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後編

 

 一目あった瞬間、今までのすべての絡み合ったわずらわしい物想いを捨て去って、飛び込んで行ける存在。

 それが、私にとっての宗司という人だ――……。




 ドアを開けた時に、その大きな体躯と節ばった大きな手、そして見上げたときに深い黒の瞳に射抜かれて、私は思わず、


「宗司!」


と、その名を叫んだ。転げるようにはしりよって、彼に飛び込む。

 コートを着たままの逞しい両腕に、包み込まれるように私は抱きしめられる。


「お帰り、サヤ」

「……ただいま、宗司」


 見上げると、男らしいのどぼとけに続いて、逞しい顎のライン、きちんとそられた髭に無精ひげはない。

 手を伸ばして、そっと顎をなでる。


「今日は、顎がざらざらになってない」

「……去年、痛いって言われたからな」


 彼の言葉に、ふふっと笑うと、背後から大きなため息が聞こえた。


「父さん、母さん、僕のこと忘れるのは仕方ないとして…とにかくドアは閉めよう?近所に恥ずかしいよ」


 私と宗司は目を合わせて苦笑した。


********************



 テーブルに並ぶ料理を見て、宗司は目を丸くした。


「えらく、今年は豪勢だな。博も手が込んでるなぁ」

「懐都合は父さんのものだし、良い材料買えるいい機会だから、ちょっとはりきっただけだよ」

「博くん、この一年でずいぶんとお料理できるようになったんだね。私、今年はほとんど何もしてないんだよ……」


 テーブルに並んだのは、宗司のリクエストである野菜スープ。キャベツやじゃがいも、人参、たまねぎ、質の良いベーコンがたっぷりと入っていて、胡椒のきいた香りがする。もう一つのリクエストメニューであるマカロニグラタンは、今オーブンで焼いている途中で、甘くて濃厚なチーズの香りが漂いはじめている。

 博があらかじめ用意してくれていた艶やかなサーモンのマリネにはつけあわせに茹でたブロッコリーと人参が添えられ、見ためにも美しい。緑が鮮やかなグリーンレタスとベビーリーフのカリカリベーコンのサラダ。林檎が小さな兎にカットされて、グリーンの合間に飾られている。

 それらのそばに、いつのまにかフランスパンがカットされて網焼きされたものまで用意されていた。


「スープなら、母さん、飲めるんだよね?」


 鍋をかきまわしながら博がたずねてきたので、私はうなづいた。


「うん……一口くらいなら」

「それを飲ませたくて、博、今日一日がんばったんだろ~?」


 横から、宗司が笑いながら声をかけてきた。


「父さん、うるせーっ!」


 博が宗司をにらみつつ、そう返事をするのがおかしくて、私はまた笑ってしまった。きっとこうやって、二人は暮らしているんだ。

 だんだんと成長していく博。なんでも自分でできるようになり、親を助けてくれる存在になって。

 宗司は少しずつ年を重ねていく。

 私がいない364日をこうやって、過ごしているんだろうと思うと、胸が痛くなる。

 もうちょっとそばにいたい。

 もう少しながく傍で暮らしたいのに……。

 私の身体は、こちらの世界で長い時間を過ごせないくらいに弱っているのだった。

 


 15年ほど前。

 私は博の言うこちらより文明が進んでいる『異世界』において、研究職についたばかりだった。他の世界の生命体の生殖についての研究が主なテーマだった。

 私の住む世界では、人類の生殖力は衰えているといっていい。

 子どもを持つために、この世界で行われているような妊娠・出産という手順はまったく踏まれなかった。そもそも性欲そのものもほとんど持たない生命体になっており男女の交合が不可能だったのだ。こちらでいうポルノや成人指定されるような性を取り扱った作品が、貴重な古代の遺産的資料と扱われて博物館に収められているぐらいに……。

 ただ、かろうじて卵子と精子をつくる機能はのこっていて、それぞれ女性・男性から採取して体外受精、体外生育するのが普通となっていた。

 

 衰退の途をたどる生殖力に危惧した国家……国というより世界は、他の世界での「高度な知能をもつ生命体」や「複雑な文明を展開させている生命体」の『生殖力』について現地調査するというプロジェクトを打ち立てた。そして、他の世界に派遣される研究者が選抜されたのだ。

