15.リカルドとの闘い
「お父さま、少しお時間をいただけますか?」
机の向こうで書類に目を通していたリカルドは、顔を上げることなく素っ気なく返事をした。
「何の用だ、エレオノーラ。珍しいな」
リカルドがペンを置いた音が、静寂の中で妙に響く。
ちらりと投げられた視線には、いつもの冷たさが宿っている。エレオノーラはいつものように萎縮してしまいそうになる。でも今日はそこで踏みとどまり、心の中で自分を叱咤した。
(大丈夫、落ち着いて話をしよう。これから私が話すのは、大切なことなんだから!)
エレオノーラは気合を入れて背筋を伸ばし、覚悟を決めて口を開いた。
「公爵家の事業について、2つの提案があります」
リカルドは眉を少し上げ、椅子にもたれかかった。
「言ってみろ」
エレオノーラは机の前まで歩み寄って話し始めた。
「1つ目は、靴の新事業についてです」
「靴?何かいい考えでもあるのか?」
リカルドは座り直してエレオノーラの話を聞く姿勢になった。エレオノーラの心に少しだけ希望が湧く。
「人々の健康のために、足に合う靴を作るのです」
しかしリカルドの表情が曇った。
「靴など、履ければそれでよいのではないか?そんな理想論で商売になると思うのか」
リカルドは興味を失ったように机の上の書類に手を伸ばした。エレオノーラの心臓が早鐘を打つ。でも諦めない。
「足に合った靴は腰痛など様々な症状を予防できます。医師や貴族たちが健康のために求める新しい市場が生まれます」
リカルドは、書類を整理しながら聞き流した。その様子を見ながら、エレオノーラは切り札を出した。
「価格も通常の靴より高く設定できるはずです」
利益の話が出た瞬間、リカルドの手がわずかに止まった。エレオノーラの胸が躍る。
「本当にそんな需要があるのか?」
ようやく顔を上げたリカルドに、エレオノーラは自信をもって答えた。
「健康への投資を惜しまない層は必ず存在するはずです」
リカルドは書類を机に置き、腕を組んで考え込む素振りを見せた。エレオノーラは手応えを感じながら続けた。
「2つ目は、現在の育児グッズ販売事業の見直しです」
「育児グッズだと?」
リカルドの眉が跳ね上がった。
「なぜお前がそんなものに口を出す」
声のトーンが一気に下がる。
「あのグッズは売上も安定しており、我が公爵家の重要な収入源だ。顧客からの苦情もほとんどない。何が不満だというのだ」
予想以上のリカルドの強い口調に、エレオノーラの背中には冷たい汗が流れた。でも引き下がれない。
「子どもたちの幸せが犠牲になっていると思います」
「幸せだと?商売に感傷を持ち込むな」
リカルドの声が一段と冷たくなった。
エレオノーラは震える手をギュッと握りしめて、ヒューゴやフランソワの例を出して必死に説明した。
「ですので、育児グッズの販売は一時見合わせ――」
「ふざけるな!」
机を拳で叩く音が書斎に響いた。エレオノーラがびくりと肩を震わせる。
「重要な収益源を捨てろというのか!」
リカルドはエレオノーラを見据えた。その青い瞳には明らかな苛立ちが浮かんでいる。
「お前は知らないだろうが、あのグッズが無かったレイモンドの子育ては、本当に大変だったんだ」
リカルドは遠い目をして語り始めた。
「あいつは抱っこしていないと泣き止まなくてな」
天井を見上げながらつぶやく。
「クレメンティアと乳母が夜通し交代で面倒を見ていた。二人とも腕を痛めて、本当に大変だったんだ」
エレオノーラは驚いて目を丸くした。
「……腕を痛めるほどだったとは知りませんでした」
知らなかった兄の赤ちゃん時代の苦労。でも心の奥で疑問がわく。
(でも、だからといって、本当にそれが正しいことなのかしら)
「だからこそ、宰相から育児グッズの輸入販売の提案を受けたとき、即座に賛同したのだ」
