通過儀礼
翌日の教室は、拍子抜けするほどいつもの雰囲気に戻っていた。
昨日の騒ぎなんてなかったみたいに、もう誰も何も言わない。
今日の授業の教科書を、時間割通りに並べていると、扉が開いた。
志織が毎朝の時間通りに教室に入ってきた。
歩幅は一定で背筋は伸びている。
昨日の揺らぎがまるで嘘みたいに、いつも通りの涼しい顔で皆に挨拶を交わしている。
一瞬目が合うと、席に鞄を置いてから、こちらに手を振ってきた。
「おはよう。昨日は、ありがとう」
「別に。勝手に止めただけだよ」
「ううん、ほんとうに助かったよ」
いつもより少し柔らかい声が返ってきた。
「鏡見たときにさ、もう自分のなかで答えは出ていたんだよ」
「答え?」
正直、触れられたくない傷跡のようなものだと思っていたから、志織の方からさらりと続けてきたのは意外で、一瞬だけ言葉に詰まってしまった。
「違う、って。西側のセーラー服姿は、俺じゃなかった」
迷いを振り切ったような、まっすぐな瞳だった。
「だから教室で何を言われても、別にどうでもよかった」
「似合ってる、とか言われてたけど」
「まあ、そう見えるんだろう」
本当にどうでもよさそうに、笑いながら肩をすくめる。
けれど、その頬にはわずかに照れくささが滲んでいた。
「たださ。自覚することと、恥ずかしさって別問題なんだよね」
「うん。そうだろうね」
私が頷くと、志織は真剣なまなざしで、私の机に両手をついた。
「夏樹ちゃんがあそこで止めてくれなかったら、恥ずかしすぎて今日は学校来れなかったかも」
「え?」
思いもよらない言葉に目を瞬かせると、志織は「なんちゃってー」と、満足そうな笑顔でぱっと両手を広げた。
「じょーだん!」
その軽さに、一瞬置いていかれる。
前なら、そんなからかうようなこと言わなかった。
「来ないと、負けた感じするしね」
くすっと笑うその顔は、どこか垢抜けて見えた。
迷いが抜けると、人はこんなに変わるものなのか。
「……スッキリした?」
「してる」
少しも迷いのない声だった。
「東側でいい、じゃなくてさ。東側がいい、なんだ」
その瞳に射抜かれた瞬間、背中を押されたような心地がした。
気づいている顔だ。
その確かな言い方には、義務も諦めも感じられなかった。
志織は、最初から迷ってなんていなかったんだ。
昨日は、それを自分で確認しただけだ。
だから、その軽くて明るい表情が少しだけ眩しかった。
「私も、なんだか考えさせられたよ。ありがとう。」
「そう、なら良かった。でも、参考になるという点では俺よりも、もう一人のなつきちゃんが適任だろうな」
軽く言うその言葉には、逃げも誤魔化しも感じられなかった。
もう、余裕がある。
片手を上げて席に戻ろうとする背中を、少しだけ目で追う。
東側がいい。
あんなふうに言えたら、どれだけ楽だろう。
私はまだ、どちらに立てばいいか迷っている。
でも志織は違う。ちゃんと自分の足場を見つけている。
そのことが少しだけ、羨ましい。
そしてほんの少しだけ、怖い。
ちょうどそんな話をしていると、菜月が手で顔をあおぎながら教室に入ってきた。
「おはよー。今日も暑いねー」
昨日の騒ぎの張本人は、いつも通り元気だった。
むしろ昨日より元気かもしれない。
席に向かいながらこちらに気づくと、駆け寄ってきた。
「あ、志織君。今日ちゃんと来たんだね!」
「そりゃあ、来るでしょ」
「えー、昨日あんな顔してたのに?」
菜月のからかうようなセリフには、他意は全く感じられないから不思議だ。
実際そんなつもりも毛頭ないのだろう。
「どんな顔だよ」
とぼけたように、軽い声で返す志織に、菜月はにやにやとした。
「でもさー、似合ってたよ?あれ」
「はいはい」
「可愛いって、皆にも言われてたじゃん」
「言われてたね」
「どうだった?」
「嬉しかったよ。実際可愛かったからね」
「おっ、おお?言ってくれますねー!」
一瞬目を丸くしたかと思うと、満足げに頬を緩めて肘でグイグイと小突いた。
志織の声色は軽いが、あれは菜月に合わせた返しだろう。
そんな気の利いた冗談、昨日までは言わなかったはずだ。
「じゃあさ。冬服になったら、またやろうよ!」
「それは勘弁してー」
大げさに手を合わせる志織に、菜月は心底楽しそうに笑う。
本当、垢抜けたと言うよりも、越えた先が見通せたんだな。
そうこうしているうちに、登校してきた小春が菜月に気づいて手をあげた。
「おはよう、菜月ちゃん!元気?」
「もち!元気、元気!」
弾むような声をかけられると、ぐっと片腕を曲げて力こぶを作ってみせた。
「今日は東側の制服じゃないんだ、楽しかったのに」
いつものようにからかう調子で笑った。
「大変ご満足をお掛けしました!」
小春の調子にわざとらしく合わせて肩をすくめた。
そう言って笑うと、二人は昨日見せたようなツイストまがいのステップを軽く踏み始めた。
イエイ、イエイ、と。
それを見た志織が目を丸くして私の方へ顔を向けた。
「ねえ、もしかして。菜月ちゃん、昨日教室で踊ってた?」