 そして、人型タイプの生命体が発展中の『地球』が存在する「世界」に派遣されるよう抜擢された中に、私の名も入っていた。

 地球上のさまざまな場所に派遣されていく中で、私の赴任地は東京だった。

 ……そこで大学で生命科学を学ぶ宗司に出会ったのだった。


 もちろん、世界の違うところから来たなんて、宗司にはずっと隠してきた。

 そもそも私には恋の観念はなかったから、宗司と『家族』となったのは異例中の異例だ。

 当時、彼の通う大学研究室に、薄茶の髪と目、色白の肌の私の外見が日本人的ではなかったために「留学生アルバイト」として潜入していた私は、最初宗司に資料のファイリングの仕方や研究の補助の方法を習っていた。そのうちに、彼に何度かいわゆるデートに誘われるようになった。

 「体質的な問題があって外食できない」と伝えていたので、行き先はいつも公園やら水族館やらだったけれど、研究室でも含めたら毎日のように顔を合わせていてすこしづつ親しくなっていった。


 ある日、寒空の下、宗司はまっすぐに私を見つめ、私の右手をしっかりと握った。


「サヤにどんな過去とどんな背負っているものがあったとしても、共に生きたい。喜びも悲しみもわかちあう、夫婦になりたいんだ。……どうか、俺と、結婚してくれ」


 心からあたたかくなるような響きをもった声で語りかけられた。

 翻訳機を通して私の脳内に響いているのだとしても、なにか全身にかけめぐる血が沸騰するような、すべてがぬりかわって私がうまれかわるような衝撃が、その言葉を受けた瞬間、突き抜けた。

 そしてまるで突き動かされるように、私は「この宗司と生きてみたい」と思ってしまったのだった。

 まるですべてが無垢になって、いちもくさんに心と体が宗司に向かって駆けだしてゆくような感覚が私をつつんでいた。 

 

 その後、すべてを明かし、さまざまな葛藤が私と宗司の間に起こったとしても、共に生きたいという願いは一貫していた。

 結局、私の元の世界のプロジェクトや研究者、国家の重要な人物達と多大な駆け引きをおこなうことになったのだけれど、なんとか……私と宗司は結婚し、その後、卵子と精子を採取して私の世界の技術を持って、博が生まれたのだった。


 博という子どもをもった今でさえ……私は性欲というものは持っていない。そして、食事も分かち合えない身体のままだ。それは9年、地球にいても、いくらいろんなデータを集めても変えようがなかった。

 そういう人間における重要な『性』も『食』をわかちあえないような私を伴侶にもったことで、宗司にこの地球人として大きな重荷を負わせてしまったのかもしれないと何度も思ってきた。夫婦でもそのことを話し合ったし、私も苦しかった。


 でも、博を交えて3人で暮らす中で、地球の生命体が築く『家族』というつながりの意味が、性や食を交わるだけじゃなくて、もっと深く多岐にわたることを教えられて……日々を過ごすことになって、私は恋を実感することも性を知ることも、食べ物を分かち合うことも出来なかったけれども、『家族』として生きてきたつもりだった。精一杯。

 5年前に、私が倒れる日まで。


 私が倒れる一年ほど前……この地球に研究者が降りてから7,8年たったくらいから、地球に降りた研究者たちに限って「目まい」「呼吸不全」「突然の意識消失」の報告が上がって来ていた。

 分析した結果、この地球に降り注ぐ太陽光の中に、私の世界の人類には強すぎる光線が混じっていた。

 私は特に、研究者として世界へ収集した情報を送るのと同時に、この慣れない世界で子育てというものに格闘していた。もちろん元の世界は、博の言う「異世界」の人間同士から生まれた子供の成長は、良い研究対象とみなしていたから。そのさまざまな角度からの目と戦い、どうか博が「実験体」として連れ去られることがないように……と神経をすりへらすうちに、その強すぎる太陽光による身体の不調と折り重なって、後戻りできないくらいに私は身体を病んでしまっていたのだった。


