給油所
教室には、ついさっきまで初対面だったことを忘れてしまうほど、自然な笑い声が広がっていた。
西側から来た転入生という物珍しさも、菜月の人懐っこい笑顔の前に、気づけばもう誰も気にしていなかった。
皆の質問がひと通り終わったところで、志織も口を開いた。
「小泉君、俺も聞いていいかな」
その呼びかけに、菜月はぴたりと動きを止めると、私をちらりと見た。
「……?」
私はその沈黙に察するものがあって、軽く首を横に振った。
「あ、私じゃなくて、小泉さんのことだよ」
『さん』なんて、 学生同士ではあまり使わない呼び方だけど、西側出身の菜月にはそれで伝わるはずだった。
「え?」
菜月は自分を指さして、首を傾げた。
「私? ごめんごめん。夏樹君のことかと思っちゃった」
志織は、はっとして言葉を飲み込んだ。
西側では、“くん”は男子につける呼称。
それは菜月にとって、疑う余地のない呼吸のような常識なのだ。
確かに、私も「夏樹君」と呼ばれて、一瞬自分のことだと気づけなかった。
「こちらこそ、ごめんね。紛らわしかったかな」
「ううん」
菜月は少し考えるように視線を泳がせた。
「ただ、そう呼ばれたの初めてだったから。……あ、じゃあさ! お互いの慣習で呼び合おうよ!」
「慣習?」
「私のことは『菜月ちゃん』で、志織さんは『志織君』。それがお互い自然でしょ。先生も無理に合わせなくていいって言ってたし、ね?」
志織はわずかにためらったものの、控えめに微笑んだ。
「そうだね。女子に『ちゃん』づけするなんて不思議な感じだけど。わかった、菜月ちゃん」
「私も! なんだかくすぐったいね、志織君!」
菜月が屈託なく笑うと、いつもは完璧に見える志織が、少しだけ照れたように目を細めた。
彼女がこんなに年相応な顔をするなんて、初めて知った気がする。
そこでふと、あることに気づいて私は思わず笑ってしまった。
「はは……。 でもさ、それだと結局、区別がつかないままだよ」
「え?」
「だって、志織君は私のことを『夏樹ちゃん』って呼ぶでしょ? 小泉さんのことも『菜月ちゃん』だし」
「「あ……」」
二人は顔を見合わせ、同時に笑い声を上げた。
「本当だね、どっちを呼んでも『なつきちゃん』になっちゃう!」
「これは余計にややこしいな」
志織が困ったように、でも楽しそうに首を振る。
「いいよいいよ、それで! なんだか面白いもん!」
菜月のその一言で、空気はさらに軽くなった。
その翌朝には、菜月は廊下で他のクラスの生徒たちにまで囲まれていた。
何かを話すたびに輪が弾み、別れ際には大きく手を振って教室へ入ってくる。
席に着く前に、そのまま志織の肩をぽんと叩いた。
「ねえ志織君、今日ペロンチェに行こうよ。 さっき駅前にあるって聞いたんだ」
「え、ペロンチェ?……俺達二人で?」
志織が、戸惑いを隠せないといった様子で聞き返す。
「西側ではよく友達と寄ってたの。あ、もしかして寄り道は禁止なの?」
「そういうわけじゃ……。ただ、あそこは男子の方が詳しいからな」
困ったように視線を泳がせていると、そこに弾むような声が割り込んできた。
「あっ、ペロンチェ? いいねえ、ちょうど糖分が切れてたんだよね」
小春が机を飛び越えそうな勢いでやって来た。
「ナイス提案! あそこの『ゴリ盛りブドウ糖シェイク』好きなんだよね」
「ゴリ……? なにそれ、新作? 小春ちゃん、詳しいの?」
「まーね! 夏樹ちゃんも行くでしょ? はい決定!」
その勢いに流されるまま、放課後、四人で向かうことになった。
