第一節 建国祭(4)
シュアンユエが国賓として離宮へと通されたのは、陽が落ち森の木々が静寂の闇に包まれた頃であった。
けして待たされたわけではない。
街を見て回りたい、と申し出たところ、陽の落ちる時間に離宮に来てはいかがかと、アルタイア側からの提案があったのだ。
それにはアルタイア側の事情もあるのだろう、とシュアンユエは予想していた。
「ジョンファ側に、是非見てもらいたいものがある」
という、表向きの理由が一つ。
「周辺国の中で最大の勢力を持つジョンファへの配慮と牽制、それを行うにあたり、ジョンファ側の申し出は、都合が良かったのだろう」
というのが、もう一つ。
この国との交渉は、いつも腹の中の探り合いだ。
「痛くない腹の内を探られる」
と言い放てるほど、どちらの国も清らかではない。
清らかなのは、傍らを過る景色そのものぐらいであろう。高原地帯らしい澄んだ空気のためか、星々が煌めく夜の空は、その深淵まで覗けそうなほどに透き通っていた。
「この国の夜空は、気に入っていただけましたか?」
いつの間にか側に歩み寄ってきていた宰相のシャオユが、シュアンユエにそう語りかけた。
彼女の声色は、まるで燭台に灯した炎の揺らぎが、そのまま音となって耳に届いたかのようであった。その声を聴くだけで自然と心が休まるほど、心地よい響きを伴って。
「ずいぶんと遠くまで見通せるのですな。星の巡りを占うにはよさそうだ」
その言葉に、シャオユは微笑みを浮かべた。
「そうでしょう? 実はこの場所に、観象台(天文台)を築く計画があるのですよ」
彼女はそう答えただけであったが、何故アルタイアがこの時刻を指定したのか、理解し得た気がした。
「暦を改めるのであれば協力する。だが、直接的な言質は取らせない。」
と、そう申し出ているのだろう、と。
日々天文学が進歩しているとはいえ、その精度はまだまだ発展途上。農業に適した暦を制定することは、正統なる王朝の使命である。それを踏まえた上での発言なのだ。
目の前に佇む女性は、ただ微笑んでいるだけのように見える。
それなのに、与えるべき情報は与え、秘する情報は秘している。若さに似合わぬ老獪さであった。宰相という重責を与えられたのは、単なる実務処理能力以上のものが、確かに彼女にあったからなのだろう。シュアンユエはそう考えた。
「ところで私の妹だが、あのじゃじゃ馬は息災か?」
ふとそう問いかけた。
その問いを聞いた時のシャオユは、微笑みと共に、まるで幼子を目の前にしたかのような優しげな眼差しになった。慈愛に満ちたその視線の先に、風に吹かれた桜が舞い落ちてくる。
「閣下も驚かれることと思いますよ。今は近衛の者を束ねる将なのですから」
その言葉とともに、今度はいたずらっぽい笑みを浮かべて囁きかけた。
「我が国の聖上は、相も変わらず、あなた様の妹君を常に離さず、身辺に置いておいでです。あれほどの剛の者が、聖上の側に控えているのです。宰相の任を預かる身としては安心しますが、一人の女としては妬けてしまうほどですわ」
シュアンユエは一瞬、返答に詰まった。
いつものような軽口や皮肉を言おうとして、そしてできなかった。
女性としての嫉妬と見せかけて、二人の仲が親密であることを匂わし、その上でこちらの出方を伺う。
その言葉の綾は、どこからが本音でどこまでが建前なのか、いまだに不分明であった。上品な貴族令嬢かと思えば、魔性の女にも見える。
シュアンユエとシャオユは、これが初対面というわけではなかったが、話せば話すほど沼にはまっていくかのような息苦しさを覚えた。歴戦の勇者を前に、まるで戦場で死地に立たされているかのような。
そんなシュアンユエの様子を気に留めるでもなく、シャオユはこちらをまっすぐと見上げた。
「主上の下へ案内しますね。そちらに閣下の妹君もおられます」
そう言って先に歩き出したのは、シャオユの方であった。深紫の衣装がこれほど似合うものかと、そう驚くほどその後ろ姿は美しい。
星明りのためか、灯がないとは思えないほど回廊は明るい。白亜の建物とも相まって、まるで天河(天の川)の上を歩いて渡っているかのようであった。
それも相まって、前を行くシャオユの衣装に刺繍された、その瑞獣の紋様は、天駆ける鳳凰の如く煌びやかである。