 結果的に、

 『元の世界の医療水準ならば、生きることはできる』

 『こちらの世界にいては、死を待つだけ』

と、いう診断結果が出た。


 私はこの世界にいることを望んだ。宗司と博の元にぎりぎりまでいたかったから。

 でも、宗司は……駄目だと言った。

「離れて暮らしても、サヤが生きている方がいい」と断言した。

 初めて見る宗司の涙に、私は何も言えなかった。

 宗司と博が、私の元の世界に一緒に来るという話もあったけれど、宗司と博の身体は私の元いた世界に渡る「方法」がなかった。こちらの世界で言う「魔法」のような目に見えない力をコントロールする術が、まだこちらの人類には扱えなかったから。

 


 子どもの博はまだ8歳。でも、もう8歳。

 一年に一回、会えるからねと何度も諭しての別れとなった。


 心は気にかかることでいっぱいだった。

 博の学校給食エプロンは誰がアイロンしてくれるの?博が帰ってきたときに、「おかえり」と出迎えてくれる人はいるの?博の上靴は誰が洗って、そしてサイズがきつくなったら、誰が一緒に買い替えに走ってくれるの?算数セットの名前書きは?新学期の雑巾縫いは?

 まだ博は小さくて、お風呂で背中をうまく洗えていないの。洗い残しはだれがきちんと洗ってあげられるの?熱を出したら、誰が氷枕をしてあげるの?毎日のご飯は……。

 いくつもいくつも、尽きることない口惜しさ。

 置いておくしない博が不憫で。小さな小さな生活の積み重ねを託す相手は、宗司しかいなくて、申し訳なくて。

 でも、生きていて欲しいと願われて。

 引き裂かれるような気持ちで、――この世界を離れた。

 

 そして、まるでこの日本に広がる七夕の物語のように、一年に一回、かろうじて身体が持つ12時間、宗司の誕生日に戻る。 

 


******************



「かんぱーい!宗司さん、お誕生日おめでとう!」

「父さん、38歳か……オヤジだな」


 宗司さんはワイン、博は炭酸水、私は特別な精製をされた水を口にして乾杯する。


 テーブルを三人で囲む。

 博のおかげで、今年の食卓は盛り沢山だ。

 マカロニグラタンも、あつあつで焼きあがって、白い湯気を立ててテーブルに置かれている。




「では、博くんの作ったスープ、いただきます」


 私はそっと大切に、スプーンで淡い透明感のあるスープをすくった。

 口にすっと含む。

 私には口に、舌に感じる味が、何のどの野菜や調味料がもたらすものかはよくわからない。

 でも、口に含んだ柔らかく舌先から口の中全体にすっと沁み渡っていく味は、私の記憶に深く刻まれていく。

 たった、ひと口。

 ゆっくりとのみ込む。喉からすっと私の身体の奥へと流れていく感覚がした。


 博の方を見た。

 博はじっと私の口元を見ていた。

 

 こんなに柔らかであたたかなものを作り出せるようになったということに、私は目の前の命に感動していた。

 この子のこうやって大きくなる毎日を……そばで、見ていたかった。

 こんなに上手に野菜を切れるようになるまでの、その過程を見守っていてあげたかった。

 どんなに練習したことだろう。

 どんなに失敗したことだろう。

 どんなに指先を痛めたりしたことだろう。

 今日のこの、きっと美味しいとこの世界で評されるだろう……深くてまろやかなスープを作れるまでに、どれだけの成長を遂げる必要があったのか…。


 ――……その姿を見ていたかった。


 あふれ出しそうになる、そんな思いを、私はぐっと、さきほどのみ込んだスープに重ねて、もういちど心でのみこんだ。

 

 ――……何も、悔いてはならない。


 私は、口もとに笑みを浮かべた。


「博、おいしいよ……」

「母さん」

「ありがとう…。とっても、美味しい。きっと、ずっと、忘れない」


 私が心をこめて告げると、博ははにかんだ様に一瞬目を細め、うつむきかげんに目をそらした。

 

 宗司の方に目をうつすと、宗司は私と博を見ながらあたたかく微笑んでいた。精悍な逞しい顔つきなのに、笑むと柔らかくぽかぽかの陽だまりのようなあたたかな雰囲気になる宗司。

 そのどっしりとすべてを包むかのような存在感にほっとする。

 