リカルドはエレオノーラをまっすぐに見て言った。
「現実的な解決策だったからな。おかげでお前の子育てはとても楽だったとクレメンティアも喜んでいた」
机に身を乗り出すように。
「安定した需要と利益をもたらす優秀な商品を、なぜ販売中止にする必要がある?」
悔しさと怒りが込み上げてくる。
「でも、お父さま!」
エレオノーラは机を両手で叩いた。
「子育てに苦労したお兄さまは立派に成長して、今や領主代行として活躍しているではありませんか」
声が震えている。
「でも、楽に育てることができた私は?」
感情が抑えきれなくなって。
彼女の声は次第に感情的になっていく。
「デブで愚鈍な癇癪持ちと言われ、婚約破棄されて、これが本当に正しい子育てだったとおっしゃるのですか!?」
「それはお前個人の問題だ」
リカルドが冷たく言い放った。
「お前の努力が足りなかったのだろう。商品に罪は無い」
「個人の問題でしょうか?私の友人たちも同じような――」
「たまたまだ」
手をひらひらと振って。
「統計的に有意な数字を持っているのか?」
それでもエレオノーラが反論しようとすると、リカルドは手を上げて制した。
「いいか、エレオノーラ。商売というのは現実だ。理想や感情で動くものではない。安定した収益を捨てて、不確実な理想を追うなど愚の骨頂だ」
エレオノーラは言葉を失った。
(お父さまは、やっぱり私のことなんてどうでもいいのね……)
でも諦めたくない。気持ちを切り替えて、何とかする方法を必死に考える。
(それでも、諦めるわけにはいかないよ。私みたいな子が育つのを何とかして防がなくちゃ!)
「領地へ行け。暇にしてるから余計なことを考えるんだ」
リカルドは机に肘をついて続けた。
「お前の婚約破棄とその賠償の手続きも終わった。もうお前がここにいる必要は無い」
彼は突き放すように言い放った。
「レイモンドを手伝いたいと言っていただろう。レイモンドの下で現実の厳しさを学べ。そうすれば、今の発言がいかに浅はかだったか理解できるだろう」
エレオノーラはその言葉を聞いてひらめいた。
(領地で、お兄さまがいるなら!)
希望の光が差し込む。勇気を振り絞った。
「お父さまこそ、目先の安定しか見えていないのではありませんか?」
書斎に重い沈黙が落ちた。
リカルドの青い瞳に、明らかな怒りが浮かんでいる。
「何だと?」
「本当に人々を幸せにする事業の方が、長期的にはより大きな利益をもたらすはずです」
「綺麗事を」
「綺麗事ではありません!証明してみせます」
エレオノーラは決然と宣言した。
「領地で新しい事業を始めさせてください。本当に足に合う靴作りと、子どもたちが健やかに成長できる育児支援を」
「夢物語を現実にできると?」
「はい。人々の真の幸せを追求すれば、必ず利益もついてきます」
長い沈黙。リカルドがエレオノーラの顔をじっと見つめている。
(……面白い。こいつがどこまで理想を貫けるか見てやろう)
「お父さま?」
「いいだろう」
意外な返答にエレオノーラの目が輝く。
「お前の理想主義が現実にどう打ち砕かれるか、存分に味わってこい」
リカルドの口調には皮肉が込められていた。
「ただし、レイモンドの監督下でだ。兄に迷惑をかけるような真似は許さん」
「ありがとうございます!」
エレオノーラは深々と頭を下げた。
そして、廊下に出たエレオノーラは、拳を握りしめた。
(絶対に、理想を現実にしてみせる。人々の幸せと利益、両方を手に入れてみせる!)
書斎にひとり残ったリカルドは、苦笑を浮かべた。
「理想主義者か……。現実を知れば、すぐに考えを改めるだろう」
机の書類に目を戻しながらつぶやく。
「まあ、若いうちに挫折を味わうのも悪くない」
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