しかしそのペロンチェは、菜月の知っているものとはあまりにかけ離れていたようだった。
「うそ、ここがペロンチェ?」
菜月が、目を丸くして絶句した。
店内は明るいLEDに照らされ、無機質なカウンターが並んでいる。
壁には、巨大な文字が躍っていた。
『高効率糖分補給』
『即効性ブドウ糖200%』
『集中力持続30分保証』
「なんだか、カフェっていうよりも給油所みたいだね」
「実際、そういう扱いだよ。私たち男子にとって、糖分はただの燃料だから」
菜月の言うカフェがどんなものなのかは分からないが、そう呼ぶのだけは、妙に納得できた。
志織も少し居心地が悪そうに、頷いた。
「楽しむものじゃない。労働者達が次の作業を効率的にこなすために、素早く摂取するものだから」
作業着姿の男たちが黙々とドロドロのドリンクを喉に流し込み、数分でチャージを終えて店を出ていく。
「そんなの、寂しいよ……」
菜月は、自分の知るペロンチェの名残を探すみたいに、きょろきょろ見回した。
「新作の味にびっくりしたり、どうでもいいお喋りをして長居する場所だったから」
「あはは! さすが西側、のん気だねえ」
小春が無骨な容器を菜月に手渡した。
「ほら、期間限定のゴリ盛り。 甘すぎてびっくりするよ!」
その明るい声だけが、無機質な店内に響いた。
「場所が変わると、同じお店でも役割が違うんだね」
それは、ただのカフェの話ではないのだと、なんとなく思った。
東側では、場所も言葉も、人のあり方さえも、どこか決められた役目みたいなものがある。
菜月の瞳には、私たちがどう映っているのだろうか。
口に含んだ飲み物は暴力的に甘く、けれど今日はどこか味気なかった。
店を出る頃には、すっかり夜になっていた。
「あ、そうだ!」
沈んでいた表情を無理やり明るく塗りつぶすように、菜月が顔を上げた。
「みんなで写真撮ろうよ、 記念に!」
「えっ、写真?」
志織が足を止めて、困惑したように聞き返す。
「こんな場所で、何の記念?」
「何でもいいの。皆でペロンチェに来たって記念。ほら!」
半ば強引に並ばされ、スマホが掲げられる。
「みんな笑ってー。はい、チーズ!」
硬いシャッター音が響く。
画面の中に収まったのは、どこかぎこちない顔の私と志織、姿勢よく胸を張る小春、そして――。
「なんか、これ。卒業写真みたいだね」
志織が画面を見つめながら、ぽつりと呟いた。
小春も覗き込んで、何気なく笑う。
「菜月ちゃん、転校してきたばっかりなのに。このまま別れちゃうみたいじゃん」
その冗談に、菜月の指がピクリと止まった。
「……え?」
私が異変に気づいた時には、もう遅かった。
菜月の大きな瞳から、ぽろりと、一粒の雫がこぼれ落ちた。
「ええ!? どうしたの!?」
「ご、ごめんね! 私、何か変なこと言っちゃった!?」
志織と小春がパニックになって慌てる。
私も言葉を失って、ただ立ち尽くしてしまった。
菜月は慌てて手の甲で目元を拭うと、ふにゃりと力なく笑った。
「ごめんね、違うの。期間限定って思ったら、なんだか急にね」
「期間限定?」
志織が不思議そうに首を傾げる。
菜月は深呼吸をすると、さっきよりもずっと晴れやかな笑顔を向けた。
「ううん、何でもない! やっぱり、ペロンチェは、どこに行ってもペロンチェだったよ」
「ええ? なにそれ、意味わかんない!」
「本当に、菜月ちゃんは不思議な人だね」
二人が呆れたように笑い出した。
菜月が何を思い、なぜ泣いたのかは分からなかった。
けれどその写真には、さっき飲んだドリンクよりも温かい甘さがある気がした。