「ね、マカロニグラタン、食べてよ!ホワイトソースはちゃんと私が作ったのよ!」


 ちょっと意識的に声を明るく高めて、私は言葉を放った。

 その声に、博は顔をあげる。もうさきほどのはにかむような表情はなく、ニヤッとからかうような少年の顔に戻っている。


「……計量は僕がしたけどね」

「もう、博ったら!黙ってくれててもいいのに」


 私が応酬すると、宗司が「まぁまぁ、サヤが作るんだったら、どれでも嬉しいから」と、どうも褒めことばにならない言葉を漏らしながら、マカロニグラタンにスプーンを伸ばしてくれた。

 あつあつと思わしきチーズの伸びるグラタンを器用にすくって、宗司は口に運ぶ。


「ど、どう?」

「ん……、お、これはうまいぞ!博の計量とサヤの丁寧な混ぜ方がうまく合ってるぞ。親子の共同作業だな!」


 そういって、宗司は満面の笑顔になった。


「妻と息子からの愛情がたっぷり伝わるでしょ?」


 私が言うと、宗司は嬉しそうにうなづいた。


「あぁ、俺って幸せ者だな。愛してるよ、サヤ」

「あら、私もよ、宗司さん」

「……父さん、母さん。そういうのは、僕が寝てからにしてください」


 この言葉と博のため息が、私と宗司の笑いを盛大に誘ったのだった。



 その後、宗司と博はよく食べた。

 鍋でホワイトソースを作っている時は、木べらが重たく感じるほどの量に思えたのに、宗司と博はまるで競うかのように口に運び、二人であっというまにお皿を空にしてしまった。サーモンのマリネはつぎつぎに、すべるように宗司さんと博の口に運ばれていき、こんもりと盛られていた緑の可愛らしいリーフレタスのサラダはみるみるうちにガラスの器だけになってしまい、スープがたっぷり入っていたはずの鍋は底が見えた。

 

「な、なんか、本当によく食べるのね……」

「え、あ、うん」


 顔をあげて博がうなづいた。


「なんかね……中学入学してからくらいかな。僕、いつもおなかがすいてる感じになって。あ、食べてないわけじゃないよ?そうじゃなくて、身体がどんどんエネルギーを使っていく感じがわかるんだ。次に補給しなきゃって気が、いつもしてる」


 博の言葉に、私はちょっと怯えて宗司さんの方をみた。


「ねぇ、こういうもの?何か病気とかそういうのじゃ……」


 宗司さんは笑って言った。


「違うって。俺だって、中学生、高校生のときはこれぐらい食ってたよ。学校から帰って来て、おやつみたいにうどんとか焼きそば食べて、なければ白飯。それで夕飯も普通に食べてたからなぁ。牛乳とか一リットルパックのままガバガバのんだりとか。もちろんコップつかわず」

「うわぁ……」

「まぁ、ラグビーやってて体力つかってたせいもあるんだろうけど。そんだけ食べても太らなかったし」


 宗司さんの言葉に私が絶句していると、博が横から、


「僕はそこまで食べないよ、さすがに…」


と、ぼそりと言った。

 宗司は熱くなってきたのか、両腕のシャツをまくしあげてワインに口をつける。


「う…ん、まぁ、俺はよく食べる方なのかも。ワインも、こんな小さいグラスじゃすぐ飲み干すからつぐのが面倒……」

「父さん……」


 小さな声で博が「ビールじゃないんだし」と言いつつも、あいたグラスに注ぎ足している。そういうワインの瓶もほとんど空いてきているようだった。


 空いたお皿は流し台に運びつつ、博の学校でのことや、宗司との暮らし、この一年間のことをたずねる。

 宗司が「サヤに見せようと思って、撮りだめしてたんだ」と言って、アルバムを見せてくれる。並ぶ写真は、小学校の卒業式や、親子で出かけた時や、中学校の制服姿の博の姿だった。照れるようなイヤそうなそぶりをしつつも、博は「母さんは見てないから仕方ない」と言って、写真にうつっている状況や出来事についてひとつひとつ説明してくれる。

 そうして、賑やかに三人の時間は過ぎていった。


 お茶を入れ替えたり、飲み物をついやしたり。

 棚の奥にしまってあったらしいお菓子を引っ張り出して開けたりなんかしながら、どんどん時はたち、日付が変わる前に博がふっと席を立った。


「じゃあ、僕は自分の部屋に退散するから……夫婦水入らずで、どうぞ」


 そう言って、ひらひらと手を振ってリビングを離れようとした。


「博くん……」


 私が声をかけると、博はひらひら振っていた手を握っておろした。

 そして、無意識なのかちょっと小首を傾げた。

 その少し首をかしげて立つ姿が、昔の面影と同じで……そして、それはふとしたときに宗司の姿にも重なった。

 