そうして辿り着いた先は、アルタイア湖全域を見渡せる東屋であった。
星々の光さえ映し出すほどの水面の静けさに、思わず息を呑む。傍らから呼び掛ける声に気付かぬほどに。
ふと我に返ると、目の前には懐かしい顔があった。妹のツァオ・アイメイ(曹愛美)である。
彼女の纏う、その真紅を基調とした武官服は、騎乗がしやすそうな意匠であり、遊牧の国らしい機能美を備えていた。そしてその武官服は、アイメイ自身の魅力をも引き立てていた。
「元気そうだな、アイメイ」
「お久しぶりです、大兄」
そう言ってアイメイは笑顔を浮かべた。
普段は吊り目がちで、負けん気の塊のようなその眼差しも、笑うと目が糸のように細くなるところも、昔のままの妹の素顔であった。
変わったところと言えば、表情が少し柔らかくなったところだろう。
「アルタイアの族長を飼い馴らす、と妄言を吐いていたお前も、今は逆に飼い馴らされたと見えるな…」
心の中でそう毒づくと同時に、今の姿に安堵したのも事実だ。
野生の猛獣よりも性質の悪い、そのアイメイの気性の荒さを知りながら、彼女の周りには良き理解者がいる様子だったからだ。
「時間が取れたら、そなたの自慢話でも聞かせてくれ」
シュアンユエがアイメイにかけた、ただそれだけの言葉は、妹を思う兄としての言葉であった。
そしてアルタイア湖畔の東屋で、ある会談が行われた。
ジョンファ帝国(中華帝国楊氏周王朝)、アルタイア連邦帝国(阿爾泰亜連邦帝国)、イへ・モゴイド・ウルス(大墨戈威徳帝国)、この三国の大使が臨席し、ある決定が下された。
「三帝国連合の聖断」、あるいは「アルタイア湖畔の宣言」と、後に史書に記されることとなる、この取り決めの内容は以下の二点であった。
一つ、アルタイア湖畔を三国にまたがる聖域とする。
皇居としての管理権はアルタイアに属するが、原則天文学研究所としての使用が優先されること。
二つ、アルタイア海軍を主力とし、三国連合艦隊として西海遠征を行う。
この遠征は、アルタイア、ジョンファ両国の海岸線に存在する武装商人を掃討し、かつ大陸公路西端の大国、ボアス帝国ミスラーフ朝との海上交易路の開拓を目的とすること。
三国同盟が正式に成立した今、軍事的、経済的に覇権を独占したに等しいが、それは東洋に限った話であり、中洋に位置するボアス帝国もまた、伝統と文明を保持する強国であり、重要な交易相手国でもある。
東洋側の戦乱によって一時的に交易が途絶えたとはいえ、和を以て結ぶ利益が無くなった訳ではない。
アルタイアの皇帝、タカネが発言した。
「陸路の守護は、今後ともジョンファ・モゴイドの両国にお任せしたい。我が国は艦隊を派遣します。そして、ジョンファ帝国には我が国の艦隊が、外交と補給のために入港することを、今後ともお許し願いたい」
その言葉に対し、欽差大使(全権代理外交官)であり、枢密使(軍務大臣)であるシュアンユエは答えた。
「和平外交のためならば、アルタイアに対し必ず協力するように、と我が国の聖上は仰せだ。寄港に関しては、必ず果たされるよう、小官も尽力しよう」
モゴイドの大使、大将軍オコデイもまた言葉を発する。
「大陸公路と、草原の路に関しては、我が国の騎兵隊も役に立つだろう。鉄器(武具)と工兵をお貸しくださるのなら、より力になれるでしょうな」
タカネは力強くうなずいた。
「互いに利害があった方がよいでしょう。この盟約が一日でも永く続くよう、力を尽くしましょう」
この条約書には、三国連名の調印が成された。
この条約書はアルタイアの内閣書記官長、ユー・ウェンイの手で起草され、今もその書は三国の公文書館に保管されている。この条約書は、ユー・ウェンイ起草の様々な書類の中でも特に名文とされ、また、書法史に残る能書としても知られることとなる。
公用暦1184年4月末日。アルタイア建国と同日の出来事である。
そして、この会談より一月の後。
建国帝タカネは海軍司令長官であるジェン・ヘに対し、公式に西海遠征を命じた。彼が率いるのは、海軍四艦隊、交易船団八艦隊である。艦船総数は五百に届こうかというほどの規模であった。
そして、「黒地に朱鷲」の軍旗が海上に翻る。
アルタイア帝国暦元年、公用暦1184年の6月1日。アルタイア連邦帝国による、大航海時代の幕開けであった。




