夜語り企画参加作品『奇跡の軌跡』
秋月 忍主催『夜語り』企画参加作品です。
『夜』に加えて『氷』『月』『幻想』をプラスしています。
それは、とある湖の、ごく寒い晩にしか起こらない奇跡。
信州最大の湖〝諏訪湖〟は、冬になると全面結氷する。広大な水面はその戦ぎを止め、北方より訪れたる凍てつく風に身を委ねるのだ。
その諏訪湖を挟むように鎮座するのは諏訪大社。その宮は上社と下社に別れている。
上社には男神が、下社には女神が住まい、その奇跡は逢瀬の通い路だというのだ。
諏訪湖の氷の厚みが増し、雪女が喜びそうな冷え込みが数日続くと、その奇跡は起きる。
そして魂も凍えるこの夜、それは起きた。
大音響と共に、突如として湖面の氷が八ヶ岳の如く盛り上がる。メキメキと軋む音を奏で、次々と起立してゆく氷塊が伸びてゆく。冴えわたる月明かりは氷塊を燈籠とし、そこに仄かな群青の火を灯す。
月下に顕現する逢瀬の路。
その路は、上社から下社方向へと伸びてゆき、そして轟音と共に対岸へと達した。
上社側には、三つ揃えのダークスーツに身を包んだ、やや頼りなげな青年。
下社側には、茜色の紅葉が躍る振り袖に深紅の帯の、幼い女の子。
氷の燈火に照らされた逢瀬の路を、青年はおっとりと、女の子は悠々と、歩を進めていく。
湖面を滑るように進むふたつの影は、分水嶺を目指した。
湖の中央。お互いの姿がはっきりと見えはじめたあたりで、振袖の女の子が湖面を蹴った。
カラコロと紅の下駄を軽やかに響かせ、女の子は走った。ゆっくり歩み寄る青年が両手を開くなか、女の子は湖面を強く蹴る。
「どりゃぁぁっ!」
「のわぁぁぁ!っ」
掛け声一発、女の子は両足と下駄を揃え、青年の顔にドロップキックをおみまいした。
避ける間もなく直撃を食らった青年は背面とびの姿勢で滑空し、べしゃりと湖氷に落ちた。
流れるが如く華麗に着地を決めた女の子がダンと下駄を鳴らす。
「昨年も、その前も、御神渡りがなかったではないか! おぬし、浮気しておったろう!」
仁王立ちの幼女が、吠えた。
「どこの色狂いな女神に浮気しておったのだ、あぁん?」
女の子が首を傾げ眉を寄せた。言葉にしてはいけない強面幼女だ。
仰向けの青年はぐっと膝を曲げ、伸ばす反動で起き上がるやいなや胸ポケットからハンカチを取り出し、額にかいた大汗を拭いた。
「僕が浮気するはずないじゃないか」
にこやかな笑みを浮かべる青年に女の子は一歩踏み込んだ。笑顔で後ずさる青年。額には光るものが見えた。
「ほほぅ。じゃあなんで逢いにこなかったのかの?」
女の子の顔がぐらりと般若に変わる。
事実、ここ数年は気温が高く、御神渡りは起きていなかったのだ。
逢瀬の路ができない。つまり用がなくなった。すなわち〝浮気〟である。
「いやね、地球温暖化とかさあるわけでしょ? 環境も変わっていくものだからさ」
青年は頬をひきつらせながら、降参のポーズで女の子に近寄っていく。
だが女の子の表情は鬼気迫っていた。桃太郎を呼んでも治るまい。
「気合で寒気を呼べい!」
「僕って武勇の神様だから! わかって言ってるよね、それ?」
「武勇の神のくせに気合が足りな―い!」
女の子は下駄を踏み込み氷を蹴ると、フライングラリアットで青年の首に抱きついた。
御神渡りの、ちょうど中間あたりの諏訪湖のど真ん中。氷上に胡坐をかいた青年のその中に、振り袖姿の女の子がすっぽりと収まっている。
寂寥たる月はふたりのために温厚さを取り戻し、黒染めの夜空で兎と餅つきをしていた。
「やっぱりおぬしのひざの上は、いい」
「そう、よかった」
感慨深げに呟く女の子に、ほっと安堵の息を漏らす青年。ふたりは揃って月を眺めていた。
女の子に両手には名物のピーナッツせんべいと塩羊羹が握られ、はむはむと忙しなく口に運んでいる。月を見ているのかお菓子を見ているのか。甚だ怪しいものだ。
「もっとゆっくり食べなよ」
「時が惜しい」
青年が嗜めるものの、ぼりぼり食べる端からこぼれ落ちるピーナッツ。ため息ひとつ零した青年は彼女の振袖に転がったピーナッツを拾い、ぱくりと食べた。
「明日も、来るのじゃぞ」
羊羹で頬を膨らませた女の子が背を仰ぎ見た。口もとには餡子がついている。
「明日の晩も冷えるかわからないってばさ」
青年は柔らかな笑みで彼女の頭を撫でる。
「武勇の神ならシベリア寒気団を従えて来ぬか」
「僕、日本の神様だからね?」
「遠征はお手のものであろ」
「ホント君、無茶言うよね」
「返事はイエスかハイしか聞かぬ」
「……善処します」
「よろしい」
女の子は満足げに微笑む。青年は身をかがめ、女の子の口もとについた餡子をぺろりと舐めとった。幼女の肩がビクリと揺れる。
「いつまでもお子様なんだから」
「……ふん」
頬を赤らめた女の子はポスンと青年の胸に背を預け、月を見上げた。青年は女の子のつむじに顎をつけ、やはり月を見上げる。
「良い月だの」
「だねぇ」
「浮気は」
「してないってば」
「本当かの?」
「……君と何百年一緒にいると思ってるの?」
凪の湖面で、ふたりは静かに時の静寂に揺蕩っていた。
月が山に隠れると、湖面に浮かぶ密色の影は薄ぼけて行き、やがて夜闇に溶けこんだ。
あたりは、湖上を渡る寒風が吹きすさぶばかりだった。
この地方には、古くからの言い伝えがある。
厳冬の、良く晴れた夜。
湖上の御神渡りの、ちょうど真ん中で、騒がしくも仲睦まじく月を眺める、夫婦神の姿あり。
その姿を見た男女は、仲良き夫婦となるという。