 博は私が言葉を発する前に、すっと言った。


「今年はさ……もし、許してくれるなら、見送りたい」

「え……」

「5年前からずっと。僕が寝てる間に、帰っちゃうだろう?」

「あ……うん」

「もう、起きられるよ」

「すっごく、早起きになっちゃうよ?」


 私がそう言うと、博はくしゃりと顔をゆがませた。


「……馬鹿だな、母さん。僕も、朝まで起きていられるようになったんだよ」


 泣き笑いのような……涙はどこにもないのに、まるで静かな春の雨を背負っているかのような博の表情に、心がきゅっとなる。

 

「そっか……。徹夜もオッケーになったんだ。博、かっこよくなるわけだね」

「ま、そういうことだから……夜明け前に、また、ね」


 そう言い残すと、博はもう振り返らずに玄関側にある自室に入っていった。

 ダイニングのテーブルについたままの宗司を振り返ると、宗司は目を細めた。


「一緒に、食器洗い、しようか」




 シュッシュッと手際よく洗っていく宗司の隣で、私は洗いあがった食器を拭いていく。

 そうして流し台の前に並んでいると、この世界を離れる前の頃と同じような気分だ。


「ごめんね……。私と結婚したことで、外食もできなかったね」


 私が皿を受け取りながら宗司に声をかけると、


「家で食べることが何より好きだから、いいんだよ」


と、宗司は平然と答える。


「それにさ、家でメシ食う醍醐味じゃないか?こうやって並んで食器洗えるの」

「面倒じゃない?」

「一人だったら、面倒さ」


 宗司は言葉を続けた。


「でも、二人だったら……特に、サヤと一緒だったら、全然面倒じゃないよ」


 そう言って、ちょっと照れたように笑った。

 その揺らぎのない声色に何度助けられたかわからないな……そう思いながら、宗司に甘えている自分も感じる。

 宗司は洗い終わったスポンジを絞って水をきり、スポンジ受けに直す。案外几帳面に水をきっていて、その手元を見つめていると、ふっと宗司が私の視線に気づいて、


「博のやつ、最近、後始末にうるさいんだ。水をとばしたままにするなとか、水滴が残りすぎだとか、洗剤の置き場所が違ってる、とか」


と言って苦笑する。


「綺麗に磨かれてるものね」


と私が言うと、宗司は苦笑を微笑みに変えた。


「まぁ、あいつは実際、真面目だよ……。でも、来年は覚悟しておいた方がいいかもな?」

「え?何を?」

「反抗期に入って、いろいろと……ややこしいことも言い始めるのかもしれんな。言わせてやらなきゃならないだろうし」


 話しながら、二人で拭き終わった食器を一緒に棚にしまったあと、台拭きで流し台の水気をもう一度とりさった。

 鍋や食器が元にもどされ、キッチンも台所もしずかな風景に戻る。

 

