。
そして、復讐の計画を実行に移した。
私は、母を苦しめたという育児方法に焦点を当てた。母親たちに間違った子育て方法を広めることで、国民の質を下げようと考えた。
(スタンダル帝国の育児方法は完璧だった。それを聞こうともせずに否定したダイバーレス王国民が馬鹿なのだ)
まず、誤った育児方法を高名で金に汚い医者に国中で発言させた。
ダイバーレス王国の素朴で愚直な国民性が功を成した。高名な医者が提案していることだということで、国全体が疑問を抱かずにこの子育て方法を信じた。
(母の言うことは聞かなかったくせに、高名な医者というだけで信じるなんて、本当に馬鹿なやつらだ)
次に私はヴェルデン公爵に接触し、彼の領地で「母親の育児を楽にするグッズ」を販売させるよう仕向けた。
そのグッズは、母方のモンタギュー家に開発してもらった。表向きは便利な製品だが、実際には子どもの発達を阻害するものばかりだ。間違った子育て方法で困った国民はみんなこのグッズに飛びついた。
目論見通り、年々国民の運動能力が低下していった。子どもたちの体力は落ち、騎士団の質も徐々に下がっていった。
(母を苦しめた罰だ!デモでの若者たちの怒りは痛快だったな)
ヴェルデン公爵家とフィリップ第二王子が始めた改革は、最初は気に入らなかった。
私の計画が台無しになるかもしれないと危惧を感じた。
だが、阻止するよりも利用する方がいいと気づいてからは、本当に思った以上の展開となった。フィリップが民衆の支持を集めれば集めるほど、ハーマンの劣等感は膨らんでいく。その劣等感を利用して、父王の処刑へと導いた。
完璧な計画だった。
しかもハーマンは間抜けなことに、私の目論見に気づくことなく魔法結界の弱体化の情報を教えてくれた。
「魔法水晶の光が弱い気がするのだが、俺は何か間違っているのだろうか」
不安げな顔で相談してきたハーマンを、私は内心で嘲笑った。
魔法結界さえ弱体化してしまえば、あとはスタンダル帝国軍に攻め込ませるだけだ。
帝国へ使者を送った後、私はひそかに城を出た。クレイヴェル領の小さな港から、スタンダル帝国軍に合流するべく出航した。
そして今、私はここにいる。
ダイバーレス王国の終わりを見届けるために。
私は艦隊を見渡した。黒鉄の軍艦が、海を埋め尽くすように並んでいる。旗が風に翻り、兵士たちの鎧が陽光を反射して輝いている。
「母上……見ていてください」
私は小さく呟いた。
「あなたを苦しめた国は、もうすぐ滅びます」
海風が、私の言葉を運び去っていった。