 宗司と私はリビングのソファに移動した。


「今日も博に、私の住む世界のことを聞かれたわ……初めてのことで、成長を感じたわ」


 私がソファに沈み込むように座って、そう言うと宗司は笑った。


「俺もよく聞かれるようになったよ。どうやって出会ったの、とか。不安はなかったのか、とか」

「そう……成長していくのね。すべてに、それを感じるなぁ」

「あいつ、朝、髭をそる日もでてきたんだぞ?まぁ、まだうっすらとだけど」

「……」


 宗司の顔を見ると、宗司は手を伸ばして私の薄茶色の髪を一房とった。梳くように髪先をいじる。


「そんな不安そうな顔をしなくていい。大丈夫だ。こんだけメシを食っていれば、体だって成長するさ」

「いつか、博も、誰かと恋をするのかしら?」

「そうだろうな。もう、してるかもしれないし、まだかもしれん。そこまでは、もう俺にはわかるようでいて、わからんなぁ」


 私は不安をのみ込んだ。

 博は私の遺伝子を半分受け継いでいる。

 彼の身体にどのようにそれが影響しているのか。

 赤ちゃんの頃からミルク、離乳食、幼児食……と成長してきて、食欲はあるのは分かっている。でも、性的な成長はどうなるんだう…。


「こら、サヤ。いろいろ思い悩んでも、今、答えがでるわけじゃないぞ」


 宗司が私の頬をつっついた。

 見上げると、彼の黒眼が優しげに私を包んでいた。


「俺たちだって、結婚するのに多く障壁があって、一緒に乗り越えただろう?あいつも、やっていける」

「でも…博は、ひとりじゃない?」

「ひとりじゃないさ。俺もサヤもいるし、あいつにはちゃんと友人たちもいるよ」


 宗司がそっと私を引き寄せたので、私は彼の肩にぽすっと頭をのせた。

 身体にぬくもりが伝わり合う。


「サヤの方は……やっぱり、こちらで暮らせるぐらいには、身体はよくなってない…のか」

「うん」

「つらいところは?」

「ううん、ふだんの生活も大丈夫だし、今も、つらくないよ」

「……一緒に暮らす方法は……俺がそちらに行く能力や機械が開発されるのを待つしかない、か」

「いろいろ、働きかけてるけど……」

「難しいか」

「難しいけれど、完全に無理なわけじゃない」

「うん、希望はあるんだな」

「ある」


 私の返答に、宗司は頷いた。



*************



 時は過ぎる。

 闇は東からそっと遠のいてゆく。

 ピンク色のようなオレンジ色のような空が東の果てに現れだしていく。

 まだ、圧倒的な光は現れていない。

 それでも、空の色はうつろいはじめ、空気の流れが変化しはじめる。



**************



 カーテンの開けたサッシ窓の向こうの空がうつりかわりはじめるとき、どこか空気がしんとしずまりかえる。

 夜明けが近付いている。

 ソファでならんで話し続けていた私と宗司は、いつのまにか絡めるようにつなぎあった手をもう一度結び合わせるようにつなぎなおした。

 どちらともなく、顔を寄せ合う。

 頬刷りするように彼の頬にくしゅくしゅと顔をくっつけると、少しざらざらした感触がした。さっき、出迎えた時はつるつるの顎だったのに。


「不思議……」

「何が?」

「なんでもない」


 私と宗司はどちらともなく、顔をはなして、そして視線をからませあった。そして唇を寄せた。


 唇をはなした時、宗司はちょっと眉根を寄せて言った。


「時が過ぎるのは…はやいな。早すぎるな」

「そうだね」


 夕方から夜明けなんて……あっというま。

 でも、つるつるの顎が少しザラザラになって。

 その夜を重ねて、一年になり、博のように見るたびに大きく変化していく。

 名残り惜しくても、時はうつろっていく。


「博を……呼んでくるね」

「一緒に行こう」

 

 私と宗司は二人で博の部屋のドアをノックした。

 カチャリと開けた博の姿は、さっきのままだった。目もたいしてねむそうじゃない。


「本当に夜が明かせるようになったんだね」


 私が言うと、博が「まあね」と微笑んだ。


 リビングに戻って、宗司と博に向かい合った。

 少しずつ空の色が明るみを増している。

 こちらを離れる時間がせまっていた。


「博、ありがとう。おいしかったよ。また来年くるね」

「うん」

「宗司さん、ありがとう。……博のこと、ここまで大きくしてくれて、ありがとう」

「……サヤ、元気で」


 私は二人に微笑んだ。


「博、お母さんの姿に驚かないでね?でも…これが本当の姿でもあるから…見てもらえて嬉しいよ」


 私は二人から数歩離れた。

 私は、自分の内に流れる魔力の方向を変更した。

 今、私の身体にまとわせていた紺色のワンピースの組成を本来の姿に……背からのびる羽と身体を覆う薄衣に戻す。

 元の世界にまで飛び立つための力の要素である、羽と身体を守るバリア。

 私の身体は弱っているから、羽の色は薄桃色と黄色の淡い光を交互にはなっているだけだけど、万全のときは虹色に輝く。


「母さん……」


 博がまぶしそうにこちらを見た。そして、宗司から5年前に……ここを離れるときに『毎年、これを作る約束』として渡されたレシピの紙を渡された。

 私は発光しはじめた自分の指先でそっとその紙を受け取る。

 紙じゃ…なかった。


「ラミネートしておいた。傷むだろ?」


 この後に及んで、まだ泣かせる気なのかしら。


「……ありがとう」


 言葉になったかどうかわからない。

 どんどん力が体中を回り始め、この世界から飛び立とうとしはじめる、このカラダ。

 宗司を見ると、


「待ってる。来年も、一緒に食べよう。一緒に…過ごそう」


 そう、唇が動いているのが見てとれた。


 それが最後に、私の身体は元の世界への飛翔を開始した。




*****************


「母さん……なんか」

「なんか?」

「ティンカーベルみたいだった」


 二人きりになったリビングで、男と少年が立ちつくしている。

 何もない中央の空間を見つめていた男は、少年の言葉に微笑んだ。


「ティンカーベル、か。俺は毎年『真夏の夜の夢』のようだと思う」

「今は秋…晩秋だけどね」

「晩秋の夜の夢、か。ロマンチックなんだか、枯れ果ててるのか微妙だな」


 男の苦笑がリビングに響く。


「父さん、ほら、気落ちすんなよ。ほら、目標があるじゃん、来年まで、体型維持しとかなきゃ!」

「……」

「母さんの姿、かわいいままだろ?良く食べる父さんが、来年、出っ腹のオヤジになってちゃ、一年一度の逢瀬もかなわなくなるんじゃない?」

「おまえな……」

「僕と同じ速度で食べてちゃ、駄目だよ。ほら、気落ちした時は?」

「……ジョギング、だな」

「でしょ?」

「……着替えて、ひとっ走り、行ってくる」


 男がシャツを着替えにいき、リビングには少年ひとりになった。

 少年は冷蔵庫を開け、昨夜の炭酸の残ったペットボトルを手にとる。

 そのとき、料理につかったひよこ豆の残りが入った容器と、ビニール袋にくるまれた人参の姿が目に入った。

 野菜室ではなく、野菜を冷蔵庫の中央に無造作に入れたのは……おそらく、少年の母親に違いなかった。

 そのビニール袋に巻かれた人参をそっと手にとって、少年は少しだまっていた。


「おいしいか…おいしくないかなんて、わかんないくせに。母さんたらさ」


 ぽつんと、声が響く。


「あんな顔されたら……、また、来年まで頑張ろうって気になっちゃうじゃないか」


 誰の気配も、なんの姿も見えない台所。


「たった、ひと口でもさ……」


 ポツンとしずくが床を小さく濡らした。


「僕は、家族の食事だなって思ってるよ」




**********************


 ピーピーピーピー

 電子音が鳴り響く。

『また何か地球の食物を摂取しましたね?』

 ベッド際で、医師がため息をついた。

『万全な身体じゃないのに、さらに他の世界の物質を摂取するなんて、無茶ですよ』

 医師の言葉に私は微笑んだ。

『息子が作ってくれたスープなんですもの』

『息子?スープ?なんですかそれらは?』

『良薬です』

『良薬?良薬で、こうやって倒れ込んでちゃ、いけないでしょう?』

 医師はツンツンした言葉を吐きながらも、横になった私の身体の上でめくれてしまっていた布団を優しげなてつきでなおしてくれた。

『来年まで、また力をためないと。また体調管理のご指導、お願いいたします』

 私がそう言うと、この口だけは厳しいけれども心強い友でもある医師は、

『”世界渡り”は体力消耗するからおすすめしませんけれど、患者の強い要望では仕方ないですね』

とため息をつきつつ、了承してくれた。


 一年ぶりの世界を飛んだことと、スープをくちに入れたことで起き上がれなくなってしまった私は、それでも心が幸せだった。

 そばにいて助けられないという無力感はあっても。

 また、来年、共にわかちあう時間があると信じることができることは、弱る身体の中でたしかな希望。


『そういえば、翻訳機の方、排出させていいですか?』

『お願いします』

 そう答えて、一瞬、自分の口から言葉が滑り出た。


「また、いっしょに、おうちでつくって…たべようね」


『え?何かいいました?』

『いいえ、特に』

 

 

 ――……また、来年ね。

 私は、眼裏にうつる二つの影と、口の中にしみわたって残る味わいに、次に会う約束をしたのだった。




 Fin



10/30 誤字訂正。文章のおかしいところと、説明不足を追加しました(内容に変更はありません)。

11/5 誤字訂正。

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